心と体

親と子の関係の研究

久しぶりに自分の体の中に親と子の関係を教えてくれる動きが出てきました。世の中にただしそうなことはたくさんあっても、自分にとってその教えが納得できるものはあまり多くはありません。体から感じられるものは頭でそれを否定しようと思ってみても紛れもない実感としてあるだけに受け容れざるを得なくなるのです。この法則をうまく使いこなすことができると、自分が信じたいものを信じることができるようになります。

さて、親と子の関係ですが、1年半ほど前にも自分の中で納得する答えを得ていました。そして今回それをさらに違う形で実感をして、以前、気づいたことがやはり、間違いなかったのだということを再確認しました。

体に教えられた親と子の関係を良くする方法は、親は出しゃばらず、子供は親を心配せずに、ただひたすら自分自身の楽しさを追求するということでした。

人間誰しも親であり子供です。テレビドラマで赤ちゃんポストの扱いが問題になっていますが、今目の前に生みのお父さんお母さんはいなくても、自分がこの世に存在しているということは間違いなく誰かの子供なんです。

少し、話はそれますが、ドラマのことが問題になっていた時、施設出身の方が書かれた言葉を目にしました。そこで彼は自分にはたくさんの兄弟姉妹がいる、たくさんの親がいると書かれていました。この言葉を見て、あーはるかに自分よりも親と子のあり方について納得をしている人なんだなと思いました。

今の時代に武術が持つ力というのは、決して人を倒すための技術ではありません。便利な道具やたくさんのサービスが出てきたことで、自分自身が経験できなくなってしまったこと経験させてくれるために武術があると思うんです。親と子の関係についても、これまで私自身、それを心の底から考えるきっかけはありませんでした。それは見かけ上、平和なことに見えるかもしれません。しかしそれは、自分自身が親となった時、自分が子供に対して何ができるんだろうという問いを生み、迷いを作り出してしまいました。たくさんの本を読み、話を聞いても、それは頭に入る知識であり、それを信じることができないままでいたのです。

そんな問いを持っていた私ですが、この体を通して親と子の関係を学ぶことができました。それはきっと自分自身が持っていた問いに対して体が答えてくれたことなんだと思います。1年半前、その答えが感じられた動きというのは前腕と上腕を肘で分離するという動きです。

肘から先は道具、という一言を聞き、その言葉を実感したくて、あれこれ試していた時、ふいに前腕が楽になる感覚を得たのです。それまでの私は力こぶに対応されるような上腕に力が溜まりすぎていました。意識は上腕にあったのです。肘を切り離すことができてそれまで心配していた上腕はただそこにあるという状態になりました。結果、肘から先、つまり前腕がのびのびと動くように感じられるようになりました。

このとき上腕を親、前腕を子供と考えてみて親が子供に対する姿勢、子供が親を思う心、それを自分の中で一つ答えを得たのです。その後、たくさんの言葉をまた知識として得ることは続いていますが自分自身の中の確信が揺らぐ事は未だありません。

そして今回さらにそれを確かなものだと考える動きが出てきたのです。

上腕と前腕は親と子の関係です。そしてこの体にはその親と子の関係がまだまだたくさんあるようなのです。胴体と腕というのも親と子の関係です。この胴体をねじらないようにしてみると肩の動きが一変します。それまで上で引っかかりがちな肩がビクビクとしないしっかりとした胴体を得たことで、小さな円を描けるようになりました。この小さな円のおかげでしっかりと押さえつけられた腕も楽々と動かすことができるようになりました。

この動きが出てきて気づかされるのは、おそらく、日常の大半の仕事を機械や人任せにしていなかった時には多くの人がこの動きを当たり前に身につけていただろうということです。雑巾がけをする時、窓拭きをする時、荷物の上げ下ろし、そういう体を使わなきゃいけない場面で、つまりやすい肩をそのままにしてしまっては仕事になりません。肩が小さな円で動くことができると、四十肩五十肩の不安が全くなくなってきます。本来の体はよく動くものなんだと理解できるんです。

この肩の動きも親と子の関係なんだとわかりましたが、さらにその奥にも親と子の関係があったんです。後手に両手で片手を突き上げられて抑えられた時、それまでのどんな工夫でも、動くことができませんでした。自分の目の前にできない動きをおいてそれを乗り越える事こそ、経験であり、それをさせてくれるのが武術の稽古です。しっかりと押さえられたこの右手をどうしたら自由に動かすことができるんだろう、そんなことを考えながらいろいろ試してみたのです。

そのとき出てきた答えが抑えられた右手を捨てるいるということです。それまで自分の目の前に置いていた右手を、あえて相手に渡してしまうように背中に置いてみたのです。するとそれまであった不安がなくなり、気持ちの中で、晴れ晴れとしたものが生まれてきました。

抑えられている形は変わりません。むしろ、体の後ろへと手放しているので、体勢的にはより不利な状態です。しかし、心の中には不安がないんです。このとき自分の体と自分の意識の順番に気づきました。

相手と向き合う時、自分が相手のことを考えることが、結果的に自分の体を信頼していないということになっていたのです。これをあえて不利な状況に身を置いてみたとき、意識の方では何をすることもできなくなりました。何かをしてやろうという意識が手放されて、体の方がその状況を解決しに行ったのかもしれません。意識と体の間に親と子の関係を見つけたのです。

