稽古日誌

【稽古日誌】長い人生から退屈を追い出す方法

睡眠不足のまま、今日は大垣へ行ってきました。
 
夜中1時ごろまで稽古をしちゃった・・・って言うと、えっ?と驚かれるけど、まぁ、私にとってはそれが仕事なんだから、考えて見ると当たり前なのかもしれないよね。
でも、すごいのはその稽古に参加してくれる人がいるって事なの(笑)。
そう思わない? 
資格が取れて、仕事に便利、とかいう具体的なメリットがあるわけじゃないんだよ。 
ただ、「経験」しに来ているんだよね。
 
 
 
今、メリットって言葉にしたけど、メリットが無いのか、っていうと実はものすごく大きなメリットはある。
私はその大きなメリットにはまりすぎて、四六時中、この身体を通しての感覚にはまっているのだから(笑)。
 
 
 
でも、人によって、うれしい、ってメリットって違うんだよね。
私にとってのメリットは稽古をする事で、身体がココにある、という事が分かり、そこから、視界がドンドン拓いて行く感覚があるんです。
それは横にも広がれば、下にも掘り下がるし、上のほうへも一気に上がっていくもの。
視界が広がると、それまで困っていた問題も違ったものに見えて、気にならなくなっちゃうんです。
 
 
気にならなくなってしまえば、あとは自然とその問題は解決しちゃうの。
ストレスをどうしようか、と悩んでいる人って多いけど、いい、心と体は同じものなんだよ。
心がつらい、と思った時に、心だけで何とかしようと思うんじゃなくって、身体の方を先に快適にしちゃえばいいんだよね。
 
 
 
甲野先生はよく言われます。
みぞおちが詰まっているのに、心が快適な人はいないって。
逆に、心が晴れ晴れ、快適な時はみぞおちが抜けているって。
 
身体は触って、動かせるんだから。
身体を快適にしたら心も軽くなって、ストレスも無くなるの。
 
 
 
そんな心と体のつながりが分かってくると、もう、やめれなくなります。
仕事をしていても、のんびりしていても、身体になにか変化があると、パッと、そこに意識を向けて、研究しちゃうし。
 
 
あぁ、これは人生を楽しむためのおもちゃかもしれないなぁ。
退屈って事が人生からなくなったもん。
この先ずっと、この楽しいものを探していけるってわかったもんね。
 
 
そうかぁ、退屈がなくなるのかぁ・・・
それは、すごいメリットだな(笑)。
 
 
今日は簡単に、この辺で。キリがなくなってしまうので(笑)。
いつも、ありがとうございます。 

【稽古日誌】半歩の術理、応援の術理

昨日、このところ話をしている半歩をだす術理の意味に気づいちゃったんです!
ただ、足をポンとだす動きに、こんなにも深い意味があるとは思いも寄らなかったなぁ。
もちろん、これは、自分の中に生まれたものなので、全然、それに従う必要ってありません。
むしろ、この記事を読んでむかむかしてくる人もいるかもしれません。
でもね、体に出てきたこの感覚と思いには揺るぎないものがあるんです。
ちょっとやそっとでは引き下がりませんよ(笑)。
 
 
 
仙骨の意識から始まって、背骨を使うことで情熱、信念を育てることができるようになり、その余裕から筋肉を原動力ではなく、舵取りに使うコツをみつけ、軽く体全体を動かすことが出来るようになりました。
誰でも、この体を軽く早く、動かすことができる、という自覚は体の可能性を伝える事を仕事にしている私にはなによりの自信になってます。
 
 
 
その後、肘から先は体ではなく道具、という言葉から肘を切り離す感覚が生まれ、自分の中にあった「我」を見つけ、それを抑える事で、これまで以上の「結果」を引き出すことができる事がわかったんです。
 
道具を活かすことで結果として出来ることが増えたんだけど、やはり、そこでも満足しなかったんだよね。
自然と、自分の中にあるものを相手にも伝えたい、と思うようになったんです。
そしてアドバイスをしながら思ったことがあったんです。
 
