心と体

反省とギフト

日本人は反省しすぎる。
もちろん、全ての日本人がではない(笑)。
少なくとも、私の場合、外へ目を向けるよりも、内側へと気持ちを向けてしまうのだ。
外国人は反省しない、というと怒られるだろうか(笑)。
しかし、まぁ、こういう話もあるかな?と軽く聞いてください。
私のように、反省癖のついている人たちにはいい話だと思う。
外国人は肩が凝らないらしい。
そもそも、言葉が無いとのこと。痛いところ、気になってくるところは肩ではなく、背中なんだとな。
しかし、日本に馴染んで生活をしていくと、立派な肩こりが生まれてくるらしい。ご愁傷様(笑)。
 
 
 
肘の使い方を丁寧にし出して、原因がわかった。
そもそも、肩へと力が流れないのだ。
肩へと力が流れると、当然その力を処理できなければ、肩に余分な力が居座り続ける。それが肩こりの原因だ。
日本人は、内側へと力を使う癖がある。
外国人は逆に、外側へと力を使う傾向がある。それこそ、文化の違いなのかもしれない。表面的なものだけをみて違いを分析しても、ケンカの種しか生まれないだろうなぁ。
 
 
 
外へと力を出していく動き方。実はこれ、私たちにとっても、馴染みの深い動きなのだ。決して、自分と「違う」動きではない。
 
 
 
実は、子供は外へと力を使っている。
その子供の動き方、考え方こそ、肘から外へと力を出している動き方だった。
 
 
 
肘を意識して、前に出そうと動いてみると、なんだか、懐かしさが湧いてくる。
あぁ、30年ほど忘れていたぞ、と(笑)。
 
 
 
動き方が変わると、考え方も変わる。
反省しない、というと、勝手な奴だ、と思われるかもしれないが、外へ出していく自分勝手なエネルギーを「プレゼント」と考えてみたらどうだろう?
 
 
プレゼントやギフトに衝突は生まれない。
力を奪い合い、引っ張り合いをして、生まれた歪みをなかったものとして、体にため込むのが、「日本的」病気の原因かもしれない。
 
プレゼントとギフトの送りあいの衝突は楽しそうでしょ。
  
 
 
日本人がいけない、というのではない。
内に向けた意識が途中で止まって、堀下がる事が止まってしまうと「我慢」になることがよくないのだ。
途中で居着かせず、ドンドン掘り下げていくと、限りなく、奥へと入っていける。
自分の知らない世界は外だけではなく、内側にも広がっているのだ。
 
 
 
これはまるで、宇宙のよう。
外へ広がっている宇宙。
そして、ミクロの世界に広がっている宇宙。
相対性理論の世界と、量子論の世界を体で味わえるかもしれない。
 
まとまりがなくなってしまったが、最後にこんな動画を紹介して、終わろう。よく、紹介するので、またか!と思わないで欲しい(笑)
肘を意識して、眺めると、違った気持ちになれるかも。
 
Power of ten

楽しいってどういう事かわかるかな?

