心と体

カラダが割れる感覚

甲野先生は「カラダを割って使う」と表現してカラダを教えてくれました。

95年のことです。

「割れる」という表現はまったく分かりませんでしたが、自分の中でこんなかんじかなぁ、と思い描きながら稽古を続けてきました。

先日これまでとは違うカラダの感覚に気づきました。カラダが割れるように・・・ではなく、割れている実感があるんです。

「割れる」、という表現と同じように「小魚の群れがいっせいに向きを変える・・・」ということも言われていました。最近「勢い」という事を考えて稽古をしてきましたが、「勢い」の動きは「小魚の一匹」の生きの良さの工夫と言えそうです(笑)。

腕を見ればそこに「一匹」しかいないように「みえます」。これまではそうでした。

でも割れる感覚を持ってからは、腕は多くの小魚が集まって腕の形になっている、そんなように「みえます」。

あまりにも常識とは違う考え方に、怖くなりますが、技の利きを便りに稽古を進められるのが武術のよさです。またアドバイスをよろしくお願いします。

人生を変えた一歩

おはようございます。カラダラボの山口です。
暑くなったり、寒くなったり、
エアコンに慣れすぎてしまった我々にとっては
ちょっと厳しい日が続きますね。
カラダのほうは大丈夫でしょうか?

さて、今日お話をしたいのは
「なにから始めればいいのか?」と言うことです。
いろいろな所で仕事をもらうようになり、
一番多い質問はやはりなにから、
なにを始めればいいのか・・・という事ですね。

例えば武術や介護、スポーツなどであれば
それぞれに「技」がありますから、
その練習を通していけば自然と上達をしていくかもしれません。
ただカラダラボでは特定の技法を稽古しているわけではありません。
武術、武道の人もいれば介護の人もいるし、
なにより「自分という人間」をもっと知りたい、感じたい、という人も多いです。

そうなると「なにから?」というのがやはり問題なのだと思います。

ちょっと自分が稽古を始めた頃のことを思い出してみました。
なぜ、自分は続けることができたのか?
なにから始めたのだろう・・・と。

もちろんそれは甲野先生の動きに「触れ」、
直接肌を通して驚きを得ることが出来たからですが、
驚くだけでは「次の一歩」が踏み出せません。
私にとって驚きの次にあった「一歩」はなんだろうと考えてみると、
それは身体を「ねじらない事」だったんですね。

身体をねじらない、というのはいわゆる「ナンバ」です。
「ナンバ」で歩けば「ナンバ歩き」です。
とにかく手がかりになるのは「ねじらない事」しかなかったんです。
それが正しいかどうかを迷ったり、悩んだりするよりも、
「それしかない」という状況でした。

おそらくこれが「答え」です。
何から始めれば良いのか?
その答えはナンバで歩く、という事でしょう。
でも「どうして?」と新たな疑問も出てくるかと思います。
この数日、何から始めれば良いのか、と考え、
納得した答えとして「ナンバ歩き」にたどり着きましたが、
その裏づけとして理由も頭に浮かびます。

なぜナンバ歩きなのか、という理由はまた次回お話しするとして、
行動をし始めた人は「変わるかも」しれません。
そして行動しない人は「変わらない」でしょう。
ただ、私が今ここにいるのは捻じるのをやめたから、
ナンバ歩きを始めたからです。
そして甲野先生ももちろんナンバで動いています。

しばらくナンバ風に歩いてみてください、
強制はしませんが、この決断が人生を変えるかもしれません(笑)
では、また。

甲野先生の名古屋講座、いよいよ今週です。
お待たせしました。
http://www.karadalab.com/modules/piCal/

甲野先生の講座に行ってきました!

 甲野先生の講座に行ってきました。
 横浜のカルチャーセンターです。
 60名を超えるぐらいでしょうか、
 会場内には「興味」の気配が満ちていました。
 
 一受講生として甲野先生の話を聞き、
 動きを見るのは久しぶりです。
 もしかしたら10年ぐらい経っているかもしれません。
 集注して、甲野先生の動きをじっと見つめ・・・、
 いや、じっと見つめてから「外し」、
 動きを身体で感じてきました。
 
 時折「外す」感覚があるものの、
 やはり今の自分の身体では
 捕らえきれないらしく、見えません。
 いくつか課題を頂きましたが、
 この種をしっかりと育て上げられるか、
 不安が残ってしまいました。
 
 
 
 しかし、講座終了後、
 ロビーで先生としっかり話をする機会があり、
 自分の中に残っていた不安や疑問をそのままぶつけてみました。
 もう一度、ゆっくり技を受けてみました。
 
 今自分が興味を持っている「ズラス」感覚。
 これは良い感覚も悪い感覚も全部「ダメ」と考えて、
 感じたところから、あえてずらすところからスタートをしています。
 
 ずらしてみることで、「アタマ」が働きすぎずに、
 「カラダ」に動きをゆだねることができるのです。
 結果として気配が出にくい動きになっていきます。
 
 今の自分のレベルは「ズラス前」に「合わせる」必要があります。
 相手と「合う」からこそ、「ズレル」わけです。
 自分のできる限りの動きをしたことによる「自信」が
 相手とつながる感じを持たせてくれるのですが、
 先生を前にしたときにはあわせられません・・・
 