 
 
 
それは、相手を怖いと思って向き合うよりも、相手に対して、なにか出来ることはないかという目で向き合ってみると、自分の体は崩れないし、相手も敵として力を出しにくくなる、と言うことだったんです。
 
 
 
刀を振り下ろしてくる絶体絶命の状況でも、相手の指導をする意識、サポートする意識を持つと、心と身体に余裕が生まれてくるんじゃないか、と感じるようになり、稽古の中にすこしずつ、それを当てはめて、どんな原理がそこにあるのかを探してきました。
 
 
結果を生み出す道具の術理の次は、相手を自分が導き、人と思い向かい合う事ではないか、と予測していました。
 
その予測が昨日、現実になったんです!
 
 
 
まさに、「相手の為」を思うことで、立ち会いの状態が変わります。
変わるというのも、ちょっとした変化ではなく、大激変!
とにかく、衝突の質が変わってしまったんです。
 
もちろん、まあ、昨日の今日ですから不確かなことは山ほどあるんですけど、間違いなくこれまでとは違ったレベルに入ったな、という実感があるんですよね。
 
 
 
具体的には相手に対して「半歩」だすんです。
半歩の術理はそのままです。
半歩の術理に気づいたのは手指が勝手に動く事がきっかけで、それを足にも見つけたからですが、その足指には手とは違った意味があったんですね。
 
 
 
 
当たり前すぎて気がつかないことばかりですが、私たちのこの足は転ばないように、無意識的に、いつも、バランスを保とうと働いています。
肉体的なバランスをです。
 
あっ、もしかしたら、この手指は心のバランスをとってるのかな?
これも、ちょっとおもしろいテーマになりそう!
でも、今日は足指に話を戻しますね。
 
 
 
足指は無意識に肉体を転ばさないようにバランスをとっているよね。
私たちの脳はバランス保持にその働きの多くを費やしている、とどこかで聞いたことがあるけど、そのバランスって、自分だけのバランスを考えていることが多いの。
 
でもね、昨日気がついた応援の術理は相手に対して、自分のバランスを捨ててまで、向き合うって事をしてる、そんな気がするんです。
 
 
 
お客様は神様です、って言葉があるよね。
相手のことを気遣うことは日本の文化の中ではとっても大切なことです。
でも、それはどのレベルで気遣っているんだろう?
ネガティブな私はいつも、そんな事を考えます(笑)。
 
頭では目の前の人を大切に、と「考えること」はできます。そして、考えたい!って事も。
でもね、その考えたことはちょっと、アクシデントが起こると、すぐになくなってしまうほど弱いものだったりするんだよね。
これって、結局、口ではいいことをいいながら、心の奥では自分のことばかり考えていることじゃん、って思うの。
厳しい?(笑)。
 
 
 
特に武術は自分を倒そうとしてくる相手を排除したい敵と思わず、その立ち会いの瞬間を最高に自分にとって必要であり、納得できる瞬間にする、というものです。理想がとっても、高いんです(笑)。
いや、私がそう考えるってだけですよ。
たいていの場合は目の前の相手をとにかく排除したい、って事を考えちゃうはずですから。
 
 
 
 
この答えを出すのが不可能に思えるきっかけになりそうな事が今書いてる半歩の術理、応援の術理です。
とにかく、今、感じていることを残しておきたくって、昨日の体の感覚を思い出しながら、書いています。
 
 
 
 
相手に向かって半歩をだすって動きは、相手を受け入れるという意味を持っているようなんです。精神的にではなく、肉体的に。
普段は自分だけのバランスをとるのに精一杯です。
両足でしっかりと立っていられるのも、たくさんの外からの刺激、ストレスに対して、自動的に足がバランスをとり、支えているから。
時々足がバランスを取れないほど崩れたとき、心に不安が生まれ、弱気になったりしています。
 
 
この時、我を張らずに、足指に任せておくことが一番のバランスをとる方法だ、と気づいたのは手指の動きと同じですが、足指を相手に対して使うことで、相手と一つになることができるようだ、と気づいたんだよね。
 
