【思考実験】

仮説、下駄ダイエット

とりあえず10キロ落ちた

今年の初めぐらいからあるダイエットを始めました。とりあえず、今までずっと、続いているのと、その成果も出ているのでその報告がてらなんとなく思いついたことを書いておこうと思います。

不思議なのは、今試しているこのダイエットは全然、苦しくない、という事。苦しくないから、なんとなく続いている、そんな感じなんだけど、ふと、なぜ、続いているんだろう?と思ったんです。

そして、たどり着いたのが下駄の効用(笑)

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筋肉をバラバラにつかう

前回、筋肉は疲れる、って話をしました。
それ、どうやら、私の見方が狭かっただけだったみたいです。訂正させてください。
 
2月3日、突然、動きが変わりました。気づいた瞬間、動きが変わり、それまで出来なかった事が出来るようになりました。
身体感覚の稽古は自転車に乗るようなもの、と思っていましたが、こんなにも大きな成果が出てくるとは夢にも思いませんでした。
 
 
 
その時気づいた使い方が「疲れない筋肉」です。
あらゆるものには陰と陽、二つの真逆の面がある、といわれますが、まさに、それです。筋肉というものに対して、それまで持っていた認識がガラッと変わってしまいました。筋肉はぎゅっと束ねて、瞬間的に力を発揮する力で持続をさせるには都合がわるい、そう思っていたんです。しかし、それが、筋肉をバラバラなものとして認識し、それらを一つに束ねる事無く、放り投げるように使う事で、疲れず、さらに、一本一本、すべてから力を得られる事がわかりました。
この時、「放り投げる」感覚があると、身体全身が宙に浮いた感じとなり、相手との間合いをつめる事ができます。しかも、なにかをしようと筋肉を緊張させる必要がないので、相手の動きに合わせてすぐに「反応」する事ができます。
 
言葉遊びのようですが、それまでの動きは「反射」であり、コントロールの難しいものでした。でも、バラバラを意識してみると、「反応」、もしくは「対応」できる感じになるんです。まさか、こんな気持ちになれるとは夢にも思っていませんでした。これまで、何とかしよう、と努力を重ねてきた事がまるっきり、逆に働く事でできるようになってしまうんですから、身体の持つポテンシャルの高さはもう、想像もつきません(笑)。
 
 
 
筋肉を「束ねて」使うとき、それは身体の大小、繊維の太さなど、他者との競い合いになります。競争ですね。
でも、筋肉を「バラバラ」にするとき、比較するのは他者とではなく、それまでの自分との比較です。バラバラになればなるほど、より速く、細かい動きにも対応ができるようになります。身体の大小などは関係なくなってしまうわけです。
 
 
 
どんなに筋肉が少ない、小さい、といっても、身体に筋肉がないわけではありません。誰の中にも筋肉があり、骨があります。その筋肉がばらける事で瞬間、身体が浮いてきます。その浮いた身体を相手は認識するのが難しいのかもしれません。普通であれば、ただ立っているだけでも、足に力を入れなくてはいけません。それがなくなっていくんですから、影響がないわけありません。
 
この先、今の軽く、浮いて動いている状態がさらに変化をしていくのは間違いないです。今、ようやく、身体(主に体幹部)を蹴らずに動きを出す事ができるようになりました。スピードゼロだったものが動き出したんです。力を抜くってこういう事だったのかもしれません。
 
 
 
さて、お伝えしたいのはここから。
どんなに頭でわかっていると思っていても、実際に、自分の身体に感覚として得られてないものは使えない、それを痛感しました。
 
筋肉が教えてくれるもの、それは努力と経験です。失敗や成功を重ねる事で大きくなっていくもの、それが筋肉です。努力をして、トレーニングをすれば、大きくなっていくもの、それが筋肉です。日本語には「コツ」という言葉がありますが、この語源は「骨」だそうです。筋肉に頼らず、骨を使う事こそ、日本の武芸、芸術の源だ、そう信じてきました。しかし、現実の世界はまだまだ「努力信仰」が広がっています。つい、なにかをしようとした時、がんばってしまうし、まわりの人たちもがんばってね、と応援してくれます。これ、無意識に筋肉に頼っているからこそ、でてくる言葉なんだなぁ・・・と。
 
 
 