楽しいってどんなこと?
楽しいってどういう事かわかる?
幸せってわかる?
お金があったり、友達の数じゃないんだ。
もちろん、お金がなくて、仕事もなくて、友達もいなければ不安だよね。
だけど、そんなどん底から、抜け出した時、当たり前だった事が幸せってわかるでしょ?
サッカーして楽しいのはなんで?
点が入るから?
違うよね。
勝つか負けるかわからない相手と、ドキドキ試合をするから楽しいんだよね。
日本代表が素人の中学生と試合しても、楽しくないでしょ?
みんなわかっているはずなのに、なぜか、間違えちゃうんだ。安心を先に求めちゃう。
ゲームや漫画は楽しいでしょ。
でも、それは、切磋琢磨して、競い合ってるから。楽しいものが残っているだけ。
野球マンガなら、絶対流行るなんてものはない。大切なのはバランス。ドキドキできるかどうかなんだ。
つまり、楽しい、幸せってのは自分の限界から、ちょっと先を見れる時に感じられるものと言えるんだ。
決して、安心から生まれるものではないんだよ。
どんなときにも、ニコニコ楽しく、充実している人がいる。失敗に負けずに、バネにして、また、頑張っている人が。
とっても楽しそうだし、幸せそうだ。
そんな人になりたい!
そう思っても、なかなか、なれないのが、現実。
その理由は限界を出し切れないからかもしれないよ。
でも、その理由は君のせいじゃない。
世の中がそういう仕組みになっちゃったんだよね。
限界を感じさせずに、安全に、暮らせる世の中がいいと思って、僕たち大人が作ってきたんだ。
今はとっても便利になってしまったよね。
限界を出し切らなくても、ボタンを押せば、機械が動く。
知りたいことができても、図書館や人に聞かなくても、インターネットからすぐ、答えが出てくるようになった。
全力を出したくても、出せなくなってしまったんだ。
昔、僕が子供の頃はたくさん遊ぶ時間があった。
それこそ、全身を使ってクタクタになるまで遊べた。
でも、今は遊ぶ時間も勉強時間にやっつけられている。
ドキドキする危ないことも、やれないくらい、安全だ。
限界をしらないままで大人になっちゃってるんだ。
限界を知らないって事は本当の楽しさも知らないって言うこと。
すると、いい大学にいけば楽しいはず、お金持ちになれば楽しいはず、残念ながらそんな単純ではないんだよね。
多くの大人が健康が第一、って言ってるよね。
でも、その健康も怪しいから、気をつけて。
難しい事を話してるけど、大切なのは限界が楽しいってことに気づくこと。
武術の稽古はまさに、その限界を教えてくれてるんだ。
だって、いつも一人だし、武器もないでしょ。
その状況で「もう、ダメだ」って思うかもしれないけど、ちょっと頑張って力を入れたら、なんとかなるかも、ってわかるよね。
そうやって、自分の中の限界を取っていくんだよね。
大人には難しい事でも、子供の心を持っている君たちならすぐわかるはず。
自分を信頼しながら、諦めない大人になってください。
と、珍しく子供達に語っている事を書いてみました。
簡単すぎました?