この相手と一つ、というのは肉体的なバランスを通してですよ。
 
 
 
普段は自分の事だけで精一杯です。
外からの刺激は肉体的には、めんどくさいもの、ない方がいいものとしている人が多いはず。
だからこそ、私たちはストレスを感じないですむように便利な世の中を作ってきました。
 
 
 
ストレスに対して、排除するという方法で向き合ってきたんだよね。
しかし、半歩の術理は外からの刺激をストレスとして受け止めるのではなく、自分の一部として、受け止めるの。
それを体で表現したのが、半歩の術理、心で表現したのがお客様は神様です、じゃないかなぁ、と。
飛躍のしすぎでしょうか(笑)。
 
 
 
相手を認識した上で足を「出す」んですが、足を出そうとしてしまうと、大変。そこには「我」が入り込みます。
この「我」はどうしても、今の自分を守ろうとしてしまいますからね。
 
足指に任せることで、自然と出て行くようになるんです。
この時の動きが「半歩」です。
 
 
 
その足指が自動的に動き、相手とのバランスをとると、自分にとって、相手はなくてはならないものになります。
それまで、自分が転ばないことだけを求めてきたのが、相手を守る、という意識に変わっているんです。
 
この力はどれぐらい向かっているんでしょうね。
 
 
 
私たちの脳の性能は考えている以上に、遙かに高い、というのは知ってるよね。
その大部分を転ばないように、っていう姿勢保持に使っているはずです。
その大部分をそのまま、相手に渡してるんです。
 
相手はこちらからの思いをもらうことで、自然と、敵ではいられなくなり、自然と一体化するんじゃないだろうか・・・というのが今考えられる事。
 
 
 
とにかく、とりあえず書いてはみたけど、どうも意味不明です(笑)。
いや、体では確かにわかってますから、再現はできるんです。
そして、その感覚は昨日よりも今日の方が、さっきよりも、今の方が強くなっています。
人でしか感じられなかった一体感が、目の前のコップに対しても使えるようになってきました。
 
 
 
きっと、すこしずつ、感覚が言葉になって、伝えられることが増えてくると思います。
また、たくさんの面からお話ししていきますので、興味があれば、また、読んでください。
言葉にすれば、ややこしいことも、体験すれば、あっという間にわかることもあります。
興味がある人は、ぜひ、試してみてください。

【稽古日誌】自らをよりどころにする

11月に入って、いきなり寒くなったよね!
昨日の大人の武道塾道場を後にしたのは午前1時。
この時間になると、体の芯に冷えが入り込んでくる感じがするんです。壁の薄い道場ですから(笑)。
 
 
 
でも、今はこういう刺激が全然イヤじゃなくなっているから、ちょっと不思議。
なぜかというと、自分の中に冷えを感じて、素直に反応している部分と、それを解釈して、気持ちを揺らしている二つの自分がいる、というのが感じられるからのなの。
 
 
時々、水のシャワーを浴びるんです。
水シャワーは冬に行うと、もう、逃げ出したくなるぐらいつらい事(笑)。
水がかかっただけなのにね。
 
 
でも、体は正直だから、すぐに、反応するんだよね。
そして、その反応に対応して、感情が動くみたい。
そして水のシャワーで、やめてくれ〜、と心が動いて、再び、暖かいお湯のシャワーで生き返る〜と、ほっとします。
心と意外と単純なんですよ(笑)。
 
 
 
いつの頃か、この心ってものに興味を持ってきたんだけど、最初はその心を「自信の無さ」を何とかしたい、というところから入ったの。
もし、私が自信満々だったしたら、今のように、心ってなんだろうって、興味を持つこともなかったはずだから、本当にネガティブで良かった、と思ってる(笑)。
この前、ブログに書いたけど、ネガティブである自分を超喜んで受け入れていくことが出来るようになって、毎日がこれまで以上に軽やかに、楽しく感じられるようになってしまった!
 