筋肉はしっかりご飯をたべ、トレーニングをし、ちゃんと休めば何歳になってもつけることができるそうです。ただ、どうしたって食べれなくなるし、怪我でもすればトレーニングもできません。そして、いろいろな意味で休む事もできなくなります。なかなか理想と現実は違います。
しかし、頭の中ではがんばって、練習、勉強して、能力を上げて、成果をあげよう、とするパターンが出来ています。なかなか完全な他力本願って難しいです。きっと、本来の他力の意味も身体の感覚の喪失に伴って変わっていったんでしょうね。今回、筋肉をバラバラに使う、という感覚が「自分」という枠を壊していく事でも成果を得る事ができる、と確信させてくれました。1ミリもがんばっちゃ駄目、って事です(笑)。
 
 
 
身体感覚の世界は全く想像もしていなかった世界でした。20年前、大学を卒業したばかりの私は達人技に憧れていろいろな本を読み、なにかヒントになるものはないか、と探していました。幸運にも甲野先生とご縁ができて、実際に身体を通して感覚の存在をしってからはなんとか、自分でもそれを感じたいと思い稽古を続けてきました。
気がつけば今、こうしてその身体感覚を伝える事を仕事にまでするようになりました。
 
新しい身体感覚に出会うほど、現代の常識、価値観とのギャップを感じます。もともと使命感のような強い意思を持たない性格でしたら、のんびり、20年稽古をしてこれたわけですが、さすがに、この先、人間はどうやって生きていくんだろう、と心配になります。
人間のロボット化、人工知能AIの進歩は止まりそうにありません。もうすでに、スマホ、ネット、ロボット無しでは社会は成り立たないのを思えば、ある意味、後には戻れない状況なのかもしれませんね。
 
 
 
それでも、身体感覚の可能性はこういう時代においても「何かができる」んじゃないか、と思い続けていました。ハードルが高くなればなるほど、身体から見つかる感覚も大きなものになってきますし、「がんばれば」何とかなる、そういう気持ちでいました。
私自身は身体感覚の虜ですから、この先、死ぬまで、身体の観察を続けると思います。そして、それはつらい作業ではなく、とても幸せな事だとも理解しています。でも、身体感覚を認識していない人にとっては、非常に面倒で、手がかりのないインチキなものに見えてしまうかもしれないなぁ、と思っていました。最初の一歩のハードルがどうしても高いんです。私に覚悟や使命感があれば強く発信をし続ける事が出来たかもしれませんが、私自身、強制される事が苦手な人間ですから、ちょっと無理なんです(笑)。
 
無意識に「がんばれば」なんとかなる、そんな気持ちしか手段はなかったんですが、筋肉をバラバラにする感覚が全く違った希望を与えてくれました。一人の強いリーダーが世界を変えるのではなく、一人ひとり、小さくとも、無理をせず、やれる事を行っていく事で、緩やかに世界は変わっていく、そんな可能性もある事を確信しました。
 
 
 
私自身は身体感覚の虜です。それが仕事にもなりましたし、自分が気づいた事をシェアするのも大好きです。24時間、いや、夢の中でも稽古をしていたいぐらいです(笑)。でも、そんな変な人、あまりいません。皆普通に、それぞれの人生があります。
 
しかし、大きく変えるだけが選択じゃないんだなぁ、と思ったんです。ちょっとでも、身体に興味を持って、意識をしてくれるようになれば、すこしずつ広がっていってしまう事はあるはずだ、それがわかりました。この時、下駄や箸や着物はとっても役に立ちます。下駄の効用として紹介しましたが「誰でも」下駄を履く事で姿勢が整い、しっかりとした立ち方ができ、地面や重力と喧嘩をせずに動く事が出来るようになります。その変化を自覚したならば、身体に興味が絶対にでてくるはず。日常生活の中で下駄を履いてもいいし、靴を履いていたとしても、なぜ、下駄のような軽やかさがでないんだろう、疑問を必ず持つようになります。そういう小さな身体への興味が少しずつ広がっていけばいい、そう思っています。
 
今、多くの人にとって身体は重荷です。身体を意識する機会がネガティブなものばかりになってしまっています。だからでしょうか、心に向けてかなり過剰な介入をしてきます。テレビや映画、そういう娯楽的な演出も泣かせば勝ち、みたいなものが増えてきました。確かに泣く事で解放、発散となり、身体は緩みます。でも、わざわざ、扱いにくい心からそれをしなくても、身体そのものを動かす術を身につければ、いつでも、身体はリラックスさせておく事が出来るようになり、いらいらする時間をドンドン減らす事ができるようになります。ポジティブに身体を意識する、靴を履くたび、箸を使うたび、その瞬間の身体の感覚を楽しめる人が少しでも増えてくれたらなぁ。
 
