稽古日誌

宇宙の中で生きている

あぁ、自分は宇宙の中で生きているんだなァ~、そんな事を感じて帰ってきました。

昨日、杉山開知さんの「こよみのおはなし会」に参加してきたんです。

地球暦というこよみを作られている開知さん。話を聞いていると、
どんどん興味が宇宙へとむかっていくんですよね。

あぁ、そうか、自分は宇宙の事がもっと知りたいんだ、そう気づきました。
そして、このタイミングで開知さんのお話が聞けたのも意味があると思います。
これまでは興味はあっても、実際に「行動」にはならなかったですから。

今、僕の講座ではクルクル回る事を中心に話をしています。
回るといえば…星は規則正しく、きれいに止まる事なく回り続けていますよね。
宇宙の法則の中で星が生まれ、関係性を持って動いています。
その星のなかで生まれた僕ら、その僕らの体の中に頭の渦から指紋、
二重螺旋のDNAなどたくさんあります。

そんなもん、当たり前!と思ってしまう事も出来ます。
実際、僕は興味がある、と思いつつも、どこかであたりまえと思い、
自分にその秘密を追求するなんてとんでもない!と考えていましたからね。

でも、この体の事と関係してるんだなァ、と思うと俄然やる気が湧いてきます!
一年前、この体は回っている方が自然なんだ、と気づくチャンスはありました。
でも、それを本当に体で実感するのに、1年かかったんでしょう。
でも、この1年も気がつかないだけで、カラダもココロも回っていたはず。

これまで、頭で知っている事を体で確かめる事に楽しさを感じていました。
昨日の話でそれとは逆に、体で感じていたことを
外の知識と組み合わされる事も楽しい事に気づきました。
体の感性がすこし、たくさんの知識に追いついたのかな?

話の内容はもちろんですが、そこへのきっかけを作っていただいた人がいます。
そしてその人の周りにもいろんなタイミングがあるはず。
人それぞれのタイミングが重なり合って世の中はつながっています。
自分が星のようにただ、動いていければ・・・なんて夢を拡げられた一日でした。

それともう1つ。
Power of Ten」という動画を見せていただきました。
有名なものですから、どこかでみた事がある人もいると思います。
でも、感性の鈍かった僕は、「ふ~ん、おもしろい」とそこで止まっちゃったんですね、きっと。
回り続けられれば良かったのに(笑)

体の外へ拡がる宇宙と、体の内に拡がる宇宙。
体の中にある不思議を武術の世界はわかっていたんだと思います。
僕程度の気づきでも、努力を通しての練習では決して行く事ができない世界を見る事ができますから・・・。

楽しい、嬉しい、ワクワクする。
そんな事を感じているとき、この体は最大限に働いているんです。
無意識にここまでは話していいかもしれない・・・そんなカベを作っていたのに気づきました。
自分のカラダを通して視点を掘り下げていくと宇宙に拡がって行くなんて!
楽しいなぁ・・・。

ありがとうございました。

流れのお稽古

昨日の豊田の講座では久しぶりに、流れを意識する稽古をしました。
時間的に余ってしまって(笑)、なにをしようか、と思っていたら、ふと口からやって見ましょう!と。

手首をつかまれ、肘に流し、肩をよせて首から背骨を降りて、腰にたまる。
おしりを突き出すようにしてカカトへ降ろし、つま先を踏んで膝を内側に絞ると腹にたまります。

そのたまった大きな力を胸に引き上げ、改めて手首へ戻し、相手へ返していきます。

言葉にしながら試してもらうと、これは実に「瞑想的」という事に気づきました。

つまり、僕が分が感じている力の流れを言葉を通して相手に渡しているのです。
「廻る」事で「忘れる」といっても、なにが忘れて、忘れていないのか、というのは確かに曖昧。
まぁ、以前には気づけなかった感覚に気づくことが発見であり、楽しみなんですけどね^^

改めてやってみたこのお稽古はこの仕事を始めたときに手がかりとしてやっていたものです。
その当時から比べれば技も術もぐっと、進化しています。
それでも、新しい感覚を楽しむ、という点ではまだまだいいみたい!

ちょっとこれからの事にヒントをつかんだ感じがしました。

風呂での発見

月曜日、ひさしぶりに仕事の無いオフの日でした。
ただ、家の中にはたくさんの仕事がたまっており、それを一つ一つ片つけました。
まずは古着をリサイクルのお店へ。先日亡くなった叔母の服。
とにかくものすごい量!全部で80キロ近く・・・それが500円と交換なのは喜んでいいのか、悪いのか。思い出がたくさん詰まっていても、それは交換できないらしいです。

家をかたつけ、一息つこうと近くのお風呂へ向かう。
子供がいない大きなお風呂は久しぶりだ。

本来ゆっくりすべきこのお風呂でもつい、色々考えてしまうのはもはや病気かもしれない^^;
新しい風呂の楽しみ方を見つけ、一人試して喜んだ。
平日、それも真昼間だからこそ、のんびり皆に迷惑をかけずに楽しめました。