それって、ポジティブってことじゃないの?と聞かれる事もあるけど、私は、頑固としてネガティブだと、信じたい(笑)。
まぁ、どちらでもいいんですけど。
ただ、今の自分、今までの自分を変えることなく、そのまま受け入れられたら軽やかに生きていけるって事を伝えていければなぁ、と思ってる。
 
 
 
こんな事を考えながらいつも稽古してるんです(笑)。
そして、もちろん稽古の時も。
 
昨日の金曜日は稽古三昧の一日。
朝、栄の中日文化センター、お昼からは新しくなった一宮の中日文化センター、夕方から九時までは少林寺拳法、その後、1時まで大人の武道塾。
特に一宮の文化センターには体験の方がたくさんきてくれて、武術の技、動き、感覚を楽しんでもらいました。
 
 
初めての人は私の話をどう思うんだろう?
昔はそんな事をよく考え、どうしたら伝わるだろうか?とあれこれ、試してきたりもしたんだけど、最近は、もう、そういうこともなくなったの。
もちろん、手を抜いているわけじゃないからね(笑)。
 
どんな人にも自分にはまだ、知らない可能性がある、って事をみせて、感じてもらえばいい、って事がわかったんだよね。
 
昨日の体験会でも、私の半分以下しか体重がないんじゃないか、ってぐらいの細い方が見えてね、ちょっと腕を握ったら、痛い、っていうんだよね!
でも、そんな人にも伝えることは同じ。
自分の中に壊れない強いものがあるって事を見せることができるから。
 
その細い人も、楽しさを感じてくれて、勝手に色々試しあってたから、きっと、動くことの楽しさを感じて帰ってくれたんじゃないかなぁ。
 
 
体験にされた方に話をしている中で、いくつも、「あれっ」って顔をみたの(笑)。
きっと考えていた「古武術」とのギャップがあるからだとおもう。
でも、それはあたりまえ(笑)。
だって、私は普通に思われてることをやるつもりなんか、全然ないもん。
 
文化センターだろうが、大人の武道塾だろうが、個人稽古だろうが、伝えたいのは体の面からみた自分の心だから。
 
このブログもそうだけど、そうとうややこしいことを書いてるし、実際の稽古の時にはもっとややこしいことをいいながら、技をかけてる。
単純に介護の技、相手を投げるって技を身につけたい、という人がいても、頑固に、心と体の事を伝え続けてるの(笑)。
 
だって、私の技が効くようになってきたのは、トレーニングの結果ではなく、いつも、
体と心とが一つだった!っていう安心が生まれたときだから。
 
 
 
こんな事をはなしていると、時々、それは宗教みたいだね、といわれる(笑)。
まぁ、実際に今、指導している少林寺拳法自体が宗教法人だから、生まれたときから少林寺漬けの生活を送ってきた私の中に宗教へのあこがれや期待感があっても不思議じゃないと思う。
 
でも、この宗教みたいだ、って言葉はイヤじゃない。
むしろ、ちゃんと自分が自分の心に向き合ってるって感じるからね。
 
よく日本人に宗教はあわない、といわれるよね。
まぁ、宗教について考えている暇もないほど、忙しくなっちゃってるからね。
でも、それは日本人には無意識的に自分の内面を探る性格が備わってるからだと思うんだよね。
 
わざわざ外から、この宗教はこんなおかげがあって、すばらしいよ、だから信じなさい、なんていわれるよりも、ずっと、深く、みんな自分ってなんだろうって事を考えているような気がするの。
 
だからね、その自分を掘り下げた結果を仕事や生活の中に自然ととけ込ませていってきたんじゃないかなぁって。
ただ、なんかちょっと不安なことがおこると解決策を外の世界に求めるってのもおもしろい日本人の癖だとおもう。
このあたりの内面と外面とのバランスが取れたときに日本人らしい解決がとれるような気がします。
 
 
 
宗教みたい、っていわれたりするのはきっと、仙骨とか、波動とか、運命とか自分って言葉をつかって、技を稽古して、説明したりするからだと思う。
もっと、わかりやすく、手はここ、肩胛骨はこう開いて、股関節を回すように動かす、なんて説明をしたらもうちょっと体操っぽいくなるよね。
でも、それはおもしろくない(笑)。
 