 
 
私たちは大人です。私たち大人をお手本にして子供は育ちます。大人である私たちが人間の証である身体を嫌っていたら当然、子供たちも身体に自信を持てなくなってしまいます。特別な事を言わなくもいいんです。自分自身が自分の身体のことをすごいと思って一緒にすごす、それがまた、小さな影響を彼らに残すはず。ちょっとした事で世界は変わる、そう確信しています。だって、ロボットになりたい人はそんなに多くはないと思うんですよね。便利なものが溢れる世界になるのは仕方ありません。でも、そのとき、ちゃんと、人間らしさも楽しめるようにしたいものです。
 
 
 
筋肉の話かと思ってページを開いた方には変な方向へと話が進み、???となってしまったかもしれません。それでもこんな最後まで目を通してくれてありがとうございます。感覚ってなんだろう?そんな疑問を持ってくれるだけでも世界は変わっていくと思います。もう、読んでくれただけで応援になっています。ありがとうございます。
 
もし、実際に身体感覚を味わいたいのであればぜひ、稽古に起こしください。ちょうど、来週の日曜日、2月15日には甲野先生の講習会もあります。私がそうだったように、目から鱗が何枚も落ちるかもしれませんよ(笑)
詳細はカラダラボのホームページからどうぞ。

今を五つに分けてみた

 先日、足裏から力が跳ね返ってきている事に気がついてから、動き方はもちろん、今、自分が見ている世界についての考え方がグルグルと変わってきた。この考え方が正しい、とは言わない。ただ、今自分が感じている事をそのまま言葉にしておこうと思っている。
 
 なにが正しいのかはわからないけど、今目の前にある世界が身動きの取れない窮屈なものではない、というのは間違いがなさそうだ(笑)。
 
 
 
 幸いにして文化センターなどでたくさん、話をする機会を得ている。7年ほど講座を持っているけど、一度として同じ講座をしたことがない。いつも、その時一番興味のある事を材料に、身体を動かし、感覚を渡していこうと思っている。
 どうも、これは相当変わっているらしく、動き系の講座でありながら、覚えなくてはいけない動きもなければ手順もない。毎回行う基本練習はもちろん、準備運動すらしない(笑)。
 
 そのおかげか、常に、真剣勝負というか、新しいなにかを追い求めていく、という習慣を持つことができた。
 自分の中に新しい動き、感覚が生まれたと同時に、人に伝える、という作業をしているのだ。
 
 
 いつのまにかこんな感じの稽古になり、そこから新しい発見がさらに続くようになってきた。まぁ、だから一時期、ブログにも書ききれなかったんだけど(笑)。なんとか、書き出すスピードも上げていこう、と考えて、今、こうして、身体の感覚を確かめながら言葉にしている。
 
 
 
 今日のお話は「今という瞬間を五つに分けて考える」という事。
 
 どうやら、「今」という瞬間は身体のどこで受け止めるかでいくらでも分けられそうだ、というのが見えてきた。ただ、無数に・・・と考えるとさすがに伝えにくいので、大好きな五行思想に当てはめて「五つ」にわけてみた。
 
 
 
 五行思想は世界を「木・火・土・金・水」という流れで切り分け考えていくもの。今日は単純に番号をつけて私の世界の見方がどう変わっていったのかを書いておく。
 
 一応、五行との関係では「水」を1番とした。水行が1番、木行が2番、火行が3番、土行が4番、金行が5番だ。
 
 「早さ」という点で考えてみると1番が一番早く、一番遅いのが5番。甲野先生に出会う前の私は5番の世界にどっぷりとつかり、身動きの取れない世界で苦しんでいたらしい(笑)。
 
 
 
 その5番の世界というのは言葉の世界、マニュアル、手順の世界だ。動きを手順で表し、説明する。技ができないのはその答えになる手順が間違っている、と思っていた。しかし、現実は違う。間違いがあるのではなく、その手順を自分ができない、というだけの事だ。
 せっかく得たマニュアルが使えなければ他のマニュアルを探す。ずっと、この繰り返しだった。
 きっと、探し続ければ、なにか見つかったかもしれないけど、そのマニュアルには賞味期限がある(笑)。皆がそれを持ち、使うようになったら、その技は有効でなくなってしまうから。
 