つまりこの時は意識が親であり、体が子供です。体を信用しようと稽古してきたつもりでしたが、根っこのところでは、自分の意識が何かをしなくてはいけない、という気持ちを捨てきれずいました。これは、口先では信頼してるよと言いながら子供の事を心配している状況とそっくりです。子供はそういう親の心に対して敏感です。無意識の心配だっても、任されていないということが子供の動きを止めてしまうのです。

もちろん今あげた事が正しいとはいいません。しかし、体から感じられたことは自分自身の中では確かなものなのです。そして、この先稽古続けていくことによって、
今こう感じていることが否定される事も出てきます。しかしそれは、新たな確かなものが出てきたことであり、間違いなくその瞬間自分自身の心の中に幸せな気持ちが広がっているはずです。

武術を通して伝えたいこと、それは自分自身との出会いです。今の時代たくさんの知識を得ることはできますが、このまま目に間違いやサービスに依存してしまうと、自分が何を感じているか、ということを見失ってしまうかもしれません。

身体を通しての学びは一生続けて育てるものです。自分自身の体の声を聞くことで、10年後さらに、細かなことに気づくことができるようになります。おそらく、これからの時代はこれまで以上に情報がどんどん入り込んでくる時代です。入れたくなくても入ってくるでしょう。その溢れる情報に溺れないためにこの体を使い、自分が何を感じ、何を信じるのかという力を得ることがこれからの時代には必要だと確信しています。

長々とすいませんでした。久しぶりのブログでつい伝えたいことが溢れてしまいました。またよろしくお願いします。

色々活動しています。
体験されたい方はどうぞ。
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楽しいから笑うのか、笑っているから楽しいのか、答えは見つかった!

お盆の休みが終わり、文化センターの講座、大人の武道塾が再開。
この休みの間ずっと、アタマにあった「顎のキャスター」について、ようやく、その働きを試す事ができる。どんなに立派な考えも、動きとして技に変わらなければ、ダメだもの。甲野先生の言われた「出来ねば無意味」は重い。
 
 
実感として、股関節や肩甲骨よりもさらに細かな動きができそうだ、と感じていても、実際に技の中でどれだけ有効なのかは試してみないと分からない。
いつものように話をしながら、柾目返しや浪の下、直入身など、シンプルな動きで試してみると、そのほとんどが「予想通り」で、平然を装いながらも内心驚きと安心で変な気持ち(笑)。
アタマの中でできそうだ、と感じて、ここまでぴったりと技にはまったのは初めての経験だったなぁ。
 
 
 
その理由はきっと、顎の関節は「キャスター」の動きという共通点から生まれたものだから。使うキャスターは股関節から顎に変わっても、働き自体はキャスターそのものだからだろう。
自分の中にもうすでに、「ある」、というのを実感するには股関節から顎への探り方は面白いので、おすすめする。
 
 
 
それにしても、改めて思うのは、昔から言い伝えられていることの大切さ。
良く噛んで食べなさい、とはきっと、みんな言われていると思う。でも、実際に、良く噛んでいるかと言えば、もう、良く噛まなきゃいけない食品も減っているし、どんどん、忘れられてきているんじゃないかな。
 
 
スルメのように噛めば噛むほど味がでる食べ物から、口に入れた瞬間、甘く、とろけるものばかりの世の中になった。
もちろん、そういう食べ物で育った私は、それに対して批判は出来ない。でも、顎の関節を通して自分の身体が分かってくると、この甘くて、口溶けのいい食品が結果として、自分の身体の力を忘れさせている事に気づいてしまったのだ。
 
 
これまで、子供たちには良く噛んで食べなさい、と言ってきた。でも、実際には私自身が良く噛んでいない。
 
身体の事を考えたりすれば、モグモグ噛んでいたものの、それ自体が楽しくて噛んでいるかというと、そうじゃないんだよなぁ。
自分がやってイヤなこと、面倒なことを必要なことだからといって押しつけても、そこに説得力なんかでるはずがないもの。うそつきだからね、それは(笑)。
 
 
 
でも、自分の顎を感じるようになって、もう、この顎をとにかくどう使えばもっと、しっかり、噛めるのだろうか・・・と考えるようになった。
とにかくこの顎を使うこと、はめておくことが、自分にとって、幸せなんだと分かってしまったから。
 
 
 
 
本屋さんに行けばたくさんの「幸せ本」がある。
そして、その多くは「笑顔」を忘れない、という事が書いてある。
 
人は楽しいから笑うのではなく、笑っているから楽しいのだ・・・と。
 
 
 
 
スピリチュアルな本も、身体と脳に電極をつけ、科学的に調べた本にも、人にとっての幸せは身体が先、と書いてあったりする。
もちろん、武術は身体から。
どんなに恐れが生まれる場面であっても、構えを崩さずにいることが、自分の心を持ち続けられるものとして、型が存在している。
 
 
 
