稽古日誌

【稽古日誌】ネガティブにつける薬は好奇心

今日、第四週目の木曜日は瀬戸中日文化センターで講座。
この講座も長く続いています。
根気よく通ってくれる人がいるから、私も楽しく講座に迎えます。
 
最初、この瀬戸の講座も介護を目的にこられた人が多かったです。
でも、今は介護の技を通して、自分ってなんだろう?と一緒に探ってくれるようになってくれました。
 
介護の技がしたい!と考えると、その技が出来た瞬間、完了です。
ゴールにたどり着いた安心感で、一区切りしてしまうかもしれません。
 
でも、本当にそれって、もったいないなぁ、と思っています。
なぜなら、そこから先に、自分っていう、誰も答えをくれなかった問題に答えをみつけることが出来るようになるんですから。
 
 
 
これ、こんな風には考えられないでしょうか?
器用貧乏って言葉があります。
なにかを学び、出来た!と自分で感じた瞬間、その先を作ることが難しくなってしまうのかもしれません。
出来てしまったことを求めるって、難しいですからね。
 
 
 
その点、私は良かったのかもしれません。
根っからの「ネガティブ」なんです。
自分の中に自信のかけらも見つけられないまま、大人になってしまいました。
 
しかし、そのネガティブな自分がいたからこそ、いつまでたっても満足できず、稽古を続けていく行くことが出来ました。
武術の稽古は現代では少なくなった、体を通しての経験そのものです。
感性が低かったので、時間はかかりましたが、経験ですから、なに一つも無駄になりません。
成功も、失敗も全て経験値に出来、学べるのです。
結果的に、今、たくさんの人に、すごいと言われ、不思議な気分です。
師匠の甲野先生からも時折、お褒めの言葉を頂きますが、甲野先生にほめられても、私のネガティブは素直に認めませんからね(笑)。
 
 
 
今までずっと、このネガティブさが嫌いでした。
でも、今日、この瞬間、ネガティブなままでいい、と思えました。
不思議です。
たったひとつの気づきで、ネガティブな自分を変えて、ポジティブにならなきゃ、なんていう気持ちがなくなってしまうのですから。
 
 
 
ネガティブというのは、内を見つめる才能なのかもしれません。
そう考えると、私はその才能にあふれているようです(笑)。
 
 
ただ、そのネガティブなだけな頃は不安でいっぱいだったんです。
一体なにが、このネガティブさを生かしてくれたんだろう?
 
 
 
・・・そうだ、好奇心です。
もっと知りたい、という探求心、興味です。
 
甲野先生と手を合わせて、それまで知らなかった不思議な世界があることをしりました。
これは、頭で知ったのではなく、体で体験してしたものです。
誰かと比べてなにかをするものではなく、自分の中にあるものは何だろうと、探したくなったんです。
 
 
こうなると、ネガティブでも、ポジティブでもあまり関係ありません。
アプローチする方法の問題です。
 
結果的に、私は自分のネガティブさを頼りにして、ここまできましたが、明るく、前向きに、みんなとワイワイしながら稽古をしてもいいはずです。
ただ、私は苦手だったんです。だから、出来なかっただけ。
出来ないことは無理にしなくてもいいんです。
そんな稽古方法を甲野先生に教えてもらいました。
 
 
 
甲野先生に教えてもらった稽古方法はそれまでのどんな方法とも違っていました。
・たくさんの技を学ばなくてもいい。ただ手を挙げるという柾目返しという技だけ。
・相手に気をつかって、遠慮しなくてもいい。ただ、全力で相手を押さえてればいい。
・無理にコミュニケーションをとって仲良く練習せずに、じっと目を瞑り、1人で考え込んでもいい。
・技のやり方、説明を覚えなくてもいい。正しい技ってのがないんですから。自分で言葉にすればいいんです。
・意味の分からない基本の繰り返しがいらない。基本自体をバージョンアップしていく感じでした。
・段位、賞罰がない。外のなにかを目的とするのではなく、ひたすら、自分の興味の向くことが追求できた。
 
 
 
 
ちょっとあげてみましたが、こんな感じでしょうか。
ネガティブな自分にはぴったりというか、世間の常識とは真逆な練習方法です(笑)。
 
 
 