3年後、後悔しないために

稽古会は驚きの場である。
カラダラボで開いている稽古会。
ただの体を動かす体操の会とは全くちがう。
そして、理想だけ高い稽古でもない。
なにも考えずに体を動かしても、無意識の自分はなかなか、変わらない。
何年も何十年も変わらない自分をみて、自分に出来ることと、出来ないことを作ってしまっていないか?
自分の中にこうなったらいい、ああなったらいいのに…と、期待や希望はあっても、それを自分で解決してやろう!という気持ちが少なくなってはいないだろうか?
昔の自分はそんな感じだった。
そして、いつしか、自分がやりたいことを考える事もやめてしまった。考えなければ、がっかりもしなくていいから。
身体を動かすことで、感性がグングンと高まっていくことを知って、ようやく、やりたいことをしてみよう、という気持ちがわいてきた。
人間らしい行動ってなんだ、と難しい事も考えるようになった。
いつの間にか、その他大勢の一員としてでしか、自分を見れなくなっていたわけだけど、それにすら気がつかずにいたわけだ。いや、これもまた、考えたくなくって目をそらしていたのかもしれない。
身体って、すごい。
頭でっかちになってしまった現代人だけど、身体はちゃんと、残っている。
手足を改めてみてみれば、そこに心を見つけることができるのだ。
丁寧って事はどういうことだと思う?
黙々と疑いを持たずに練習する事が良い事、と思わされている。
でも、それは考えると言うことを放棄したことかもしれない。
教科書を通して、先生の言うことに文句を言わずに聞く、という勉強法に洗脳されてしまったからだろうか?
時間だけはドンドンすぎていく。
3年後、自分が向き合った時間を納得したものにするためには、今の自分の生き方に向き合う必要がある。
私が甲野先生に出会ったのは22才。失うものはなにもなかった。
だからこそ、全く新しい動き方、考え方にも入っていくことができた。
大人であればあるほど、捨てることは難しいかもしれない。
でも、今の自分の考え方、決断が未来の自分を作ってしまうのだ。
言葉で反省をしたりするのは簡単…。
しかし、なかなか、それを身体で感じるのは難しい。
武術はそれを自然に感じさせてくれる。
私の思い描いている稽古会は、ひたすら、動きの質を高めていく事だけ。
言葉だけを見ると、心の通わない冷たい稽古のように思えるかもしれない。
でも、実際は全然違う。身体が動き、感性が高まるにつれて、自分の心を見ることができる。
普通の練習会にある上下関係や損得の関係は、どうしても、余分な頭を働かせてしまう。
先生に遠慮し、聞きたいことも聞けない練習。
まさに、それが、自分の可能性を閉じ込めてしまっている。
練習の仕方を一気に変えるのは怖いかもしれない。
私自身、今の考え方で練習を始めたとき、道場で浮いてしまった。
道場の空気も読まずに、勝手な事をしてたら、そりゃ、そうなる。
でも、それに負けずに、稽古を続けてこれたからこそ、今、自分の体に正直でいられるようになった。
勝手な事をしても追い出されなかったのは、正直、ラッキーだったからだと思う。
普通では考えられない。
あれから、周りを見渡しても自由を許してくれる稽古の場を私は知らない。
周りにないのであれば、作るしかない。
それが今の稽古会。
とにかく、なにからなにまで、普通の練習とは違うと思ってください。
教える技術はありますが、そんな事はどうでもいいんです。
大切なのは、一人一人の体が教えてくれることがある、と言うこと。
つまり、自分をどう信じるか、という事です。
どんな悩みを持っていても解決していく方向が見つかります。
なぜなら、自分の身体に問いかければいいのだから。
もう、知識はいりません。
逆に、今、持っているたくさんの知識が、身体の感性と合体する事によって、考えていた以上に働く事ができます。
稽古会に参加しても、形に残るものはなにもありません。
段位のような資格もありません。
たくさんの段位を持ってきても、誰も、スゴいとほめてさえくれません(笑)
しかし、それらを手放すことで、ようやく、身体そのものと向き合うことが出来るのです。
新しい感覚、世界を感じさせてくれるものは多くありません。
ただ、手を挙げる。
そんな動きだけで、自分を掘り下げるのです。
簡単ですが難しいです。
でも、そこに、楽しさがあります。
近々の稽古会は下記のとおり。
参加される方は直接メールをください。
3/13 午後5時〜大垣(途中参加OK)
3/14 午後6時〜名古屋(途中参加OK)
3/15 午後1時〜名古屋(途中参加OK)
3/17 午後3時〜名古屋(途中参加OK)
jun@karadalab.com
3/20は浜松にて、甲野善紀先生を招いて稽古です。こちらも、募集中です。
jun@karadalab.com

甲野先生とのご縁がつながった話

ちょっと昔の事を書いてみようかな、と思います。
気がつけば、当たり前のように心と身体の一体感を伝える仕事をしていますが、こんな未来は当時、まったく描く事ができませんでした。
人生どうなるかわかりません。
 
 
 
今日は師匠である甲野先生とどう、ご縁ができたのか、それをお話しようと思います。
少しは役に立つかな^^
甲野先生と出会ったのは1995年。大学を卒業した年でした。
阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などがあった年ですね。
ただ今考えると、学生気分が抜けない自分はそんな大きな出来事、事件も自分の「事」として考えていなかったなぁと思います。
この年、卒業したわけですが、実は就職をしませんでした。
今考えると、ニートのはしりだったのかも(笑)
なぜ、就職しなかったかといえば、少林寺拳法の本部で仕事をしたかったから。
少林寺拳法はとても大きな団体です。
しかも財団法人、宗教法人、学校法人をもつ、ちょっと特殊な組織です。
普通の就職とは違って、その年、募集そのものがなかったんです。
しかし、募集がないからといって、諦めるわけにはいきません。だって、仕事は一生の選択ですから。
募集がないなら、来年まで待ちますから。
そう言って、就職浪人として、大学を卒業してしまったのです(笑)。
 