・・・でも、実際にはどうだろう?
目の前にある単調な仕事、イヤな上司、本音と建て前ばかりの政治、病気やケガなどの個人的なアクシデント。
そんなものを前にして心の底から笑える奴なんて見たことがない(笑)。
 
 
 
その瞬間の自分が愉快ではない、というのを自分自身が一番良く知っているからだ。
 
武術はそこで、徹底的に試す。
口先で自分は幸せ、と言っても、抑えられた手を上げるのに、苦労するならば、それは、身体的に見て、イヤだと思っているのだ。
身体は言うまでもなく、無意識の塊。その身体がそれではダメだよ、とわかりやすい形で教えてくれる。
 
スピリチュアルに傾倒している人たちは徹底的にネガティブから目を反らす。
心の底からポジティブになっていればいいけど、知らず知らずの間に逃げになり、ネガティブになったりして、逆に働いて困っている人も多い。
 
まぁ、そういう経験から、一度打ちのめされて、あきらめることで、自分の持っていた力みが抜けたりもするから、一つの道では有ると思うけども。
今の時代はとにかく親切だから・・・。自分自身に向き合うよりも早く助けられちゃったりすると、甘えが出て、なかなか自分が持っている本当の力に気づくことが出来ないんだよなぁ。
 
 
とにかく、武術を必要とする瞬間は、誰にも力を借りられない瞬間。だからこそ、自分の持つ力に気づくことができる。
股関節から指の関節に気づき、顎にまでそれがある、事に気づけたのはもっと、より、小さく、働きのいい身体はないのか、と求めることが出来たから。
心配しなくても、みんな必ず持っている、そういうことを伝えられたらなあ、と願ってならない。
 
 
 
 
人は楽しいから笑うのか、笑うから楽しいのか。
その答えに今回、確信が生まれた。
 
人はやっぱり、楽しいから笑うのだ。
楽しくないのに笑顔を作っても、それは無意識的にはニセモノだもん。
 
では、楽しくないときには笑えないのか。
そう聞かれれば、そう、と答える。
でも、どんなときにも楽しさを作り出せるのが「人」なんだ、と今は言える。
 
  
 
西洋と東洋っていろんな意味で正反対。
望遠鏡を作り、宇宙の姿を探しているのが西洋的。それに対して人間の中にある宇宙に気づき、それを探るために外の世界に目を向けるのをやめ、目を瞑ったのが東洋。
 
 
 
人が感じる「楽しい」というところにもそれはつながっている。
 
この日本は変わった国だ。
東洋でありながら、今、世の中はほぼ、西洋的。
毎週毎月、たくさんの雑誌が出て、テレビも新しいチャレンジでさらなるおもしろさを提供し続けている。
僕らはただ、ここにいるだけでどんどん新しいなにかを与えられ、楽しくなることが出来る。
 
しかし、それは楽しくしてくれる誰かを常に必要としてしまうのだ。
しかも、楽しさを与えられている方は経験によって賢くなり、それまで楽しかったモノも慣れてしまって、分析しだすととたんに退屈になる。
こんなにも平和で豊かなのに幸せを感じられずに自ら死を選ぶ人が多いのは何故だろう、と思っていたけど、与えられる楽しさを追い越しちゃうんだな、きっと。
 
 
 
顎をはめるとどんな事が起こるか。
顎がガチッとはまった瞬間、そこに「愉快」な気持ちが生まれてくる。
どうやらこの身体はパズルのようなもので、骨格が収まる場所に収まると、その人にだけ分かる楽しさが生まれてくるのだ。
 
 
 
ちなみに頭蓋骨は22,3個の骨で出来上がっているのだそう。
その全てを知っているから愉快なのではなく、たった一つ、顎の骨が収まった、という実感だけでただ、愉快なのだ。
 
まず、自分の身体に愉快さがあれば、目の前がどんな事になろうとも、それに立ち向かっていく事が出来るかもしれない。
 
 
 
仏教の言葉に二の矢をつがない、というのがある。
どうも我々はイヤなことから全く逃れることはできないらしい。一つ目の矢はあたってしまうのだ。でも、その次の思いをどうするかは自分の力でなんとかできるものなのだ。
もちろん、やられてしまうことも有るだろう。
それでも、そのやられてしまう、という経験がまた、材料になり、違う自分、見えていなかった自分に気づかせてくれる。それが稽古だ。
 
 
 
骨をはめる、骨がはまる。どっちでもいい(笑)。
自分発の楽しさを作ることが今の自分にできるんだ、と分からせてくれたのが顎のキャスターなのだ。
 
 
 
今、顎関節症という病気が増えているらしい。
親知らずも問題だし、子供たちの中には永久歯が生えてこない子もいるらしい。
一つは顎の形が変わってきたから。
 
おそらく、それは正しい。外から見れば確実に顎の形は変わっているだろうから。
でも、「なぜ」そうなったのか。自分はどうなのか、という問いを持たなければ、自分の中に不安の種を蒔くだけになってしまう。
 
 
 
重力に従い、顎が落ちている。これは肩にも股関節にも起きていること。
下に落ちていくのだから、キャスターの構造が働くべきところに隙間が生まれる。隙間が生まれてしまえば、せっかくのキャスター構造も使えないもの。
無理に筋肉に頼ってしまうと、いつか、その筋肉を失えたときに痛みとして症状が現れてしまう。
 