そして、今、カラダラボの講座、稽古もこんな感じです。
だって、今、自分が上達したのはこの非常識な練習方法があったからです。
この1人でじっと、自分を内観、観察できる練習が自然とベースになりました。
 
 
 
だからこそ、親切丁寧、楽しくコミュニケーションをはかりながら練習したい、という明るい人には向かないかもしれません(笑)。
ちょっと人との交わりが面倒だ、なんて思っている人には超おすすめです。
ぜひ、自分流の学び方、稽古の仕方を勝手に作ってください。
我流の稽古をしても、誰も怒りません(笑)。
 
そうだ!普通の場所では我流になると、怒られます。
師匠にはもちろん、先輩にまで。
 
でも、求めるのは段位ではなく、自分とはなんだ、という事ですからね。
我流だからこそ、それが手にはいるんです。
 
 
 
 
今、こうしてネガティブさが武器になり、個性だった、とわかってしまいました。
こんな気づきがあるだけで、ものすごく、気持ちが楽になるんです。
こんな感じ、伝わりますか?
 
 
別になにかが出来て、誰かにほめられるわけでもなく、ただ、自分の中に安心できる事が出来ただけで、ものすごく楽しいです。
 
そんな楽しさをこれからも伝えていきたいと思います。
今日も、長々とおつきあい、ありがとうございました。
興味があれば、起こしください。
また、個人稽古も受け付けています。本当に人とは稽古したくない!って人にはおすすめです。
来月には、甲野先生も名古屋にこられます。
詳しくは下記のサイトをご覧ください。

カラダラボのウェブサイト

【稽古日誌】毎日の生活が自分を磨く時間になる

第2、4水曜日は鳴海中日文化センターの講座の日。
月に2回あるので、細かく術理の移り変わりを解説できて、私も頭の中の整理ができて助かっています。
ただ、だんだんと、受講生の受け取るレベルも上がってきているのか、なかなかマニアックになってきてしまいました(笑)。
もちろん、初めての方でも全然、大丈夫!お近くの方はぜひ、お越しください。
昨日も見学の方も一緒に手を合わせて楽しく練習して帰られました。
入会されたようですので、手をとり。しっかり導いて行こうと思います。
 
 
 
さて、道具の術理も話もだんだんと説明が板についてきました。
話を聞いて、分かりやすい、というのは考えなくてもいいので、受け取る側は楽なのですが、反面、自分で考えなくなる、というデメリットもあります。
このあたりはどちらがいい、というわけではありません。
どっちも役に立つんです。
 
 
 
術理が生まれたばかりの瞬間は自分でもなぜ、相手が簡単に崩れ、倒れるのか、分かりません。
自分の身体の感覚、その動きに伴う心の動きを言葉にするのは甲野先生が私にしてくれた事です。
基本をつくり、練習のパターンを作れば、指導も楽だし、私の変わりに教えてくれる人をつくり、組織的な基盤を作っていく事もできるはずです。
一般的な指導の方法はこちら側でしょう。
 
 
 
しかし、これでは、感動がありません。
頭はなにをすればいいのか分かっていますが、身体が反応しないのです。
 
分からない術理の話を聞くと、頭は迷い、混乱します。
その時、身体は救いを求めるように、情報を集め始めます。
この瞬間、身体の感性は高まり、言葉にならない感覚を受け取っていると思います。
 
 
 
言葉は便利ですが、つい、イメージを固めてしまいます。
昔の日本語は空想、イメージを多用させるように設計されていたような気がしますが、現代の言葉は直接的です。
どうしても、自分の感覚よりも、言葉のあらわす意味の方が強くなってしまいます。
 
 
 
よく、介護の動きを指導している時、脚の位置、手の位置を聞かれます。
きっと、今までの練習方法がその手足の位置を決めることを大事だと言われてきたんでしょう。
実は、どこでもいいんです。
身体が無理なく、気持ちよければ。
でも、身体が気持ちいい、という感覚が分からないみたいなんです。
 
大丈夫、こう言ってる私も分かりませんでしたから(笑)。
マニュアルよりも、感覚だったんです。
時間はかかりましたが、身体に感覚がある事がようやく、分かりました。
 
気づくまでの時間は人により違いますが、誰の中にも感覚はあります。
ただ、その感覚を使うことなく、暮らしていける世の中になってしまったので、忘れているんです。
 
 
 
