稽古日誌

【稽古日誌】子供たちの身体と大人の身体

しぶとい夏の暑さも朝晩はもう、寒さを感じるほどになり、いよいよ選手交代、季節の変わり目を感じます。まぁ、それでも日中はまだまだ汗をかかせてくれるほどの夏のパワーは大きいですけど。
 
 
 
自分の目の前にあるものを「道具」として認識をすることが出来て、世界の見方がどんどん変わっていくのを感じます。これまで、嫌だった事は、ただ、自分がうまく道具を使っていなかっただけなんだ・・・と。
 
 
汗が溢れてくるほどの暑い日は「皮膚」という道具が「ちゃんと働いて」汗を出してくれます。これは体温を調節してくれています。
それなのに、僕らはそのちゃんと働いてくれているものに対して「汗が出すぎて困っちゃう」などと、文句を言います。
 
お腹が痛くなれば、お腹が痛い・・・なんていうのも文句です。
 
 
でも、これは、違うかもしれません。この見方が「道具の術理」から得た新しい見方です。
 
身体にとって必要だからこそ、汗もだすし、痛みもだすんです。
言うべき言葉はちゃんと働いていてくれて、「ありがとう」なんだ、とわかりました。
 
 
あらゆる事に対して、ありがとうを言おう、と知って20年ぐらいでしょうか。
ほんとにそうなんだ、と気づくまで、こんなにも時間がかかっちゃった(笑)。
 
 
 
これまで、身体を細かく見続けて、少しでも速く、正確に動かしたい、と掘り下げてきました。
その中で見つかってきたさまざまな事があります。
自分が選択する事、信念、情熱を持つ事、トラブルも成功も経験の一つとして楽しむこと・・・いろいろあります。
そのいろいろなところから得た自分の力をどうやら、道具を信頼することだけに集中する事が一番、この人の世の中では幸せになれる道だと感じています。
 
 
私たちの意思で、気持ちしだいでなにかできる!というのは「我」なんです。
皮膚が汗をかいてくれなければ、死んでしまいます。
自分の思いだけでは体温調節はできません。
お腹が痛くなっているからこそ、身体がまたよくなるんです。
どんなに頑張っても、目の前にある道具に比べて、私たちの「身体」は役に立ちません。
身体には身体の役割が、道具には道具の役割があることが分かると、道具たちと気持ちのいい付き合い方ができ、私たちを今まで以上に助けてくれるようになります。
 
 
身体は信頼するために使う。
ただ、これだけです。
ナイフも、コップも、パソコンも。使う瞬間、手に持つそれらを完璧に信頼し、感謝する。それがコツです。
 
 
この見方、考え方を技を通してまちがいない、と思わせてくれるのが武術です。
我をはり、頑張っていた時には叶わなかった結果が目の前に出てくるんですから、そこに「確か」なものを感じられるんです。
 
 
 
さて今日の日曜日は午前中、少林寺拳法の日曜練習。
普段の平日の練習では子供たちしか練習しません。
もちろん、お父さんもお母さんも一緒に来てくれてもかまわないんですが、なかなか時間を作れませんからね。
子供たちと一緒に動く事でたくさんの事を学ぶ事ができるのに、もったいない!と日曜日の練習の機会をつくりました。
 
 
 
子供たちを見ていると、まさに身体の思いのまま、動き続けています。
道具の術理に当てはめてみると、彼ら子供は道具をうまく使えません。
ドライバーやハサミも大人は簡単に使えますが、子供はなかなかうまく使えません。
この事をどう考えたらいいんでしょうか?音なのが有利なの?
子供たちは道具を信頼していないんでしょうか?
 