 
 
つい、そうならないための対策は・・・と考えてしまうけど、これがいけない(笑)。
イヤなことは続かないから。
 
 
何度も言うけど、骨がはまると楽しいのだ。
骨をはめる感覚に気づければ、やめろ、と言われても、つい、やってしまうだろう(笑)。
そして、いつしか、それが習慣となり、骨格は本来有るべきところに落ち着くはず。
その「結果」無駄な力みを生む筋肉はなくなり、痛みは出ない。
結果としてそうなってしまう、というのをワスレてはならない。
 
 
 
そうそう、顔のお手入れに関してはなんと言っても女性にはかなわない!
我々男性はこの顔よりも外にあるモノに注目しちゃうから。
 
毎日の肌のお手入れはもちろん、しっかりと顔の運動を行い、表情筋を鍛えている人も多いかもしれない。でも・・・・。
 
きっと、これは、危険なこと!
 
なぜなら、たくさんの筋肉はたくさんのトレーニングでつけることができるけど、それはトレーニングをやめた瞬間、脂肪へと代わり、おもりになる。
顔の筋肉が落ち、下へ下へと落ちていってしまうかもしれないのだ。
 
顔は「結果」なのだ。
ちゃんと骨格をあわせておけば無駄な筋肉は必要ない、と身体は判断する。
明日、明後日には変わらないけど、骨格と筋肉と脂肪の関係は10年、20年経ったときに大きく違ってくるはず。気をつけたほうがいいです。
 
 
 
それにしても人間の身体は不思議。
このアタマの中にも蝶形骨という骨がある。骨盤を思い出してみてほしい、あれも、蝶のような形をしてるよね。
 
 
 
西洋人は宇宙という全体を求めた。
東洋人は人間の中に宇宙を見つけた。
そして、それはどちらも正しいんだと思う。
 
フラクタルという考え方があって、全体と一部には関係がある、というモノ。
つまり、全体を整わせようとするなら、そのごく一部を整わせればいい、という事になる。
 
股関節も肩甲骨も、指の第三関節も、顎もキャスターの構造を持っている。
だからこそ、どこのキャスターでもそろってしまえば、身体全体が整ってしまうのだろう。
 
 
 
幸せになりたいのなら笑顔でいなさい。
なんだかんだ言っても、一言で言えば、こうなっちゃう(笑)。
しっかり、噛んで、しっかりはめて過ごしましょうね。
 
 
 
そうそう、小顔矯正の整体も顎関節が関係しているって。
やっぱり、感性は女性にかなわない(笑)。
 
 
 
 
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9/22 甲野先生の名古屋講座
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超長文、力の種類と関節との関係について

お盆休み、せっかくなので、今考えていることを少し、丁寧にまとめておこうとおもう。
 
甲野先生譲りなのか、動きの変化が激しい。
とにかく、自分の身体をもっと、拓いていきたいのだ。きっと、甲野先生に出会わなければこんな考え方は持てなかったはず。
手に入れてきたモノを必死になって守る生き方になってしまっただろう。
 
もちろん、その生き方が間違い、というわけではない。
ただ、歳を重ねることでつい、守りに入ってしまうのが人間。だって、僕らは壊れゆく身体と共に生きているんだから。
 
 
 
壊れていく身体をネガティブに考えれば、どうしても、現状維持を一番に考えるだろうし、一瞬でも自分の力を失わせる選択はしないはず。
ちいさな選択、行動が徐々に習慣となり、守りに入ってしまうのだ。
 
残念ながら、ネガティブに守りに入って幸せそうな人はいない。見たことがない。
 
 
 
 
壊れていく身体はネガティブなものではなく、実は超、ポジティブ、ありがたい事のように思えてきてならない。
もともと出来ないことだらけだった自分が、甲野先生から自分の身体を見直し続ける、という稽古法を学び、実践したところ、今度はこの身体を悲観的に見ることが出来なくなってしまった。
なかなか表現がしづらいんだけど、とにかく、身体からみた自分はどう考えてもすごい奴だ、としか思えなくなってしまったのだ。
 
 
 
身体という一面からだとしても、その身体だけでもう、十分とも思える信頼を自分の中に見つけられたのは大きい。
でも、なぜ、こんな気持ちになれたんだろう・・・。
 
じっと、心の内にあるモノを観察してみたら少し、理由が分かってきた。
今日はそれをなんとか、言葉にしてみようかなぁ、と思う。
 
 
 
 
昨年末、稽古納めの時に「肌の働き」に気づくことが出来た。
相手を動かす際に衝突し、力で相手を動かすしか方法がなかったところに、いきなり現れた術理、それが「肌」だった。
この半年、その肌をずっと見続けてきて、それまで、自分の内面にばかり意識を集めていたことに気づかされる。
それもそのはず、甲野先生の不思議な技、術を学ぶには目を瞑り、じっと、自分の身体の感覚に耳を澄ませ、身体の声を聞くことが一番だと信じ続けてきたからだ。
 
しかし、肌は外にあるもの。
肌の術理は相手の肌の声を聞かなくてはいけないのだ。
 
 
 