 
 
しかし、この「募集がなかった」事が、今、この仕事をしているきっかけになっているのだから不思議です。
もし、募集があって、そのまま仕事をすることができていたら、甲野先生には会えていたかもしれませんが、これほどまでに、自分の身体と心への理解が深まる事はなかったはずです。
その就職浪人中、暇だったんでしょうね、きっと。
ほとんど本を読まない自分でしたが、卒業時に拳法部の恩師から頂いた甲野先生の本に惹かれ、本を頼りにその技の研究を始めたんです。
研究を始めた・・・と言っても、なにから手をつけていいか全く分かりませんでした。
膝を抜いてみたり、丹田を意識してみたり、試行錯誤でチャレンジしてました。
ただ、なにも「できない」んです。
当時の研究していた技は、いたってシンプル。
抑えられた手をただ、上げるだけ。そんな技です。
やってみるとわかりますが、武道のキャリアとかまったく意味をなさなくなる技です。
こんなもの絶対不可能だ、と思っていた技なのですが、本の中の先生は相手に悟られる事なく、あげているんですからね。
ホントかよ、と思いつつ、稽古していました。
 
 
 
少しでも自分の中に進歩している感じがあればよかったのですが、これが全く、分からないんです。
まぁ、これが「才能」というやつでしょうが、才能がない事が幸いしました(笑)。
 
 
 
才能がない事がよかった・・・?
どう言う事かと言えば、あまりの分からなさに、ついに行動を起こしたんです。
なにをしたかと言えば、甲野先生に手紙を書く、という事をです。
 
 
 
なんだ、手紙か。
と思われるかもしれません。でも、それは手紙を書いた事がない人間の気持ちを分かっていません(笑)。
そんな面倒で、恥ずかしい事、普段なら絶対にやらないです。
でも、書いてしまった・・・。
当時、インターネットはまだ普及していません。
本を出すような人にコンタクトをとる方法なんて、全く分かりません。
ただ、当時の本の最後に先生のご住所が書いてあったのです。(平和ですねw)
自分よりも目上の方にどう、書けばいいのか・・・。
迷いながらも手紙を書こうと決め、送らせていただきました。
 
 
 
すると、驚いた事に、1週間もたたないうちに、お返事をもらったんです。
しかも、そこには私が出した手紙に、熱意を感じました、との言葉が添えられていました。
天にも昇る気持ちだったなぁ・・・。
考えてみると、幸運でした。
手紙を書いた事がない自分でしたが、特殊な手紙は幾度となく書き続けていたからです。
それは「欠席届」(笑)。
大学時代、わが少林寺拳法部には、ある伝統が残っていました。
それは遅刻、早退、欠席をする際には主将宛に手紙をだす、という伝統です。
その手紙はメモではなく、「ちゃんと」書く事が決められていたのです。
早春の候など、時候の挨拶から始まり、一通りの流れを面倒でもちゃんと書かなくてはいけませんでした。もちろん、日時も入ります。その日欠席するためにはちゃんと書かなくてはいけなかったんです。
一枚で収まる時にはもう一枚、ちゃんとつけ、きれいに三つ折りし、新品の封筒に入れて、提出です。休むほうが面倒なくらいです(笑)。
形式ばった固い手紙しかかけなかったのがよかったのかな?
その気持ちを先生は情熱として受け取っていただきました。
そういえば、もちろん、返信用の封筒も入れました!
 