 
 
おそらくきっと、これは大人が考えるように道具を必要としていないんです。
道具はある「働き」を求めるために作られるわけです。
大人はその働きを求めるために道具を使います。
子供たちにはその働きを求めようという気持ちがありません。
むしろ、道具そのものを手に持ち、楽しむ事を一番の目的にしていますね。
手にしている道具が同じでも期待する働きが大人と子供では違うんでしょう。
 
 
 
子供たちにとって、全ては遊びです。
大人のように「しなくてはいけない事」がないですから。
 
 
いや、もしかしたら彼らの身体は全身が「自分のもの」なのかもしれません。
道具の話をしていく時、この肘から先は道具、自分の身体じゃないという見方は新鮮です。
そして、すぐにはそれを受け入れることはできません。
もちろん、口では「はい、肘から先は道具です」という事ができます。
しかし、それを技を通して表現できなければ、口先だけで、今までの自分とまったく変わりがありません。
 
 
 
動物は指の先まで「身体」なんだそうです。
だからこそ、猿は木を渡り歩きますし、おぼれる魚がいないのかもしれません。
でも、僕らは違います。
道具を使い、この世界を生きています。
 
 
子供たちは・・・と言えば、本能のまま、ただ、生きるために生きている、そんな感じがします。道具に期待をせず、この身体を全部使う事で生きているようです。
しかし、どこかで彼らも道具と出会います。
道具をしれば、そこに便利な役割があることを知ります。もちろん、無意識に。
この時代に生きていくのに、道具との関係を整えておかないと、便利であればあるほど、感情が揺れそうです。
 
 
 
子供たちは昔の自分です。
しかし、なぜか、その昔の自分を思い出すのが苦手です。
ついつい、大人の自分から、昔の自分を思い出して、しまいます。
 
 
武術を通して見つかる自分は新しい自分ともいえますが、遠い昔、子供の時に持っていた自分と言う感じもします。
たくさん、子供たちに教えてもらっています。
すこし、プライドをはずして、子供たちを見てみると、たくさんの発見が得られると思いますよ。
 
 
 
久しぶりに文字を書き出して、頭の中の掃除ができているのがわかり、楽しくなってます。
読んでくださる方には申し訳ありませんが、これからも、しばらく、ただ、感じていること、思ったことを書き出す、事だけに専念します(笑)。
ただ、道具の術理や肘の術理といった技的説明が多面的に話せる事で、意外とこの形もいい、と言ってくださる方も見えます。
そういう言葉があると、僕は調子に乗りますから、どんどん、技と動きの言葉も増やしていきます。
 
なんといっても、武術、武道はより楽しく、生きるためにある道具ですから!

【稽古日誌】浜松教室は6年目に突入!

技の進展もあって、ついつい、夜更かしをして睡眠不足のまま今日は浜松へ。
浜松中日文化センターでの講座でした。
 
この浜松中日文化センターでの講座。早いもので、これで丸5年。この10月より、6年目に突入しました!
なんのツテもコネもないまま、身体の楽しさを伝えようと独立したのが2007年。
そんな私によく、中日文化センターは声を掛けてくれました。
ありがたい事です。そして、当時から、ずっと稽古を共にしてくれる仲間にも感謝です。ありがとうございます。
 
 
 
そういえば、最初、お話を頂いた時には古武術介護がブームのようになっていました。
ただ、私は介護の専門家ではありませんし、介護のみに使う古武術はもったいない、と思っていました。
当時の担当の方に、実際に技を受けてもらい、カリキュラムはなく、常に変化のある講座でよければやらせていただきます、と言った事を思い出しました。
よく、そんな大きな事が言えたものです(笑)。
 
 
気がつけば、5年。
当初の予定通り、カリキュラムに縛られず、常に、一番新しい気づきをもって、講座に向かう事が出来ています。
よかった、あの一言を言っておいて(笑)。
 
 
 
さて、今日の浜松の講座では肘を使っての重心操作と腕を道具と見立てた指先の重心操作の2本立て。
時間的には無理があったものの、私たちの意識はちゃんと全部、受け止められるぐらいの能力がありますからね、遠慮なく、全部、言葉にさせていただきました!
今月、言葉にしておくと、次回、すぅ~っと入っていくんです。
 