相手の肌に指先が触れる。
その際の僅かな圧力。
その圧力を手がかりに相手の肌がもっと動きたい方向を探り、後ろからそっと背中を押すように力を加える。
 
この時、意識は相手の肌に集中し、自分の身体の事はすっかり忘れてしまっている。
甲野先生はよく、結果的に、という言葉を使われるが、そんな状態かもしれない。相手の事を一番に考え、それを壊さないようにすることで、「結果的に」自分が整ってくるのだ。
 
 
 
 
とにかく肌の発見は大きかった。
それまでの筋肉主導の動きから一気に世界が広がったのだ。
 
そうそう、この「世界が広がる」という言葉は新しいモノに出会ったときに良く聞くフレーズだけど、実は私はあまり、この言葉を信用していない(笑)。
 
何故かというと、アタマで世界が広がっても、実際に「行動」として変化がなければ、結局、この世界では同じだからだ。
アタマでは分かったけど、できません。
これは実は身体ではわかりません、という事。肉体的にはぜんぜん、視野は広がっていないもん。
 
 
 
その点、武術の稽古はすばらしい。
自分の世界が広がった、とわかった瞬間、自分のこの身体が動く世界が広がるのだ。
その結果、それまで出来なかった動きが出来るようになる。
努力して練習して乗り越えるのではなく、気づいた瞬間、自分の身体が動くのだ。
 
 
 
この「できる」という経験はとても大切。
分かるだけで出来る、というのはつまり、もう、ずっと前から、できる要素はあった、という事。ただ、そのできる自分に気づかなかった、という事なのだ。
 
甲野先生の稽古法はこんな経験を何度もさせてくれる。
自分には出来るはずがない、と自己否定の塊だった私のアタマも、何度も「できる」を経験することで、どうも、自分は自分のことを知らないだけなのだ、と身体の言うこと、やることを信頼せざるを得なくなってしまったのだ。
 
 
 
皮膚の術理で分かったのは皮膚は「形の力」を引き出してくれる、という事。
今、多くの人が頼りにしているのが筋肉の力。
筋肉の力ってのは努力の力、続けることが難しいのだ。
 
 
  
 
私たちは「力」と簡単に口にしているけど、どうやら力には種類がある。
今、分かっていて、使い分けているのは4つ。
「重さ」、「筋肉」、「形」、「意識」だ。
 
 
 
そして、どうも、それぞれ、「関節」と深いつながりがありそう。
長くなってしまいそうだけど、お盆だし、いっか・・・、一気に力と関節の繋がりもまとめてしまおう。
 
 
 
まずなじみの筋肉は「肘」のタイプ。
ヒンジ型の関節だ。
ヒンジは振り子のように左と右を行き来する。
 
筋肉はトレーニングで増大していくけれども、同時に急速も必要になる。
アタマで考えれば、努力だけを重ねれば良さそうだけでも、勉強する努力だけではダメなのだ、しっかりとリラックスする努力も必要なのだ。
 
正反対の目的をどう行い、どうバランスをとるのかがヒンジ型では大切。
そして、同時にその正反対の行動を何のために行うのか、という大きな目標をしっかりと見続けなくてはいけない。
 
 
このヒンジタイプの関節は肘、膝、手足の指の第2関節、それらが同じ動き、働きを持っていそうな感じだ。
 
 
 
ヒンジ型の関節はいつまでたっても「バランス」をとり続けるのが宿命。
そして、私たちの身体は常に、動き続けている。
動きがある以上、そのバランスをとり続けるのが肘や膝なのだ。
いつまでたっても、ゴールがない、そんな役割を持っていると言える。
 
ゴールを求めて生きている人にとって、ゴールのないモノに頼ってしまうと、これは、とっても、辛いこと。
生きることが「苦」という言葉はこんなところから生まれてきたのかもしれない。
 
 
 
 
次に解説をするのは「肌」、「形の力」だ。
私たちの身体を覆っている皮膚。全身、どこに触れても皮膚にあたるが、一番皮膚の力を発揮する部分が手首、足首の関節。
他の関節では皮膚の力を発揮するよりも他の力が強く出て来てしまうのだ。
 
 
 
手首の関節、足首の関節はそれぞれ、8つ、7つの骨が石垣のように組み上がって出来ている。ピラミッドといった方がかっこいいだろうか(笑)。
 
手首、足首の関節はクルリクルリと表と裏がひっくり返る動きが出来る。
このひっくり返る動きは他者が止めようと思ってもなかなか止められない不思議な動きなのだ。
 
 
 
甲野先生は武術の動きを魚の群が瞬時に向きを変える動き、と言われたが、苦労をしなくても、この手首、足首は常に、たくさんの骨がそれぞれの役割を知って、ちゃんと、一つの石として仕事をしている事がわかった。
 
自分の中に「無い」動きを求めるのと、「有る」動きを求めるのとでは気持ちの持ちようが違う。
「どんな人の中にも」すばらしく動ける身体がちゃんと「ある」、それを是非、経験してもらいたいなぁと思う。
 
 
 
ピラミッドやお城の石垣、それらは強大な存在感をだしているもの。
数千年を経過しても、そこに存在し続ける力がある。
手首にある力もそう。
もう、ここに存在している。
 