 現代はそれを「検索」という技術でいくらでも探せるようにして絶望を交わしている。しかし、実際にはなかなか難しい。どこかで、自分には無理かもしれない、とあきらめてしまう心ができてしまうかもしれないから。
 
 
 
 
 私が甲野先生に出会ったのはちょうど、そんな気持ちになっていた時。いろんな技の手順を聞き、練習してみたものの、うまく使えない。だから、新しいマニュアルを探すつもりで甲野先生をみつけたわけだ。
 しかし、甲野先生にはその普通のマニュアルがなかったのだ(笑)。
 先生の言われる言葉一つ一つ(力を流す、受ける、肩、肘、手首、ねじらない、うねらない・・・)は見た事があっても、実際にどうやっていいのか、どううごいていいのかが全くわからないのだ(笑)。
 
 それでも、そこにとっても魅力的な力を感じ、まねをしながら追わせてもらった。きっと、これ、子供が親を真似て成長するのと似ているんだと思う。少しずつ、「自分の身体」を認識するようになってきたのだ。
 
 
 
 自分ってなんだろう、と考えてみた時、それは頭だけ、言葉にできるものだけが自分だった。生年月日、住所、氏名、学歴、職歴、趣味・・・など。
 しかし、稽古を通して見えてきたのはそれまで、気にした事がなかった、「身体」だった。肩や腰、肘や膝、手首や足首、どの部分もちゃんと使い切る事無く、なにげなく生きてきた自分がいたのだ。
 動きを通して、ちゃんと使えば、身体が自由になるとわかり、もっともっと、この身体を知りたくなり、いつのまにかそれまで経験した事のない意欲を持って稽古していた。
 
 
 
 5番が頭の世界だとすると、4番は身体の世界。自分の身体をすこしずつ取り戻す事でどんどん速く、軽やかになれる。
 
 実は、ほんの2ヶ月ほど前まで、ずっと、この4番の世界にいた事がわかった(笑)。この20年近く、常に新しい発見の連続で世界を拡げて来たと感じていても、それは、まだまだ小さく閉ざされた世界にいたって言うんだから、もう、笑うしかない。西遊記で出てくるお釈迦様の手のひらで遊ばれる孫悟空の気持ちがよくわかる(笑)。
 
 
 
 3番の世界は「念の世界」。自分が「ある」と思ったものは形はなくとも、力を持っている、という世界だ。パントマイマーが作る壁はまさにそれ。身体を使い、目の前に「想像の」壁を作る。その壁は「ない」けれども、ちゃんと作ると人はそれを「ある」と認識してしまうのだ。
 4番が自分だけを考えた世界だとすると、3番の世界は相手と自分との見方を想像し、共有するものと言える。
 
 実はこういう世界も普段、当たり前に経験している。
 オバケを怖い、と思うのは自分の心の中にそれがもう、出来上がっているから。
 すでに、「出来上がっている」のだ。
 
 こうなると、4番の身体で抵抗するには難しい。抵抗するには見たくない、と見ないのではなく、現実に、この身体に引きずり落とす必要がでてくる。怖い、といって目を背けてしまえばもう、恐れに取り込まれてしまう。どういう恐れが心に生まれても、身体には窮屈さとしてしか現れない。その窮屈さを身体を使って、動かすのだ。身体が動く、とわかれば、心にある恐れはもう、恐れなくてもよくなっているはず。
 
 
 
 心と身体、と考えると、つい、心の方を有難がってしまいがちだが、違うのだ。身体を手がかりにする事で、自由を手に入れる事ができる、とわかれば、未来は明るくなってくる。
 
 
 
 そして、もう一つ、心の恐れに負けないですむ方法がある。
 それは、2番のタイミングをつかむ事。
 心に恐れが生まれるのは3番の見方で動いているから。それよりも「ちょっと前」に2番の世界があり、そのタイミングで動いていると、恐れを作る暇はなくなってしまう。恐れ自体を作らないで済むのだ。
 
 
 