 
 
その手紙にタイミングよく、関西に行く仕事があり、もしよければ名古屋に寄って技を体験されますか?と書いてあったからもう、驚きです。
なにをどう準備し、お迎えしていいかわからなかったものの、急いで会場を取り、連絡の取れる仲間を呼んで先生をお迎えする事となったのです。
 
 
 
今思うと、なぜ、この時、こんな行動力があったのだろうか?と不思議になります。
私の事をご存知の方はお分かりでしょうが、あまり、外へは出て行かない性格なんです。
ずっと、地元の名古屋に住んでいますし・・・。
もちろん、仕事であれば、ドコへでも伺います。遠いから、と遠慮した事はありません。
でも、講座やセミナー、展覧会など、どこかへ行って学ぶ、というのはほとんどしません。
今でもその性格は変わっていないんです。でも、この時だけは違っていました。
ひとつ思い当たるフシがあります。
少林寺拳法の本部は四国、香川にあります。
この就職浪人を決めた年、生まれ育った名古屋を離れ、四国にいき、骨をうずめる決心をしていたからではないかと。
気持ちが遠くへ行こうとしていたんでしょうね。
だからこそ、甲野先生という人の技をしりたい、会いたい、と行動させてくれたのかもしれません。
 
 
 
そして、甲野先生の技を受けてからはもう、身体の不思議、心の不思議の解明に一直線です。
もともと自信のない性格でしたから、自分でなにかをする、求める、という事は考えもしませんでした。
でも、身体を通して気づかされる新しい自分を感じていると、もっと知りたい、そんな気持ちにあふれてくるようになったんです。
気がつけば、自分の中に見つかる新しい自分が自分の中の大きな決心を変えていました。
少林寺拳法の本部へ行き、組織の中で働きたい、という気持ちよりも、地元にある、父の道場を継ぎ、一人一人の身体の感覚を頼りに稽古し、生きる事の楽しさを伝えたい、と思うようになりました。
 
 
 
今はインターネットが当たり前の時代です。
すごい人を探せばどんどん見つかります。
そして、そのすごい人と縁を作るのも簡単です。
また3月にも甲野先生にお越しいただきますが、毎回、たくさんの人が来てくれます。
実は、もったいないなぁ・・・と思っている事があるんです。
それは、あまりにも簡単に出会え、教えを受けれる事で、自分が得た感覚を普通の事だと思ってしまっていないか、という事です。
これまで、17年、甲野先生の背中を追ってきていますが、途中、よくわからなくなる時がたくさんありました。
本当に甲野先生ってすごいのか?とかです。
なぜなら、もっと派手に技を見せる人はたくさんいますからね。
それこそ、手を触れずにヤーと投げ飛ばす人まで。
そんな浅はかな自分を救ってくれたのが、最初のご縁に至るまでにあった苦労と幸運です。
奇跡的な出会いと思えるものがあったからこそ、心が浮気をしそうになった時に、いやいや・・・ちょっと待てよ、と稽古を続ける事ができました。
今でこそ、武術の稽古が身体と心が一つである、という事を学ぶ事ができる最高の方法だ、と分かりますが、これが直接、仕事や資格に役立つわけではありませんからね。
結婚し、仕事が変わり、ばたばたして来れば稽古する余裕をなくし、離れていてもおかしくありませんでした。
それでも、続ける事ができたからこそ、今があります。
 
 
 
甲野先生には、自分とはなんだろう?という問いを自分で考えていいんだよ、という事を身をもって教えていただいた気がしています。
今、私自身がそれを伝える事を一生の仕事として選択しました。
自分の身体ってなんだろう?心ってなんだろう?自分の限界ってこんなものなのかな?って感じている人は諦めてしまう前に、一度体験してみてください。
私がそうだったように、自分ってよくわからない・・・と驚くことができますからね。
お呼びいただければどこへでもいきますから、そちらも、ご遠慮なく。
久しぶりに、昔話をしました。
変な話にお付き合いくださり、ありがとうございました。
なにかありましたらご連絡ください
jun@karadalab.com
3月の甲野先生の名古屋・浜松講座
名古屋
浜松
カラダラボ(私)の講座
2/14 大垣
2/19 名古屋
2/26 浜松