だって、伝えたいのは自分の体と心がすごいって事だから。
しかも、現代は頭でっかち。
この頭に心の事も教えなければならないとおもってるもん。
心を伝えるときに言葉だけで伝えている人は多いよね。
たくさんいる。
ネット時代には言葉で伝えるのが一番効率がいいから、まぁ、それはよくわかる。
でも、私は体にこだわりたいんです。
だって、心と体が同じなんですよ。
両方からみなきゃ。
 
 
 
 
宗教って言葉は幅が広いから一概にはいえないけど、外に救いを求めている感じが私はしてる。
神様、仏さま、おねがいします!って。
でも、僕が求めているのは神様にではなく、この「自分」に頼りたいって事。
自分をより所にできたら幸せだろうなぁ、って思ってる。
少林寺拳法の教えがまさに、これなんだけど、その自分をみるのに、体っていうのはものすごく役に立つんだよね。
 
 
 
体が変わると、そこに新しい自分への見方が変わる。それも、劇的に。
何かが出来ないときって、出来てるかどうかを誰かに聞きたくなるんだけど、本当に出来ているときには実はそんな事を聞かなくっても、体に確かな実感が生まれるんです。
 
 
 
実は、昨日もその大きな気づきがあって、心の中に大激変がうまれたの。
ちょっと長くなっちゃったから、記事を分けて、また、書きますね。
とりあえず、これはここで閉じさせてもらいます。
 
 
 
いつも、ありがとうございます。

【稽古日誌】武術は偶然を排除する

普通、武道の練習と言えばケガを防ぐためのストレッチから始まって、基本の稽古、移動の稽古、受け身、そして、技の稽古に乱取り稽古と流れていくのを想像するよね。
大勢で練習をするときには号令に併せて動くってのがまとまりをつくるからね。
 
 
でも、これは、多くの練習生の中から飛び抜けて「出来る」人を探す稽古だったりするの。
その稽古の流れがたまたまうまくあって、才能を開花させる選手は確かにいるんだけど、ほとんどの人は自分にあっていないかもしれない練習に無理にあわせているかもしれないんだよ。
ほとんどの人は単なるスポーツの延長になっちゃってね、「術」と呼べるほどの成長を感じることなく、ただ、時間だけを使っちゃうの。
 
 
 
もちろん、そうでない人もいるかもしれませんが、大勢を一気に教えるための練習法には違いないからね。
時間さえかければ誰でも上達するならそれでもいいけど、本当に何十年もかけても上達も変化もしない場合があるからね。気をつけないと・・・。
実際には自分がその瞬間、どんな感覚でいるのかを意識しながら行わなければ、動き方は変わらないの。
みんな無意識にはわかってると思うんだけど、ほかの練習法を知らないんだよね。
以前、元巨人軍で大リーガーの桑田投手が古武術の稽古を科学的トレーニングでも、根性トレーニングでもない新しい方法と言われていたけど、ほんとに、そんな感じだと思うよ。
 
 
だからね、カラダラボの稽古はカリキュラムはなにもありません。
だって、それが甲野先生から教えられた稽古の仕方なんだもん(笑)。
でもね、なにもないからこそ、自分がなにをしたいのかを考えなくてはいけないし、考えることができるようになるんだよ。
 
 
 
では、普段の練習でどんな事をしているかと言えば、正座で向き合い、片手を片手、もしくは両手で押さえてもらい、それを上げる、という柾目返ばかりやっています。
特に私はこの柾目返しが大好きで、この技で今の自分の体の動きを確かめてるんです。
相手を崩すだけであれば、これまで気づいてきたたくさんの方法があるからね、抑えてくる相手がそれらについてこれなければ、すぐにコロリと投げれちゃうんだけど、大切にしたいのはとにかく新しい感覚だからね。
じっと集中していると、なにもしていないように見えるかもしれません(笑)。
 
 
 