 
人間って自分の知らない事にであうと、耳をふさぎます。驚いちゃうんですね。
でも、どんなに難しい事も、2度目であれば、1回目よりも奥へと入っていきます。
私が伝える術理は訓練、練習するものではありません。
どんな人の中にも存在している身体を強くする法則です。
肘や指と仙骨の関係をしれば、自然と、姿勢が変わり、結果としてストレスに対して強くなるんです。
逆に、練習をしよう!と強く念じれば念じるほど、無意識には自分はできていないのだから、練習するのだ、と刷り込まれてしまいます。
練習、いらないんです。
誤解をされやすい言葉ですけど・・・。
 
 
 
今日一日、ずっと稽古を共にしてくれている一番古い方と色々話し、改めて自分にとっての古武術とはなんだったんだろう?と考える事が出来ました。
 
身体の楽しさを伝えたい、と始めたカラダラボですが、身体の楽しさってなんだろう?って。
 
なにかが出来れば楽しい、うれしい、というのはわかりやすい楽しさです。
でも、そういうのとは違い、ただ、自然と生まれてくる楽しさが古武術にはある、そう思ってきました。
だからこそ、古武術介護もスポーツも勝負のための武道への応用も求められれば全部伝えますが、どうでもいい、と思っているんです。
 
 
特別な時に必要とする武術ではなく、ただ、今、この瞬間をしっかりと受け止め、そこに楽しさ、喜びを感じられるようになるのが、私が甲野先生から学んだ古武術です。
稽古を重ねて、たくさんの気づきがありました。
気づくたびに動きは見違えるように変わり、昔、夢にも思わなかった事が普通に出来るようになってきました。
でも、そんなのどうでもよかったんです。
 
 
 
気づくたびに分かるのは、なんの心配も不安も持たなくても良かった、という事でした。
もう、すでに、自分はこの人生を楽しむための全てを頂いているんだ、という事です。
 
 
ただ、知らない、気づいていない、という事です。
使いふるされてる言葉ですが、古武術は自分探しだ、と言えるかもしれません。
ただ、身体を通しての自分探しです。
そこで見つかる自分とは、波動であり、骨であり、筋肉であり、道具を扱う自分です。
そして、自分ではないものもある意味、自分です。
頭の自分がいて、心と体の自分がいて、社会という環境の自分がいます。
少しずつ自分という存在が自分の中でくっきりしていくんです。
楽しくないはずありません!
 
 
 
本屋さんに行けば、たくさんの答えがあります。
今、こうして、私が伝えている事も答えの一つです。
でも、大切なのは自分が信じたい答えをちゃんと身体で実感をする、という事です。
その楽しさが分かれば、もう、未来はバラ色ですね、間違いなく(笑)
 
 
みんな、誰でも、自分だけの身体を持っています。
この体があるからこそ、本当の自分という存在が見えてきます。
自分探しをしに日本を飛び出て外国に行く人がいます。
どうなんでしょう?見つかるのかな?
でも、古武術でなら、必ず、知らない自分が見つかります。
もし、その見つけてしまった自分が嫌なら、もっと掘り下げればまた、違った一面が見つかります。
どんどん、見つかり続けるんです。
 
 
 
きっかけは小さなものかもしれません。
ぜひ、一度、経験してみてください。
 
 
ちょうど、来月、師匠である、甲野善紀先生が名古屋へやってきてくれます。
ちょっと閉塞感を感じている人は特に、おすすめです。
普通ではない人をご自分の目で見て、肌で感じてみてください。
うまく言葉では説明できませんが、きっと、すごい、経験になりますからね。

【稽古日誌】金曜日は稽古三昧

今日は安城市社会福祉協議会の依頼で介護者のつどいの中で古武術介護の講座をしてきました。20人ぐらいだったかな、男性、女性、プロの方もそうでない方もいて、多種多様。それでも、全然平気になっているのは、なんだか不思議。人前にでるのがあんなにも苦手だったのに(笑)。
 
 
 
理由は絶対に、古武術を通して自分探しがうまくいっているから。
きっと心を頼りに探してしまっていたら、手がかりも見つからなかったと思う。
でも、運良く、身体を通して自分をみるチャンスを得て、気がつけば、たくさんの自分に出会う事が出来た。
その中で気づいてきた事が今回のように、求められ、喜んでもらえるものにもなるんだから、幸せとしか言いようが無い。
 