マニュアルがダメか、というとそうではないんです。
感覚が分かるようになった事で、それまで知っていたマニュアルが俄然、光り輝いてきました。
 
 
 
どういう事かと言うと、手の位置、脚の位置、身体の起こし方というマニュアルは、そのマニュアルを作った人の身体の感覚「込み」で作られていたんです。
そのマニュアルが言葉になったのはその方法が「有効」だったから。
まさか、役に立たない、使えない動きをマニュアルとして採用するはずありませんからね。
「作った人」には有効だったんです。
 
 
実は手の位置だけでは足らないんです。
手の位置は同じでも、その時の身体の感覚がバラバラだと力を発揮できないようになっています。
外見上は同じでも、内面が崩れているとダメだ、という事です。
このギャップを埋める作業が「身につける」という作業なのだと思います。
 
 
しかし、現代は忙しい時代です。
この身につけるまでの時間を奪ってしまったのです。
手順を聞いた瞬間、できる事を求められてしまう時代です。
感覚が「ある」事を知ることで、身につける時間をぐっと縮める事ができます。
 
 
 
この身体の感覚を高める練習はどこでも、いつでもできます。
仕事をしながらでも、食事をしながらでも、車の運転、電車の中にいても、です。
今、このブログを読んでくれてる、この瞬間にもです。
 
 
今、なにを使ってこのページを読んでくれていますか?
パソコンですか?スマートフォンですか?
手に持っているスマートフォンの重さを感じてください。
指先に触れているスマートフォンの感じを味わってください。
パソコンのモニターに集中していると思いますが、座っているお尻の圧力を感じてみてください。
お尻の上にある腰に力は入っていませんか?
座りながら、ちょっと外へと意識を広げてください。
どんな音が聞こえますか?
その部屋の気温はどうですか?
 
 
 
日々、いろんな刺激に囲まれ、私たちは暮らしています。
エアコンがあり、きれいなオフィスがあり、好きな音楽を聴いていられる環境を作ってきました。
自分にとって心地よいものに囲まれていると、つい、外からの刺激を気にしなくなります。
これに甘えすぎると、刺激に対して鈍感になってしまうのです。
 
 
 
感覚を見つけ、広げる作業はどこでもできます。
古武術の稽古法は新しい術理を聞いてその瞬間、変わることができ、上達を感じられるような稽古で、練習量無く上達ができる「楽な稽古」のように見えますが、違うんです。
 
実は「稽古量」が頼りになる稽古法なんです。
えっ!と思われる人もいるかもしれません。
だって、文化センターの講座は月に1,2回しかないじゃないか・・・と。
 
 
 
その1、2回の稽古でお伝えしたいのは手順ではありません。
自分の中にある今まで感じた事の無い「感覚」です。
その新しい感覚に興味を持ってもらい、毎日の生活を感覚主導で過ごしていって欲しいと願っています。
感覚主導で過ごしてみると、その感覚が蓄積されていきます。
毎日、24時間という時間が全く無駄になることなく、すべて、稽古になるんです。
 
朝目覚め、顔を洗い、ご飯を食べ、歯を磨き、通勤し、仕事をして、家に戻り、夕食をとり、余暇を楽しみ、寝る。
この毎日の暮らしの一つ一つが自分の感覚を磨く機会になるんです。
 
イメージしてくださいね。
感覚を気にせず、ただ、毎日を流されるまま暮らして20年経った時と自分の感覚を気にして20年経ったとき。
暮らしぶりは変わらず、同じ事をしていても、その20年から学ぶ量って全然違うと思いませんか?
今、ちょっと見方を変えるだけなんですよ、本当に!他になにもいらないんです。努力すら、いりません。習慣になれば良いんですから。
 
 
 
時々、ちょっとしたコツで一気に上達する瞬間があると思います。
この時、そのコツが上達させてくれたのではありません。
あくまでも、それまで蓄積された自分の感覚がちょっとしたコツであふれ出し、動きが変わったんです。
 
 
 