武術の技がシビアなのは、そこに偶然が入る隙間をなくしてるからだと思うんです。
乱取り的な稽古はもちろん、どんな技にも、いろいろなことをやり合う余裕があるはずです。
お互いが立ち上がり、間合いを意識して手を取り合えば、いろんなフェイントもかけることができるから、駆け引きが大切になったりするよね。
でも、お互い正座、相手はただ、こちらの手をしっかり持つだけ。
しかも、こちらは相手に対して「まっすぐ」入ると教えているんです。
それが柾目返しです。
この状態でね、単純に手をあげようとすれば、もう、その動き出した瞬間に相手に抑えられます。
なにも出来ずに負けてしまうんです。
もし、この時、相手との力の差があれば、上げることもできるけど、単純な力の大小で崩したって、なにもおもしろくないですから(笑)。
 
 
 
求めているのは、それまでやったことのない感覚の技なんです。
条件が厳しく、工夫する余地が少ないからこそ、崩すためにはその理由がいるし、相手に抑えられたときにはなぜ、抑えられたのか、理由があるんです。
その理由をじっと、心の内で考え、工夫をしていくことが稽古かな。そう思っています。
 
 
 
特にこの技はシンプルだからこそ、経験年数の差が出にくいんです。
まっすぐ、相手に向かってあげていく、って決めていますからね。
抑えられるのがわかっているところに入っていき、そのまま崩していくんです。
普通であれば、「無理」なところにはいっていくんですけど、それを「気にせず」動ければベストですね。
 
 
 
もちろん、普通のままではできないんです。
でも、動きかたに違いがある、と気づくことができれば、後はそのバリエーションを色々試していけばいいの。
正しい動き方もなければ、間違った動き方もありません。
ただ、自分にとって、一番、納得のいく動きを探していけばいいんだからね。
 
 
 
私は、ずいぶん、頭でっかちな人間です。
体の感覚が高まってきたとはいえ、ついつい、いろんな事を考えちゃいます。
でも、そのいやな感じがあるからこそ、もっと、体に任せる方法はないのか、と探し続けてこれたんです。
 
今では、この頭でっかちさも良かったかもしれないなぁ、と思っていますから(笑)。
カラダラボに必要なものは楽しく稽古できる自分です。
面倒はみませんけど、楽しさを伝えることには一生懸命ですからね。
遠慮せずに、疑問に思ったことは全部、ぶつけてくださいね!
 
 
ありがとうございました。 

【稽古日誌】足指に引かれて歩く術理 その2

今日で10月が終わりました。
早いものです・・・。
先日、今年の術理の変化を書き残しましたが、本当に壁がドンドンと壊れて、新しい景色が見えてくる感じです。
 
 
 
つい、先日もそんな事が。
足指の話をもう少しお話しておきます。(ちなみに前回の足指についての記事もどうぞ)
肘から先を道具としてみた時、その手を動かすのが指です。(手指を道具にする記事
手にあるものは足にもある。そう考え意識をしてみて、1週間たった頃、ようやく出てきた感覚が足指に引かれる、という使い方です。
 
 
 
武蔵は踵を強く踏み、足指を上げる、と残したそうですが、足指を自由にする事で、指で足をコントロールする動きを作り出していたのかもしれない、と思うようになりました。
 
足指といっても、つま先に力が入ると、指は動かせません。どうしても、支える事で精一杯です。
でも、足指、特に、親指ですが、親指の先が自由になってる事が分かると、蹴る以上の速さが生まれるのが分かります。
 
 
 
今、速さ、と書きましたが、この速さは最高速ではなく、動き出しです。
動き出しの速さというか、タイミングが全然違ってくるんです。
反射神経なのかもしれませんが、普段、意識すること無い動きを作り出す事ができるんです。
 
 
 
詳しくはまた、ビデオでもとって解説しますが、とにかく速いんです。
普段、私たちは重力に縛られて、その力とケンカをしています。
だんだんと、その衝突が当たり前になってしまったのは、その力以上の力(機械の力)を手に入れてしまったからかもしれません。
機械に頼りすぎると、自分の価値を見失ってしまいます。
機械が無い頃の私たちも、ちゃんと、幸せに暮らしていたはずですよね!
 