 2番の世界は跳ね返りの世界。どうやらこれは便利な現代を作り上げてしまった事で見失ってしまった世界らしい。
 舗装もなく、山道ばかりで、便利な機械や乗り物もない時代ではどうしたって、「環境」を意識し、使いこなさないと暮らしていけなかったはず。
 それが便利さの名の下どんどんと新しい機械を取り入れ、環境を変えてしまった事で、筋肉の力だけで暮らせるようになってしまった。4番、5番の世界がそれだ。
 確かに機械やサービスを使う事で作業効率はよくなり、行動範囲も増える。しかし、2番の世界で生まれる跳ね返る力を無視をして暮らしていれば、どうしても身体に負担がかかり、壊れていく。
 
 腰痛や膝痛なんかは2番の世界で生まれる跳ね返る力と筋肉の力の衝突で生まれているんじゃないかな、と推測している。実際、跳ね返る力に乗り、身体を動かしているときには身体の緊張は抜け、楽に動けるのだ。
 
 
 
 跳ね返る力は身体が地面と衝突する事で生まれている反作用の力。
 この世界には間違いなく重力がある。この身体が地球に引かれ、地面と出会い衝突した瞬間、外へと跳ね返る力が生まれていたのだ。これに全く気がつかず今の今まで暮らせていたのだから、本当に不思議(笑)。
 
 しかし、これはどうやら、ものすごく、なじみ深い力らしい。
 バスケットボールのドリブルを考えて欲しい。まさに、あれが跳ね返る力。ボールが地面に触れた「瞬間」跳ね返る力が生まれている。ドリブルを巧みに行う人は、その跳ね返る力のタイミングで動いているはず。
 
 だから、子供の頃、ドリブルができなかったのだ(笑)。
 考えてみると実に当たり前。すでに生まれている跳ね返る力を考える事無く、自分の筋肉を主とした力であわせようとしても、絶対的に遅いのだから。
 スポーツを楽しめる人は普通にそのタイミングで過ごしているのだ!
 
 
 
 ただ、世の中はどんどん身体を使わないようにできている。若いときには考える事無く、跳ね返る自然の力に乗れていたのが、老いる事や怪我をする事で、だんだんとできない事が増えてくる。そのできなくなって来たときに3番や4番、の力でなんとかしようと考えても遅いのだ。
 あまりにも自然すぎて見えないのが2番の世界。しかし「地面」がある事で生まれる力が「ある」と意識しながら動いてみると、明らかに考えて動くレベルとは違うものがある事に気づけるはず。
 
 それに気がつければ、車が転がっていくように、自然にそって動き、暮らす事ができそうだ。車は恐れを作らない。環境である地面の斜度に合わせてただ転がっていくだけ。そういう動き方を意識する事ができれば、恐れを作らず、ただ、自然にそって、と言える様な生き方ができるんじゃないか、とものすごく期待しているのだ。私の興奮が伝わるだろうか(笑)。
 
 
 
 そして最後に1番。これは、身体も地面も考えない頭の上にある北極星のようなもの。
 ひたすら一つの事に意識を集中していると、身体は勝手に動く。時間さえも気にならない瞬間はきっとこの1番の世界。気がついたら、そこにいた、っていう世界。
 
 火事場の馬鹿力のようなものもこれかもしれない。大切な将軍の鷹を追いかけていった鷹匠が崖も川も気にせず追いかけ捕まえた後、自分の進んできた道のりに驚く、っていうのはまさに、これ(笑)。
 
 言葉で書けば簡単な事も大人の頭で意識をそこにとどめておくのはなかなか難しい。手がかりになりそうな事もあるので、この先稽古を重ねて、もう少しうまく言葉にできたらなぁ、と思う。
 
 
 
 ちなみに1番の動きでかけた技は「冷たい」。相手にしてもらっていない感じがするらしい。2番は逆に「温かい」。それは自分も相手もともに同じ地面の上にいるからだろう。地面を揺らすように動く事で生まれる力は波の高いところの舟のようなもの。同じ場所を意識できるから一体感がある。
 
 手がかりになるかはわからないが1番の技は上に、2番は地面ぎりぎり下に意識がおかれる。うまく技になっているんだろうか、と考えたとき、気になるものが上にあるのか、下にあるのを相手に聞いてみると、目安になると思う。
 
 
 
 
 
 さて、お付き合いいただきありがとうございます。
 書き出してみて、読み返し、自分でもうんざりです(笑)。
 とにかく世の中は不思議、人間は不思議だ、という事です。
 そして、さらに、それを楽しむ事ができるのだ、という事です。
 