一度、存在してしまえばそれを壊すことは難しい。
この意味も武術の稽古で体感することが出来る。
 
 
どんなに押しつぶされても、その手はちゃんとそこに、有り続けることができる。
問題は「移動」。
この手の形はその瞬間、その場所にあるもの。移動するモノはなにもないからこそ、そこに存在し続けられる、そんな気がする。
その場に、その形でいる事がベストだからこそ、壊れずにすむのだ。
 
 
ただ、武術的に、抑えられている状況をなんとかしたい、逃れたい、とアタマは言い続ける。
この時、「移動」とはなにか、と考えさせられた。
 
 
 
普通、手が動く、というのは肩や肘で手を引こうとする。
実は、無意識の時にはそうでもないんだけど、相手に抑えられてしまったときなど、つい、動かしやすいところで動いてしまうのだ。
 
しかし、それでは相手にも簡単に察知をされ、止められる。
結果的に衝突が起こり、力比べになってしまい、失敗してしまうだろう。
  
 
 
手首の立場にたってみると、もう、そこでゴールなのだ。
それでも動く、というのは、それまでのものを全部すて、作り直すことが必要になる。
材料は同じ石でもいい。でもいったん、今の形を作っているモノをばらして、組み直すのだ。使い回すことは考えない。常に、「新しい手」を存在させる、そんな気持ちになってみるといい。
 
 
実は手をひっくり返す、という動きはこの壊して、作る、という作業をいつも行っているのではないかと思う。
魚の群が向きを変えるのも、しっかりとしたリーダーがそこに必要な訳ではなさそうだ。
抑えられている状態で手をひっくり返すとき、相手の力がたくさんある手首の骨のどれかにかかってくる。
それでも、他のモノで対応し、新しい手を作ることはそれほど、苦にならない。
むしろ、普通に移動をさせようとしてまったく希望が持てなかった状態でも、意外と普通に返すことが出来るようになってしまう。
 
 
 
そして、ここでも「習慣」の力がすごい。
しっかり抑えられた手を返す、という事を繰り返し行っていると、アタマが変わってくる。
 
どんなに抑えられても、全く動けなくなる状態ってないんだ、という事に。
 
いつでも動いていたい、それはきっと、どんな人も持っている願いだろう。
その願いが叶うんだ、とわかる経験が意外と簡単なんだよなぁ・・・と言ってもきっと、簡単には信じてくれない。
 
でも、信じない、疑う、そんなスタンスぐらいがきっと、ちょうどいい。
なぜなら、どんなに疑ったとしても、自分の手首、足首を通して動きを感じたとき、自由であり続ける自分を感じられると思うから。
 
 
 
さて、ようやく二つ(笑)。
スピードを上げて説明を続けよう。
次はキャスター系の関節の話。
キャスター系の関節の代表は股関節。あと、わかりにくいかもしれないけど、肩甲骨、手足の指の第三関節、顎の関節もそう。
 
とにかく、キャスターを想像してもらいたい。
自分の身体に高性能なキャスター構造がたくさん、存在しているのだ。
 
外からどんな力を加えられたとしても、するりと流してしまうのがキャスター構造。
タイヤが地面についてさえいれば、力はとどまることなく、流れ続ける。
そして、壁にぶつかるまではひたすら、外の力に従い動き続けるのがキャスター構造だ。
 
 
 
さらに、傾斜がついていれば、その傾斜の力までも自分のモノとして使いこなせてしまうんだから、すごい!
そのすごい構造がこの身体に入っているのだ。
肌の力がそこで完全し、動かないモノとは逆にキャスターの力は重さを持つ、身体を常に動かしてしまう力という事になる。
重さを持つモノが動く、動けば、そこにエネルギーが生まれる。それが、キャスターの持つ力だ。
  
 
 
しかし、この高性能な構造を意識して喜び使っている人は少ない。
持っているのに、使っていないのだ。
これは、これまでの関節の話と全く同じ。自分には出来る力があるのに、それを経験した事がないから、それを認識できない状態なのだ。
 
どんなに力を持っていても、気づいていなければ使えない。
どんな多くの遺産を受け取れるとしても、それを知らなければ、自分は「持っている」という認識にはならない。そんなものかもしれない(笑)。
 
 
 
この世界にはたくさんのストレスがある。
人間関係が複雑になり、たくさんの力を得たことで、そこから生じる様々な負の問題もそう。そもそも、この身体自体、壊れ続けるという負の面を持っている。
そのあらゆる力も身体が持つキャスター構造に任せてしまえば、動きに変えられる、それを学ぶ事ができるようになる。
 
どんなに強い力で押されたとしても、クルリと回せば力は逃げる。ダメージはゼロ。
理想をそこに置いたとしても、それを実現する構造がなければ、もちろん、叶わない。しかし、それを実現するための構造はもう、ちゃんと、この体の中に有るのだ。
それがわかってくると、自信を持たないわけには行かなくなる(笑)。
 
私のアタマはいつも、疑いを投げかけてくる。
自分には出来るはずがない・・・って。
でも、身体を通してのたくさんの経験に照らし合わせてみると、なんとかなっちゃうんじゃないかなぁ、って答えの方が強くなるのだ。
 