いったい、どんな楽しみ方かというと・・・
お風呂の中に耳までつかり、その水の中で音を聞いてみました。
普段は聞こえない音がたくさん聞こえます。
特に、息の音。
自分の中にごぉ~っと風が吹いているよう。
これだけいつも、自分の中には変化がある、というのを「実感」できる。
ぜひ一度、自分の息の音を聞いてみてください。
ちょっと感動です。

実はこの呼吸の音は水中でなくても聞こえます。
僕は自分の体に息を吐き出し、自分の体から息を外へと吐き出すように意識をしていますが(つまり、吸うという感覚を無くすわけです)、ちょっと集中しないと、外にあるたくさんの声や音に邪魔をされてしまいます。
この音が聞こえる時、ココロの中がすっときれいになります。集中できるんです。

イルカやクジラの話は科学的なものからロマンチックなものまで色々ありますが、いったい彼らはなにを聞いているのか・・・、そんな事を考えたりして、お風呂に使っているのはきっと、僕だけでしょう(笑)

そしてもう一つ、発見が!
水の中の音を聞くと、自分の頭の音が聞こえてきます。
音というよりも振動が・・・。
ぐっと頭に力を入れると、ぶーん、というように振動しているのに気づきます。
集中しているとき、イライラしている時、感情が動く時、それは目の前の相手に伝わっていますよね。
言葉にするよりも先に伝わっているものが確かにありそうです。

もちろん、これらは「証明」されたものではありません。
でも、自分の「感覚」においては確かなものです。
そこに確かになにかが「ある」と気づいたわけですから。
この感覚をちょっとでも楽しい方へと使っていけそう、そう思えるから人生が楽しくなると考えています。

夜にはいつものように小林寺拳法の指導へ。
大会明けで練習に余裕があったので、道場の仲間へ最新の研究「手放す」と「忘れる」を説明。
木刀を前にして「怖さ」を消す工夫を一緒に試しました。

ちょっとずれていれば怖くないんですね。
そして、その「ズレ」をちゃんと体は認識できるみたいです。
木刀は怖いです。
でも仕事の先行きや人間関係もある意味、「怖い」です。
「怖い」と思った時、いったい何を「思って」怖いと決めたのか・・・
それを考えていくと、怖いと思った対象をずらしていけば自然体で歩いていけるかもしれない・・・

これが現代において武術・武道を稽古する楽しみです。
なんだ、自分は大丈夫だったんだ!と気づけた時の楽しさを伝えたいなぁ~。

稽古の後には「変化」

こんにちは、山口潤です。
土、日、月曜日の3日間、甲野先生を名古屋へお迎えして緊張感のある時間を過ごしました。甲野先生が名古屋へ来られた1番の目的は「この日の学校」という若き数学者森田真生氏とのセミナーを開催するためです。うわさに聞いていた森田さんですが、好青年とはこの事か、というような方。数学、という学問が入り口なのにも関らず、どんどんその魅力に引き込まれていってしまいます。
 
その日の学校、そのものには仕事の都合で参加は出来なかったものの、世話人の役得でしっかりとお話しをうかがうことが出来ました。この日の学校、そして森田さんについて、たくさんの人にその魅力を伝えたいのですが、ショックが大きすぎたのか、うまく日記用の言葉にならないので、興味がある方は個別、もしくは甲野先生のサイトにあるこの日の学校の案内をご覧ください。
 
 
 
いつも、甲野先生との稽古の後には「変化」があります。今回は森田さんから思考、発想、想像、創造・・・アタマの面、ココロの面も刺激をたくさん受けました。今回もさっそく二つの大きな変化、気づきがありました。
 
一つはカラダの使い方、筆の使い方が格段に上がりました!格段・・・とは言ってももともとががっかりのレベルですからね(笑)。ちゃんと書けるようになってから、と言われそうですが初めて「字を書く」という技で自分のカラダの上達を感じられたわけです。長年の願いでしたからただただうれしい!(秒速1センチですけどね・・・)
 
そしてもう一つは言葉。言葉がうまく出てきません。この日記もだらだらと言葉をつなげていますが、それもうまく出来なくなっているみたいです。今回受けた刺激をまだアタマが処理をして言葉にできないんだろうなぁ、と思っています。
 
というわけでしばらくお休み・・・というわけにも行かないので、ブツブツ切れたものをお送りします(笑)。最近はtwitterが革命を起こしているそうですし(完全に出遅れましたが^^;)
 
 
 
時間=カラダ、というのをやったので、空間=ココロというテーマでちょっと進めます。
 
では!

稽古禁止!