四年以内にくるらしい地震が持ってくる不安

二月に入りました。
噂は噂、余分の話は聞くまい、と思いつつも、情報はドンドン目から、耳から、入ってきます。
一説によれば、私達が一日に得る情報は江戸の時代を生きた人の一生分、といわれているそうです。
すごい!
で、その噂ですが、この1月から2月にかけて、また、大きな地震がくるのではないか?と聞こえてきます。
怪しげな情報であれば、そうそう、振り回されませんが、テレビ、ラジオ、新聞、地震研究機関の発表となると、もしかしたら…と真実味が増えてきます。
 
 
 
ん、ちょっとまてよ?
今、感じているこの「不安」はなんだ?
果たして、不安しかつくれないのだろうか?
そんな事を「身体の感覚」と合わせて考えてみます。
なぜ、不安が生まれるのか?
究極的には死ぬのが怖いからなのかもしれません。
でも、死なないとしたら?
災害にあう確率、事故にあう確率、そんな確率は微々たるものじゃないかな?
昨年の地震でも、助かっている人の方がはるかに多い。
だとすれば、死ぬ不安はなくなるかもしれない。
 
 
 
では、なんだろう?
今持っているものを失う不安だろうか?
家、食事、健康、車、お金…そういうものを失う不安だろうか?
友達や家族も大切なもの。その大切なものを失うと考えたりすれば、やはり、不安にもなる。
でも、これも、まだ、そうとは決まっていないこと。
決まってもいない事を、今から不安に思い、考え、落ち込んだとすれば、それは、取り越し苦労。あまり、役に立つとは思えない。
 
 
 
色々と考えているうちに、武術的思考法とは、今の時代にぴったりな考え方だな、と思った。
なぜなら、不安なところをスタート地点にかんがえられるから。
あれがあったら楽しい、これがあったら楽しい、娯楽って楽しいところから始めるものだ。スポーツも近年では、相手を調べ上げ、自分にとって、より、有利な状況を作り、戦う事のほうが重要。
でも、これは、今の時代のように、明るさよりも不安の方が多いときにはあまり、役に立たない。特に、自分のように、つい、自虐的になってしまう性格の奴には(笑)
 
 
 
 
それでも、今、不安がきても、なんとなく、まあ、大丈夫、これをバネにして、なにが出来るんだろうと考えられるようになったのは、これまでの稽古のおかげというしかない。
武術(というよりは、甲野先生が、だけど)の研究稽古はひたすら、捨てにいく稽古。どれだけ、重要に思えるものをみつけたとしても、次の瞬間、感ずるものがあれば、遠慮なく、捨てる。
失う怖さを手放させてくれるのだ。
これは、技術というよりも、習慣なのかもしれない。
奥義を教えてもらってありがとう、というのではなく、稽古を続ける事、そういう考え方をする人を間近で感じ、供にすることで、優柔不断、自虐的な人間でも、前にドンドン進んでいく力を身につけられるのだ。
 
 
 
証拠は俺(笑)。
やっぱり体を通して、自分自身の持っているものを認識し、感性を高めていくしかないと思う。
これまでは、楽しさを与えてもらうだけで、充分楽しく明るくいけた時代だ。
私の年代はちょうど、ゲームやマンガの文化が爆発した時代。
週刊マンガなんか、600万部とか出てたもんなぁ

でも、だんだんとそういう、与えてもらう楽しみは、間に合わなくなる。楽しさを見つける力も必要なんだと思う。
探そう!と決めて、毎日を過ごしてみると、信じられないぐらい、予想不可能な楽しい事がたくさんあるのに気づく。
なんとなく、感じた事を書き連ねました。
グダグダですね(笑)