結果的に気持ちが楽になって、前を向くしかなくなるんだけど、最初から前を向こうと気持ちだけで立ち向かっている場合とでは全く意味が違ってくる。
前向き、ポジティブシンキングには同意をするけど、それは「結果的」な時だけ。根っこにネガティブを持っている人はやめた方がいい。根っこにある意識は必ず芽を出し、苦しめにくるから。
 
 
 
 
実は最後の「意識」の力と関節ってのにはまだ、すこし、納得にまでたどり着いていない。
股関節、膝関節、足首関節に関して言うと、自分の中で納得がいき、この時点では間違いのない事。どんなに人に言われても、自分の中で体験、という確信がある。
どこにもそんな理論が有るわけではないけど、自分の身体で確かめた、心地よく、軽やかに動くために必要な事だ。
 
身体の事が分かれば分かるほど、昔からの言い伝えのお作法が非常に大切だったことが分かる。どうやら、私たちは便利な機械やサービスによって楽に生きていく事ができるようになったけど、それらを失った瞬間、なにも出来ない人になってしまうリスキーな生き方をしてしまっているみたいだ。
 
世の中に便利なモノや仕組みが無かった時代は、自分自身に頼ることでしか幸せになれなかったのだろう。
そして、自分に目を向け、求めてみた事でみつかった様々なことをお作法として色々と残してくれていたはず。
機械によって効率化が進む中でどんどんと切り捨てられていくお作法だけども、まだ、私たちにはちゃんと、身体が存在している。
この身体がここにあるまでは、いつでも、その力を借りることができるはずだ。
 
 
 
 
もしかしたら機械やサービスでは解決できない問題に直面した人から順番に身体への信頼を取り戻していくのかもしれない。
武術を必要とする場面は常に、不便な場面。だからこそ、身体に意識を向けることができる。
 
甲野先生に出会う前、とにかく、鈍くて、身体の感覚どころか、手順もろくに覚えられない私が今、こうして自分の身体を通して楽しく暮らせるようになったのは、こんな考え方の変化があったから。
出来なかった自分をよくしっているからこそ、自信を持って言える。
誰でも、自分はいつでも動くことができ、何者にも壊されない存在でいられるんだって気持ちになれるって事を。 
 
 
 
きっと、この感覚を確かにするのは「背骨」。
命の元に限りなく近い背骨が動き、勢いを出し続けられるって分かったとき、また、言葉にしていこうと思う。
 
 
 
 
さて、このあたりで今日はいったん締めることにしよう。
身体の感覚をどう言葉にして伝えていけばいいのか、できないからこそ、試行錯誤でやっていくだけ。
ながながとおつきあい、ありがとうございました。
 
そうだ!甲野先生が名古屋と浜松にやってきます!
詳しくはリンク先のホームページでご確認を。

手指のキャスターを身につけてできる事。

無意識の動きと意識的な動き。
意識できないからこそ、無意識の動きになるんだけど、意識と無意識との間をつなぐモノが身体ではないか、と思うようになってきました。
 
 
 
手指のキャスターが働くようになって、自分で自分の動きを見ても「速い」と思うようになってきたんです。
ただ、この手を出して、目の前のコップをとる。
その時の動きが速くて、なめらかなんです。
 
武術的に試してみると、手指のキャスターから動いたときには相手もその手の初動を掴みきれずに、崩されてしまう事がなによりの証になっています。細かい理由は分からないですが、まだまだ自分の身体に残っている可能性を感じさせてくれます。
 
 
 
さて、この手指のキャスター。
この動きをより、認め、使いこなすことでいったいなにが出来るようになるのか。
それはやりたいこと、やってみたいことを無意識のレベルで行っているレベルに引き上げることができるようになる、という事。
 
例えば自信のない時に誰かを訪ねるとしましょう。
ドアをノックします。
この時、恐る恐るノックをしていませんか?
もし、次に起こる出会いに全く恐れを持っていなければノックは全く自然に、むしろ、気にすることなく、コンコンと行うはず。
 
こんな時、人は、大丈夫、大丈夫と、心に暗示をかけようとします。
実際に手のひらに人の字を書いて飲み込んだり、お気に入りの音楽を聴いて、気分を高めてから、向かったり。
 
しかし、どんなに心に暗示をかけても、心の奥の奥にまである恐れは相手には見えてしまいます。
きっと、ノックのコンコンも、相手の無意識にはこちらの恐れが届いてしまっているんでしょう。
 
 
 
この時、手という具体的なものの動きを高めるのです。
手指のキャスターはそれをさせてくれます。
 
テレビや映画の俳優は自然な動きを求めて日々研究されているはず。
しかし、その自然さを求めるのは大変なようで、みんながみんな、自然体の演技を身につけられるかというと、どうもそうではないようです。
 
しかし、この手指のキャスターを身につける事で、自然な動きに一歩近づくのです。
 
武術の動きは自然さへとどんどん自分を近づけてくれます。
面白いのはその自然さへのスピードがドンドンドンドン加速度を上げていくのです。
甲野先生に出会った頃、なにをすべきかと考えてもなにも手がかりがなくなってしまったんです。
動きが変わるきっかけとなったのは、「どう動くか」を求めるのではなく、自分が「動いていない」と認める事だったんです。
 