これは時間の力を借りた稽古法です。
これから死ぬまでの長い時間、全ての経験が自分の糧にできる稽古法です。
もう一度、今、自分が感じている事に注意を向けてみてください。
まずは3日気にしてみてください。たくさんの気づき、発見が得られると思いますよ。
 
 
 
今日も本当は「道具の術理」を詳しく説明しようと思ったんです。
道具の術理から「かわいい子には旅をさせる術理」に変わり始めているからです(笑)。
くどいぐらいの日記になってますが、これに懲りず、また、お越しください。
ありがとうございました。

【稽古日誌】運動神経が鈍いなんてウソ

10月に入り、各地の講座にも新しい人が参加される機会が増えました。
今日は午前中、豊田中日文化センターで講座、夕方から少林寺拳法です。
少林寺拳法の方にも最近、同年代の男性が入門してくださり、楽しくなってきました。
子供たちにもそうですけど、40代の人にこそ、これからの人生のために、入門してもらいたいものです。
 
 
 
さて、豊田の講座での出来事をお話します。
いつも、講座の時にはちょっとしたプラン程度を持って向かいます。
これが単発講座であれば、その日、満足できるだけの成果を考えて行きますが、文化センターのような連続講座ですと、参加者の雰囲気を大事にして、そこから、生まれてくる事を大切にしています。
 
 
 
結果的に今日もそんな感じでした。
最近、技をできるようにする、という課題を頂き、いつも、それを頭において話すようになりました。
できねば無意味、というのは甲野先生の言葉ですが、なにかが出来る、というのは、自分の無意識にぐっと入っていくものですからね。
 
ついつい、マインドはできなくても、そこに理由を作ってしまいます。
でも、それでは、他のいろんなテクニックと変わりません。
やはり、自分の身体のできる事、できない事を良く感じて、そのできない理由を探して、解消していく事で、自分の頭が作った制限を壊していく事こそ、楽しさだと思います。
 
 
 
今日話をしたのは「反射」の話です。
日本人はどうしても、遠慮がちです。
今日、みんなに、運動神経は良いですか?と聞きましたが、全員、自信がない、という答えを頂きました。予定通りです(笑)。
 
子供の頃から体育の中で競争していると、どうしても勝ち負けが出てきます。
順位がつくと、どうしても、負ける人が多くなるんです。
 
 
 
でも、この体育の中での順位だけで自分の運動神経をない、と考えるのはよくありません。
自分だけなら、まだしも、その身体、運動への自信の無さが子供たちにも伝わってしまいますから。
 
子育てについても考えますが、自分の中に自信の無い部分をどうしても、子供の中にも見てしまう事があるようです。
古武術を通して見えてくる、自分の「身体」への自信は、子供を見る時に、とっても、力強い武器となるんです。
 
 
 
話がそれちゃいました。
反射の話ですね。
運動神経が鈍い、と言われていたおばさま達も、今日の実験稽古を通して、できたできた、と喜んで帰っていってくれました。
 
今日試してももらったのは、この身体を動かすには二つの使い方がある、と言う事です。
一つはもちろん、普通に動かすタイプ。
この時に働くのは頭です。なにかをしようと考え、動かします。
この動き方はボタンは押すには良いですけど、人を動かそうとするとダメなんです。気配が出てしまいますから。
 
そして、もう一つが反射です。
なにも考えない、というか、考えるよりも先に身体が動いてしまう動きです。
そんな動き、私にはない!そういわれる人はいないでしょうか?
誰の中にも反射の動きはあるんです。
しかし、現代の便利さと安全さが、その反射をつかう機会を奪っていってしまってます。
 
子供たちは特にそうです。
今、家の中も家の外も危ないものはどんどんなくなっていますよね。
熱いやかんでドキッとすること、あまりしなくなりました。
 
最近は車でさえ、衝突の前に自動で認識し、止まるようになりました。
「技術」という点では興味を引かれるものの、どんどんと人の力を感じる事がなくなっていくのが心配です。
 
 
 
危ない経験をする事により、身体が考える事無く、動きます。
その経験が自分のもう一つの面に気づかせてくれるんです。
それがドンドンと自動的に機械に、コンピューターが変わってくれるようになりました。
見かけ上、いろんな事が出来るようになり、幸せかもしれませんが、自分という存在に価値を見るという事がしにくくなってきてますね。
 