 きっと世の中はさらに便利になっていくはずです。どんどんと身体を必要としない世界ができあがるでしょう。やってくる未来はどんなんだろう、とわくわくしている自分もいます。怖いのは便利さによって退屈を生んでしまう場合です。すべき事がなくなってしまったら生きていく気力がなくなってしまいますからね。
 
 私は甲野先生に出会い、身体がある事を教わりました。
 身体があるからこそ感じられるものが「ある」とわかると、どんなに落ち込んでいても一気に楽しい気持ちが湧き上がってきます。
 ぜひぜひ、興味を持って、自分、相手、環境へと気持ちを拡げてみてください。絶対に「なにか」が見つかるはずです。もし手を合わす機会がありましたら遠慮なく聞いてください。そこからさらに「なにか」が見つかるのを楽しみにしています。
 
 
 稽古、講座の予定などはこちらをごらんください。
 
 

自分の言葉を聴きながらの稽古

先日の大垣、浜松での稽古から。
 
 
 
普段、とにかく、自分の動きを観察しながら、少しでも、うまく伝える方法はないか?と、問いかけながら稽古しています。
一人でそれを考えていても、なかなかうまい言葉にはなりませんが、人に教えている時、伝えている時、思いがけず、いい言葉になる事があります。
 
  
 
 
その瞬間、一体誰がその言葉を言わせているんでしょうね。
 
 
 
師匠の甲野先生はご自身が一番の受講生のつもりで・・・と言われていました。
一応、各地で講座を頂き、人の前で話す事も多くなりましたが、なかなか、自分が自分の受講生のようにはできません。
 
今週の稽古はその「瞬間」を感じさせてくれるものでした。
いったい、なにが原因でうまくいった感じをつかめたのかさっぱりわかりません(笑)。
 
それでも、緊張しがちで、すぐに上がってしまう自分が今、こうしてこんな仕事をさせてもらっている事が不思議でなりません。
 
 
 
様々な技や術もどんどんつくり、伝えていますが、どんな言葉よりも、自分の変化を見てもらうことが一番かもしれないなぁ、と思いました。
えっ?こんな人がこんな事ができるんだ、と自分にもできるかもしれない、と気持ちが出てくれれば一番なんですけど。
 
 
 
いつも、いい稽古をさせていただき、ありがとうございました。
また、よろしくお願いします。

肘はミクロの動き

巻き上げ、という言葉があります。
最近の宇宙の話を読むと、たくさん出てくる考え方です。
例えば、こんな感じです。
 
 
 
大きく広がっている一枚の紙をクルクルクルと「巻き上げ」ると、一本の棒になります。
それを遠くから見れば、平面ではなく、線に見えるというわけですね。
大きな視点で見れば、線です。
当然、動ける範囲は一つしかありません。
しかし、自分の視点が小さく(例えば、電線を歩くアリのように・・・)なれば、そこには平面の世界が広がっていて、移動ができます。
 
 
 
同じものでも、視点の違いによって、違ってくるのです。
 
 
 
これを武術を通して身体で感じてみたいと思います。
まっすぐ手を出す、という状況を考えてみてください。
相手はそれを抑えます。
まっすぐ前へと出すのですから、相手もまっすぐ抑えればいいわけです。
当然、この状況であれば、力の大小だけが問題になります。
 
 
 
 
この時、相手もこちらも、「手」というものを見ています。
だから、衝突です。
同じレベルの視点なんですね。
 
 
次に、肘に意識を集中します。
肘は折りたたむ動きと、スイングする動きを持っています。
スイングの動きはわずかですが、それと手を前へと出す動きを組み合わすと「螺旋」の動きが生まれます。
 
 
 
肘をスイング、と言っても、それは手を見ている人からは気づかれない動きになります。
小さく、横に動きが生まれるんです。
スイングの動きは大きくありません。すぐに、動きは止まります。
ゆっくり、動かし続ける、という事を意識しておくと、さらに、相手からはなにをしているのか分からなくなります。
 
 
 
 
この時、肘は電線の上にいるアリのようなものです。
小さな動きを作り出す事が出来ます。
 
 
 
まっすぐに・・・と言った時に、そこにはどんなレベルで、という事が隠れています。
そのギャップが相手を崩す技になり、丁寧に動く、という事を表現するようです。