 
 
自分が動けない、と認められると、今度は自分の身体になにがあるのかを見ていくことが出来ます。
最初、数年に一度しかなかった大きな変化が、今、毎月、毎週、いや、稽古する度に新しい動きを見つけることが出来るようになりました。
 
この一つ一つの発見、気づきはどんなにお金を出しても手に入れられない自分自身の成長を感じさせてくれます。
この成長が死ぬまできっと、続くんだろうなぁ、と実感しました。
そして、この楽しさをもっと共有したい、と願い、今の仕事を始めています。
 
 
 
興味があれば、ぜひ、お越しください。
身体を軽やかに動かしていくのは自分自身の責任であり、人生のテーマともつながるものですから。
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自動化の話

今日は自動化の話。
自動化された動きはとにかく、気配がなく、自然なんです。
しかし、自然な動きを求めてみても、なにかをしようと考えた瞬間、不自然な動きとなってしまいます。気配が出て来ちゃうんです。
 
 
 
自分の中に取り込まれた自動の動きは疑いのない動きです。
その自然な動きに近づくための鍵になるのがキャスター、それも、手の中にあるキャスター、第三関節なんです。
 
気がついていないだけで、みんな自動化された動きを持っています。
朝起きて顔を洗い、ネクタイを締め、通い慣れた道を進み、学校、会社へ行きます。これ、全部、無意識化された自動の動き。それらは全部、気配のない自然な動きです。
 
きっと、技術のある俳優さんならその瞬間、その人になりきり、自然な動きが出来るんでしょうね。しかし、私たちはなにかをしよう、と考えてしまうと普段自分が行っている動きも、不自然なものになってしまいます。いったい、なぜ、出来ている動きが出来なくなってしまうんでしょうか?
 
 
 
カラダの構造が分かってくると、まだまだ自分のカラダは動くって気づきます。自分が「持っている」ものを今は気づかせてくれる人が少なくなりました。たくさんの便利な機械は増えましたけどね。
 
それはそれで喜んで、楽しんで使えばいいんです。でも、自分への信頼をなくして生きていくことだけはしたくないなぁ・・・って思います。
 
 
 
第三関節から指を動かしてみると、その先にある第二関節、第一関節が楽になるんです。楽になるってのは大切です。楽になればなるだけ、気にすることのない動きになっていきますから、自然な動きにつながるのでは・・・。
 
 
 
無意識の時には指先から動いているんです。きっと。
でも、武術が必要な場面って、敵が目の前に現れた緊張状態の時です。余裕がある時には夢を描いて、それに身を任せればいいんです。しかし、現代ってそのリラックスをする時間と場所が限られています。
だからこそ、自分のカラダを信頼し、動く力を身につけることが必要なんだと、考えています。
 
 
 
実は身体から見直すって意外と簡単。
徹底的にこの身体の動きを見直すだけですから。
手指の第三関節から動く、と決めたらそれをちゃんとやる。そしたら、ちゃんと、第二関節が整い、第一関節も楽になります。気持ちの持ちようなんか、いりません。
 
 
逆に、考えすぎてしまう人は、自分にはできない、これではダメだ、と身体の事から気持ちの方へと意識を置きすぎてしまうんです。ちゃんと、狙って、そこから動く、と決めてやるだけ、それだけです。
 
 
 
第三関節からの動かし方を紹介して今日は終わり。
第三関節をまず、動かそうとしても、実は気づいていませんが、結構、指先にもう力が入っちゃっているかも。
指先をのばしたまま、指の付け根から折り曲げたり、起こしたりしてみると、それだけで第三関節が生きてきます。指回し体操をしても、第三関節がよく動くかも。
 
 
 
でも、きっと、一人でクイクイ指を動かしてもこれでいいのかなぁ、って分からないはず。自信が持てません。
 
だから、武術的練習なんです。
この手を抑えて動かさせないようにしてくれる敵がいれば、ちゃんと手指を動かしたときには、動けた、という結果という形で、しっかり自分が第三関節から動けているというのがわかりますから。
 
 
 
もちろん、一人でその感覚が分かるようになれば、なにをしているときにも、指先に軽やかさが感じられますよ。
 
そうそう、きっと、鉛筆を持って字を書く、ってのは、この第三関節が大切なんです。子供の頃、しっかりと鉛筆を掴むように言われても、それでは書けないんです。だから、指先でくるくる小さなカッコ悪い文字しかかけなかったんだなぁ、って。
 
でも、それは当然、だって、指が掴む動きしか出来なかったんですから。でも、第三関節が動くと、鉛筆をしっかりとホールドしたまま、手を素早く動かすことができます!
 
 
 
印刷が簡単に出来て、手書きの必要がどんどんなくなっていく時代。でも、自分の手を使って、動けているって感じられると、なんといっても、楽しさ、それも、自分だけの楽しさが内側から出て来ます。そういう事がもっと、もっと、伝えられればと思っています。
 
 
 
では、ありがとうございました。