 
 
さて、限られた時間でどこまで伝えられるか、それだけが心配でしたが、結果的に大盛況、大好評となり、良かったです。
特に意識してお話したのは肘の話。
肘と仙骨が連動している、というお話です。
 
 
 
そろそろ普段から身体に重さを感じる年齢の方が多かった事もあり、軽やかに動ける、という事に驚いてもらえました。肘って年齢とは関係なく、動き続けてくれるんですね。
まずは自分の肘と骨盤の連動を感じてもらってから、相手の肘にアプローチです。相手の肘に優しく触れる事で、バランスが崩れ、動きが生まれます。
その重さのエネルギーが身体を動かす力になります。
 
 
 
筋力に頼る動き方から、構造、重さにシフトするには発想の転換が必要です。
構造をしらない段階で筋肉の動きを捨てるのは勇気が必要です。
それでも、なんども筋肉ではない力で動かされれば、だんだんと力の入らない世界がある事がわかります。
人間は経験を重ねる事がいちばん上達への近道なんですね。
20人という人数も良かったのかもしれません。
説明は忘れても、身体で受けた感覚は絶対に残りますから。
 
 
 
この講座は12月にも開催します。
参加費は無料のはずですから、もし、お近くの方で興味があれば、ご連絡ください。
 
 
 
夕方からは少林寺拳法の稽古。
最近子供たちには仙骨を立てることを意識して指導しています。
正座をした時、骨盤が倒れる子が多いんです。
まぁ、僕も、そうなんですけど。
 
 
 
だからこそ、身体が固まる前に伝えなきゃ、と思います。
姿勢が良くなれば、考え方も変わります。
なぜなら、感じ方が変わるから。
とはいえ、すぐに効果が出るわけでもありません。
 
 
 
しかし、子供の頃の習慣こそ、どんな大人になるのかを決めるように思います。
とにかく、自分には身体があるんだ、という事をしっかりと伝えていきます。
もう、どこにも、伝えてくれるところは無いんだから・・・。
 
 
 
9時からは深夜稽古、大人の武道塾。
こんな夜からお付き合いしてくれる人がいるのか?と思われるかもしれません。
でも、いるんです(笑)。
今日は5人で研究稽古です。
 
 
 
先々週に見つけた、「肘から先は道具」の術理。
先週の時点では自分の腕を道具に見立てるのに精一杯。
それでも、これまでのどんな動きよりも、速く、気配も出ず、細かい動きが可能になりました。
それまで出来なかった技もこの気づきのおかげでできるようになったし。
 
 
 
動けば動くほど、発見がある時期ですが、今日の稽古では、相手の腕を身体から切り離す事に成功しました。
身体から切り離すと、相手の中に強烈な違和感が生まれます。
目に見える前腕は自分の腕なのに、制御をこちらに奪われてしまうからです。
 
 
 
この切り離された状態で、その前腕を道具と見立てて、崩さないように動いてみると、その道具に引かれて、相手が崩れていきます。
原理はなんとなく、頭のなかに生まれつつありますが、本当にこれでいいのか?と疑問です(笑)。
 
 
ただ、技の威力、感触が全く違いますから、レベルが変わったのは確かなようです。
 
 
 
いつもそうなのですが、変化が現れるのはまず、身体、動きからです。
その動く身体を手に入れて生活をしていると、どんどん、ひらめきが生まれてくるんです。
身体が変わることで、感じ方が変わっているんでしょうね。
 
 
 
自分の身体に道具を見つける事が出来て、自然と、自分と道具、自分と自分以外のものとの関係を考えるようになりました。
道具というのを人が生み出したもの、と考えてみると、どんどん枠が広がっていきます。
言葉も道具、思考も道具、知識も道具です。
そして、見る、聞く、感じるといった五感も道具かもしれません。
 
 
 
自分の感じるもの、認識できるものは脳を通して感じられるものだからでしょうか。
それらの道具をこれまで、「自分」と考え、生きてきました。
そして、その道具を扱いきれずに、自分には才能がない、不器用だ、と思い込んできたのです。
 