 目はこちらをしっかり見ている、でも気配なのか、意識なのか、
 普通の人には感じる何かがありません。
 ずらされたときには気になる感じでもないんです。
 
 どう言葉にすればいいのか、
 帰りの新幹線でずっと考えていました。
 
 「散っている」、この言葉なら合うかもしれません。
 先生からくる視線が細かく割れて、 目の前に散らばっている感じです。
 その細かなものを感じようとすると、こちらの意識も散っていきます。
 
 普段頼りにしている意識が散ってしまえば当然、
 どこに自分をおいて良いのかわからなくなります。
 それが「崩れ」になっていると考えました。
 
 甲野先生はカラダを割って使う、
 という言葉でご自身のカラダを表現されていました。
 散ったときに感じた感覚は意識が割れる感じです。
 
 どこにでも行きそうで、居着かない。
 相手とやわらかく一つになる感じです。
 
 とにかく多くのことを考え、気づかせてさせてもらいました。
 ちょっと前の自分ならばきっとここまでは「見えなかった」はずです。
 おそらく自分の中でなにかを見て、
 感じる精度が少し細かくなったからですね。
 
 妄想といわれてもかまいません。
 甲野先生に出会う前の自分は妄想すら出来ませんでしたから。
 自分の夢、自分のやりたいことって何だろう・・・
 それも描けなかった自分が嫌いでした。
 どうすればいいのか、その答えは誰かに教えてもらうものではなく、
 自分の心と身体が感じていることに気づいてあげることだったようです。
 
 
 追伸
 2月22日の甲野先生の名古屋講座は満席となりました。
 ただいまはキャンセル待ちになります。
 http://www.karadalab.com/modules/eguide/event.php?eid=124
 ご了承ください。

針の穴に糸を通す話

 最近の稽古に出られた方は
 「針の穴に糸を通す」喩えを聞いたと思います。
 よく「目が見えにくくなって・・・」、
 糸が通りにくくなるという事を聞きます。
 
 本当か?
 ちょっと考えてみてください。
 目がすごく良い、今、
 簡単に針に糸を通す事ができるのでしょうか?
 
 私は眼鏡ですが、裸眼で大丈夫な若者に
 針と糸を渡して楽々、
 自然に通していけるのでしょうか?
 
 針に糸が通らない理由は「目」だけではなく、
 「手」が使えない、細かい動きができない、
 という事も考えられないですか?
 というお話でした。
 
 先週、奥さんの実家に行って来ました。
 古い家で、使ってこそいませんがかまどがあり、
 お風呂はいまだに薪も併用との事。
 
 薪を割りながら考えていました。
 こんな生活が「日常」であったら・・・
 手の働きが今の私とは比べ物にならないはず、だと。
 
 子どもの頃、私の家もお風呂は薪で沸かしていました。
 お婆さんが「自然」に火に向かい、
 薪をくべるのです。
 どう、薪を組むのか、どこに火を入れるのか、
 火を落とさないように、薪を追加していく。
 
 それを行う為の手の精度って、どれぐらいなんだろう?
 今はスイッチ一つで火もつくし、お湯も出ます。
 温度まで管理をしてくれるし、危なくも無い。
 手の精度は必要がなくなりました。
 
 ちょっと長くなりましたが、
 最近の稽古のテーマは「センチからミリへ」です。
 大雑把にしか動けなかったのが、
 細かく動けるようになるんだ、という事を
 「認める」事が大切だと思っています。
 
 人を目の前にした時に、見えてくる「隙」、
 これまでは大きな穴しか見えませんでした。
 でもどうやら「穴だらけ」のようなのです。
 それも一番入れやすい隙は、
 一番自信のあるところの「1ミリ横」です。
 
 針の穴に糸を通すような精度があれば、
 まず間違いなく相手は崩れていきます。
 
 私のカラダにはその「精度」はありません。
 生まれた時から「便利」な道具ばかりでしたから・・・
 でも「不便」な頃を知っている人たちには
 もうカラダに染み付いているはずです。
 
 後は思い出すだけ!
 ぜひその感覚を教えてください。

見えなかったもの

 昨日の桃花台の稽古で
 今年一年の講座が始まりました。
 術理の中心は昨年末から「手のひら」に移っています。
 
 1ヶ月手のひらを見てきて
 ココロの変化にも敏感になってきてきました。
 この「感覚」は新しく生まれたものではなく、
 これまでは気にならなかった、見つからなかったものです。
 
 これは物理の世界でより小さなものが見つかっていく事に近いのかも。
 物体を構成する最小単位はなんだろう・・・と求め続けています。
 物体を観察する道具が進化するにしたがって、
 それまで見えなかった世界の事がわかるようになります。
 でもそれは新しいものではなく、見えなかったものです。
 
 見えないものを見れる様になった時に、
 今まで見えなかった「繋がり」も見えてくるかもしれません。
 カラダとココロとアタマ、
 それぞれがどうつながり合っているのか、
 その答えに繋がるものが見えてくれば良いなぁ。