 
 
自分の身体にこんな力、能力があるんだ、と気づいてしまうと、今度はその力を使わずにはいられません。
新幹線がある事を知っているのに、頑固に歩き続けているようなものです。
切符の買い方、乗車の仕方は勉強するまでは不安です。
初めての一人旅となれば、緊張する人もいるでしょう。
そんな事と似てるかもしれません(笑)。
 
自分には能力があるけど、使いこなす自信が無い時だって、あるんです。
でも、間違いなく、自分の中にあるものですからね。
たくさん失敗すればいいんです。
失敗しても誰も怒る人はいませんから。
自分の頭にある「失敗してはいけない」という観念が今の自分を止めているんです。
 
 
 
武術の稽古はたくさんの失敗をさせてくれます。
そして、だんだん、失敗すればするほど、新しい発見がある事がわかるようになります。
うまくいってしまうと、逆に次の目標を作りにくくなりますからね。
 
チャレンジする楽しさをしれば、それを生活の中でも発揮していけるようになりますよね。
どんなに口で、チャンレンジ精神を持て、と言っても、実際に身体がおびえていれば、ついつい、一歩下がってしまいます。
その身体を先に作るのが武術ですから。
 
誰かを倒すための武術ではなく、自分の中にある、前向きな心を見つけるために武術をする、というのも素敵です。
 
 
 
ちょっと話がそれましたが、足指で動く話です。
もしかしたら、これは、手指の動きを身につけるよりも早く身につけられるかもしれません。
 
なぜなら手指はどうしても、なにかをする、というところで発揮されるものだからです。
考え方を広げれば、人間の生活のあらゆる場面で同じように、手指に任せて動く事ができます。
だからこそ、24時間、意識できる間中、手指に任せて動くと言う事を稽古できるのです。
 
しかし、視点を上げて考える、という稽古法がわかるまでは、どうしても、それぞれの手順に振り回されます。
 
歯を磨く時、顔を洗う時、箸を持つ時、車を運転する時、仕事をする時。
それぞれ、手が動くルートが違います。
どのルートであっても、指先から、というのが意識できればいいんですよ。
しかし、最初はなかなかうまくいきません。
必然的に、自分の得意な場面から意識していく事になります。
 
 
 
しかし、足はいつも前へと進めます。
どんな時にも、同じように、身体を支え、足を踏み出し、歩いています。
それほど、違いなく、同じリズム、ペースで足を意識する事ができます。
 
ほんの一瞬、足指をさっと、前へと出せば良いのです。
その瞬間に気づき、意識してやれるようになるのに、時間はいりません。
30分の稽古で、十分、違いを認識する事ができます。
 
 
 
何十年と苦労してきた技を、あっという間に解決してしまう力を持っているのが術理です。
足指から足をだす動きは、半歩、ぽんっと出す動きに見えます。
もしかしたら、昔の人たちはこの半歩間合いを詰めることの大切さを肌で知っていたのかもしれません。
そして、それは「当たり前」の感覚として、共有されていたのかも。
 
機械がないですから、この身体で仕事をしなくてはいけません。
だからこそ、皆が自分の速さをしっていたかもしれません。
 
機械が仕事をするようになり、身体の速さを見なくても良くなりました。
私たちは衰えたのではなく、その速さに気づくチャンスが無くなっただけなのです。
 
 
 
今週末、名古屋で夕方から、大人の武道塾を開催します。
その際にビデオを撮って、このブログで紹介できれば・・・と思っています。
でも、見た目、「普通」なんです(笑)。
なにか巨大な力で相手を押さえつけるではなく、相手が力いっぱい抑えてきても、「平気」でいられる、という動きです。
お楽しみに・・・してください(笑)
ありがとうございました。
もし、この足運びに興味があるなら、今週は下記のとおりで講座があります。
お近くの講座へどうぞ。
11/2 10:00~栄中日文化センター