 
 
でも、これはどうやら間違い。
道具としてみてみると、まず、道具に対しての信頼がまったくなかったなぁ、と反省です。
与えられた道具に対して、気持ちの中で文句をつけていたんでしょう。
そんな状態で道具が力を発揮するわけはありません。
道具が道具として力を発揮するのはその道具の働きを自分が認めた時だけです。
 
 
 
考えれば考えるほど、たくさん、おもしろいアイデアがわいてきます。
道具の術理に気づいた事で、自分の中の自我とはなにか、というのも感じるようになりました。
そして、その自我の扱い方も。
 
また、運命も道具かもしれない、なんて考えたり。
 
 
 
気がつけば、もう、こんな時間。
頭も廻らなくなってきました(笑)。
明日、今日だな、もう・・・。
浜松での稽古で、しっかりまた、検証して、ご報告します。
よろしくおねがいします。

【稽古日誌】大学へ・・・

このところ、動きが変わりすぎて言葉がでてこない日々が続いてました。
ご覧のとおり、ブログも滞ってました。
ただ、言葉がでないのは、言葉にまでまとめるのが出来なくなってしまっただけで、講座や稽古の際には逆に、よくしゃべるようになってました(笑)。
 
 
 
その「瞬間」の言葉には溢れるように出てくるんですが、文字に起こしていくと、どうも、違和感がでてしまい、書いては消し、書いては消してで、うまくいきませんでした。
 
 
 
それでも、このまませっかくの伝える機会を失えるのはもったいない、と思ってますので、また、少しずつ、言葉に落としていこうと思っています。
 
 
 
せっかくですから、リアルタイムにあった事を感じたままに書いていきますね。日記そのままですね(笑)。
 
 
 
今日のお仕事は大学へ監督業をしに。
なかなか休みが取れずに、ひと月に一度のペースがやっと。
ホントはもっと、機会を作って伝えておきたいんだけど、これもタイミング。機会が少なければ、惰性にもならずに、いい面もあるだろう・・・。
 
 
 
とにかく少ないチャンスを無駄にしないようにと、熱を入れて、伝えてきました。
今日伝えたのは重心移動。
少林寺拳法に限らず、あらゆる武道、スポーツでは重心移動が重要になります。
僕は子供の頃から、運動神経がない、運動オンチだ、と自覚してしまいましたが、その原因は重心移動ができていなかったから、だと今は思います。
 
 
 
動く事ができなければ、手先の動きでカバーするしかありません。
しかし、手先の動きでやれる事なんて、なにもありません。
鉄棒、縄跳び、マラソン、ドッチボール、全部ダメでした(笑)。
 
 
 
それが、今、指先のわずかな動きでこの大きな身体が動く事がわかり、考え方が一変しています。
あれだけ、運動が苦手だと思っていた自分が、今では身体を動かすことは得意だ!って口に出せるようになりましたし、この動きは歳とともにどんどん、良くなっていく、と感じていますから。
 
 
 
これは強がりではなく、本当に、この10年、15年の間に起こった事実です。
20代の頃に出来なかった動きが、今、出来るようになっている不思議はどう言葉にして伝えればいいんでしょうか?
とにかく、世間の中で言われている「老い」という常識は「嘘」ですから、皆さん、ご注意ください。
 
 
 
さて、重心移動のポイントですが、今回は「肘」に注目して伝えてきました。
実は、その先の術理も見つかっていまして、それは道具、指先の術理です。ただ、少しまだ、自分の中でも消化しきれていないので、まずは肘と仙骨の連動から伝えてきました。
 
 
 
この肘の術理は非常にシンプルで、肘の動きにあわせて仙骨が動き出している、という事に気づくだけで、ガラリと動きの質が変わります。
それまで、筋肉に任せていた動きが、肘をコントローラーにすることにより、重さを使って、体を動かし、技をかける事が出来るようになるからです。
 
 
 
実験してみて下さい。
正座の状態、もしくは椅子に座った状態から立ち上がってみてください。
普通がそれです。その感覚を良く覚えておいてください。
 
 
 