そろそろ、街もお正月気分も抜けて、動いてきましたね。僕も、ようやく、今日、初稽古を行ってきました。今年はカレンダーの影響か、いつもよりも長く休みをいただく事になりました。

ただ、稽古がない、と言ってもそれは具体的な技の練習がなかっただけであり、生活を通してカラダに向き合うことはずっと続いているわけです。
 
 
 
カラダラボでの稽古は普通の練習とは違い、反復練習は行いません。それが、いらない、というわけではなく、反復したくなったら、好きなだけ行えばいいだけであって、まず「回数」があって、それをこなす事に満足してしまってはいけません。「ノルマ禁止」なんです。
 
 
 
稽古禁止、と言ってもいいかもしれません。
 
 
 
したくないのに、稽古をしても良い事はないんだ!そう、自分にも言い聞かせています。

ただ、私たちは未来の予測ができます。つい、今のままではいけないぞ、と不安を元に稽古をしてしまいがちです。不安が元になった稽古は、どうしても工夫が減ってしまうんですね。

工夫のない稽古と言うのは、つい、回数に頼ってしまいがちです。勉強と同じ、と思うと分かりやすくないですか?勉強したくなくても、しなければ不安だから、机の前には座るものの、その気持ちで勉強をしても身につかないことは誰でも知ってますよね。それと同じです。
 
 
 
稽古したくなるまで、考える、というのはどうでしょうか?
稽古の意味、なぜ、今自分は稽古をしたくなるんだろう、稽古で手に入ること、手にしたいことは何だろう・・・?その自分の希望、願望を達成するためには稽古しかないんだろうか・・・?色々なことを考えればいいと思うんです。

私自身、今、武術を通してカラダを見つけ、そのカラダを改めて認めていくことで、人生におけるさまざまな疑問の答えが出てくる、と言うことに絶対の自信を持っています。でも、これはたまたま私が出会ったものが「武術」であり「身体」だっただけで、武術や身体だけが人生の問いに対して答えが出てくるものではないはずです。

別に、これが学校で勉強をし始めた国語や数学でもいいと思いますし、音楽やスポーツでもかまわないと思うのです。ただ、僕は武術であり、カラダだった、というだけです。
 
 
 
ただし、単純に武術を稽古していればいいかといえばそうではなく、勝ち負けを基準にした見方のままではその具体的な状況でしか使い切ることが出来ません。自分が学んだ、状況がそのまま現れてくればいいのですが、なかなか型どおりの状況にはであいません。むしろ、そうでない場合が多いわけです。

スポーツ化している武術・武道も多いですが、試合に勝って喜び、自信を付け、それを糧により人生を楽しく生きる、と言うのであればそれもいいと思います。ただ、私はそれがなかったんですね。試合の中で褒められても、それがうまく自信につながらなかったんです。だからこそ、今、こうして試合のないもので自分を見つめなおしているのかもしれません。
 
 
 
自分がやりたい事をやりたいだけやってみる。そうすると、いつか必ず「飽き」がきます。それだけ人間には適応能力があるんでしょうね。こんなにも不思議な事ができるようになって、どうしよう♪、なんて気分よくなることがよくあります(笑)。でも、一月ぐらい、それを楽しんで稽古していくと、あれだけ興奮したものでも、当たり前になってきます。この時、無理に大切にしてはいけないんです。どんどん、捨てていく。

すると、また新しい事に気づいていけるみたいです。今まではそうでした。最初は捨てることにも勇気がいりましたが、今はもう、全然平気です。
 
 
 
自分にとってのやりたい事って何だろう?考えてみてください。やりたい事って言うのは「常識」のことかもしれません。例えば手をつかまれて、そこから逃げるとします。単純に力いっぱい抑えられてしまった時に、自分がつい、してしまう動き。これがやりたい事です。自分が最後の最後にどうしてもしてしまう動きです。

この自分の「常識」をバージョンアップしていく事が稽古です。ただ、腕を引っ張っていたのを骨を意識して廻しながら引いてもいいし、肘を使いながら引いても構いません。僕の場合、今なら腕を意識するのではなく、その腕の周りのほうが実体でその周りが動くことで結果的にその腕が動いているように動く、というわけの分からない動きがやりたい動きになっています(笑)。

自分が一番頼りにしている動きを知っておけば、後はその頼りになる動きを超えるものはないかと探し回ればいいのですからね。捨てることも慣れてしまえばそれほどつらくありません。
 
 
 
追伸
そういえば、年賀状や年賀メールで一番多かったのは「わからない」というご意見でした。
分かりやすくを考えての言葉なんですが、分かりにくくてすいません(笑)。
自分でも驚くほどの気づきがあって言葉になっています。僕自身全部、初めての経験を言葉にしていますから、時々、昔の事を聞いてくれると、また違った感じで分かりやすくなっているかもしれませんん。

ただ、「わからない」というのは、ある意味、自分の「常識外」のことなのかなぁ、とも思います。
考えてみると甲野先生の言葉を僕は全く分かっていません。稽古をしていって、あれは、この感覚を言っていたのかなぁ、と想像するぐらいです。そういう意味では「わからない」と言ってもらえる、というのもいいかもしれない、なんて考えてしまいます。

でも、甘やかしてはだめです(笑)。分かるまで、聞いてください。
その「問い」が新しいなにかのきっかけになりますから。よろしくお願いします。