そして、次に、肘を曲げ、とがった部分を引っ張られるように、してみてください。上腕、肩が背中が引かれ、自然とお尻が浮いていくはずです。
肘が先に前へと向かうと、身体を楽に浮かす事ができるんです。
 
 
 
この時、普通は仙骨の意識が少ないので、分かりにくいのですが、肩、背中が引かれるというよりも、肘の動きにあわせて、仙骨が一緒に動いているんです。
座ったままでいいですから、その場で肘をふらふらさせてみてください。重心がゆっくりと、連動している事に気づけるかもしれません。
 
 
 
具体的な技にこれを入れて、手順化すればその技の精度は高まりますが、まぁ、それはどうでもいいんです。
大切なのはこの肘と仙骨が連動している、という事実です。
動きたい、と思ったら、いつでも、肘を意識するだけで、動ける自分になれるんです。
 
 
 
肘というのは変わっていて、痛点が少ないんだそうです。
実際につねられてもそれほど痛くありませんから、試してみてください。
まぁ、鈍感なんですね、他の部分に比べて。
 
 
 
鈍感、というと言葉は悪いですが、長所として考えてみるといつでも落ち着いていて、緊張しない、大物だ、と言うこともできます。
どんな時にも固くならずに、自分らしく、ずっといられているのが「肘」のようです。
 
 
 
敵に襲われた時、身体は無意識に緊張します。
反射的に、身体をぎゅっと縮めてしまうのです。
こんな時にも、肘にはまだ、遊びが残っています。
よく観察してみると、左右にふらふら動くのがわかるはずです。
 
 
肘が動けば、仙骨も動いています。
この動きに乗って身体を動かせば、重さという大きなエネルギーを活用できるようになります。
 
 
 
若い大学生たちを相手に、笑いながらこの肘の術理を伝えてきました。
やはり、興味が沸いてくれば、こちらがなにも言わなくても、どんどんと練習をしてくれる。
教科書的な事をまとめる事が大切な時代もあったと思う。それが組織を大きくし、固めていくのだから。
ただ、今の時代は個性の時代、しかも、知識の個性ではなく、人の質を問われる時代だ。
自分の事をすこしでも知ってもらいたいし、その自分に可能性があるという事を知って欲しいのでついつい、熱く語ってきてしまった・・・。
 
 
 
そうか、彼らからの思いが返ってきたからこうして、また、言葉にしよう、って思ったんだな。
また、感じた事をそのまま書いていきます。もしよろしければ、お越しください。

自分にとっての本当の幸せ

ふと、自分にとって幸せな時ってなんだろう・・・と考えた。
あまり大きく考えるとややこしくなるので、「稽古」の枠の中で考えを巡らせてみる。
身体が動くようになり、いろんな技が可能になって、人に驚かれるようになった事も多い。
運動オンチだった頃の自分からすれば、それは信じられないぐらいの変身だ。うれしくないわけがない。
 
 
 
しかし、その技が効き、相手が崩れた事でうれしいかと言えば、実はそうではない。
むしろ、相手のがっかりする顔がみたくないから、望んで体験してくる人以外には積極的に技を試してもらう事も遠慮していたような気がする。
特に間違って、その場に居合わせてしまったような縁の場合だ(笑)
何年も何十年も追い求めてきた経験を持っている人を「術理」はあっさりと、追い越してしまう。
それは才能の問題ではなく、自分の身体の見方だけなのだが、なかなか自分の中にもそれを行う能力があるとは信じてもらえない。まぁ、自分もそうだったので、気持ちは分かる(笑)。
 
 
 
それまで体験した事のない技にかかると人はどう対応していいのか迷う。
その迷う顔が苦手なのだ。
この先、その術理を受け入れるというのは、それまでの稽古の仕方をガラリと変えなければいけないのが分かるから。
もしかしたら楽しく稽古しているのかもしれない。そんな事を考えてしまうと、あぁ~頼りにしていたものを壊してごめんなさい、って気持ちになる。
だからこそ、技が効くから、崩す事ができたからうれしい、というのはあまりない。
 
 
 
そこで、一つ気がついた。
自分が一番うれしい瞬間を。
それは、自分が気がついたそれまで知らなかった身体の力、使い方を相手に伝えて、その動き方で自分が見事に崩され、投げられた時にものすごい喜びを感じるのだという事を。
その時、「先生、わざと倒れたでしょ^^」と言われる。
でも、そんな事は絶対にない。
いや、そんな器用に相手のご機嫌を取ることなんてできない(笑)
自分が崩れる時には本当に崩され、倒されているのです。
これって、「負ける事を望んでいる」事だよなぁ・・・。
その瞬間、自分が大切にしているものってなんだろう?と頭の中がグルグルっと回った。
 
 
 
後だしジャンケンで負けてみる、という遊びがある。
試してみると分かるけど、これが意外と難しい。
後出しだから、簡単になにを出せばいいのか分かるのだけれど、「つい」相手のじゃんけんに対して「勝つ」ものを出してしまうのだ。
どうやら、私たちには無意識に刷り込まれている事がたくさんあるぞ、と、この遊びは教えてくれる。
自分が本当に望んでいるのが「負けること」だと分かってみると、では、それを「生活」の中で生かしてみるとどうなんだろう?
生活の中での勝ちと負けとはなんだろう?
簡単には答えは出そうにない。
しかし、単純に恐れていたものが間違っているかもしれない、と一歩踏み出せた事は大きい事は確か。
 
 
 
今の仕事は「自由」だ。
その分、安定感は全くない(笑)。
もっと、安定しないかなぁ・・・と欲を出したりするわけだけど、そんな欲が出てくると、決まって心に不安が生まれてくる。
この「不安」が間違っているとしたら。
生活のために仕事を安定させ、不安をなくす。これを「勝ち」と考えてみると、本当にそれでいいのだろうか?と疑問がわいてきた。
負ける事ってなんだろう?
自分がやられる事だ。
自分が「安定」し、幸せになる事は、武術においては、いつも技が決まり、相手を崩すことができる状態に近い。
自分が崩されなければ、倒れなければ幸せ、という事。
でも、それがうれしくない、と分かってしまったわけ。
では、自分が崩されるって?
自分が伝えたことで、目の前の相手が安定し、幸せになっている状態と言えるのかも。
自分はやられているのに、相手は幸せ。
自分には得られていないのに、相手は得ている。
これ、「嫉妬心」が出てくる状態ではないか・・・。
 
 
 
実はこれまで親しい人にしか言ってないけど、私は嫉妬心が強い。
素直に周りの成功を喜べない小さな自分が嫌いだ。
自分にはできない、という低い自己評価のせいだと思っているけど、なかなかそれが取れなくて苦労している。
でも、今日の気づきで、自分が感じる嫉妬心が実は、喜びになるかもしれないと感じ始めている。
 
 
 
指先を決めると、迷いがなくなる。
腸を意識してみれば丹田に近づき、肝が据わり、堂々としていられる。
失敗する事はダメな事ではなく、自分が行きたい場所へと勢いをつけてくれるチャンス。
などなど・・・これまで話をしてきた事は誰かを投げるためのものではなく、すべて、明るく生きるために役に立つだろう、という事ばかりだ。
私がそうであったように、自分の事が嫌いという人がいる。
決断力がなくていやだな、と思っている人もいる。
人とのコミュニケーションが苦手、という人もいる。
いろんなコンプレックスが身体をいろんな見方をしてみる事で取れていく事が分かった。
ぜひ、少しでも困って、諦めている事、諦めそうな事があるなら、騙されたと思って身体からのアプローチを試してみてほしい。
今日、こんな事を書いているのも、心の内を出してみる事で、ちょっとでも勇気をもって自分と向き合う事ができる人がいるかもしれない、と思っているから。
少しでも気づくきっかけになってくれればうれしい!
 
それが一番の幸せ、だと気づいた、というお話でした。
話がまとまっていなくて読みにくいですね。
自分で読み返してみて思いました(笑)。
お付き合いくださり、ありがとうございました。