だからこそ、武術が今の時代にこそ必要なんです。
自分が窮地に置かれた時に、どこの部分が反射をするか観察してみると、自分の癖がわかります。
癖は気づく事によって、変える事ができます。
イザとなった時、新しく意識できる部分を反射させる事で、自分ができない、と思っていた事が出来るようになったりするんです。
 
 
 
こんな経験が積み重なっていくと、だんだん、自分が分からなくなっていきます。
今、自分は目の前の事を「できない」と思っているけど、本当にそうなんだろうか・・・?
こうなってくれば、良いですね。
自分の可能性にワクワクしている証拠なんですから。
 
 
 
誰の言葉よりも、自分の心の中で聞こえる声が自分を導いてくれるものです。
私はこれからも、人間ってすごいですよ、あなたってすごいですからね、と言い続けます。
でも、本当に大切なのは自分の中の声です。
意識を内に向けて聞いてみてください。
 
 
 
今週末、浜松、名古屋で稽古会をします。
初めての方も参加できますし、たくさんの不思議さを感じていただけるはずです。
ぜひ、ご参加ください。

10/27 浜松

10/28 名古屋

【稽古日誌】記憶の変え方

子供の指が荒れてきて、痛い、という事なので病院へ。
今回は普段行く小児科ではなく、ちょっと脚を伸ばした先にある皮膚科へ行きました。
普段は任せきりなのですが、今日は午前中、時間のあった私が連れて行く事になりました。
 
こじんまりとしたクリニックの中はもうすでに、小さな子供でいっぱい。
これは、待たされる事もあるかもな、と思いながらも、新しい病院を観察してれば時間も過ぎるだろうと受付を済ませました。
その際に、4,50分は待っていただくかも・・・と、言われ着席。
 
子供はどうかな?と見ているともう、すでに、遊び場にて、おもちゃで遊び始めていました。
彼女たちには未来も過去もないのかもしれない。
ピダハンと同じ?なんて、思いながら、名前を呼ばれるのを待ちます。
 
 
 
3番目のチビはとにかく、社交的。私とはもう、正反対(笑)。
どこへ行っても、友達を作って、遊ぶ事ができます。
もう、悔しいぐらいに(笑)。
子供でもやはり、性格が違って、それぞれに得意分野があるみたいですね。
 
 
 
自分の子供の頃はどうだっただろうか?、と思い返してみても、幼稚園の頃の思い出が戻ってきません。
きっと、今よりは軽やかに動き、生きていたはずですが、記憶に上がってくるのは小学生ぐらいから。
 
そういえば、ちょっと前に記憶ってなんだろう?って考えてました。
きっかけはなんだったかな?
確か、膝を軸にくるりとまわり、剣をさばく動きを楽しんでいた頃だったと思います。
 
 
 
この膝を軸に動くという動きはこれまでの動きを一変させた術理です。
怖さがあっても、悩みや不安があっても、膝に乗る事で、くるりと身体を動かす事ができる動きです。
 
この動きが現れて、稽古をしていた時、ふと、あぁ、昔の事を思い出したんです。
子供の頃はこんな感じで軽やかだった・・・、と。
 
そして、その時、自分がポジティブからネガティブへと意識を変えた瞬間を思い出しました。
 
小学校3年生の頃、叱られ続けた事で、自分にはできる事と、できない事があり、できない事の方がはるかに多い、と気づいてしまったのです。
しかも、自分の考えている事をただ、表現する事にもおびえる様になりました。
 
 
そんな思いになった原因は当時の担任の先生。
当時はまだ、体罰というのが許される時代です。今では考えられないくらい、毎日誰かが、バンバン叩かれていました。 
あの先生が怖くて、萎縮したのが、自信をなくしたきっかけだな、とわかったんです。
ただ、同時に、その時の担任の先生(まだ、若い女性の先生でした)に対して、あぁ、きっと、彼女も大変だったんだろうなぁ・・・という気持ちも出てきます。不思議と許している自分がいました。
 
 
 
今、身体を観察する術を持った事で、自分の身体にある感覚がどんどんと広がっていくことを感じます。
この楽しさの元はなにか、と言えば、自分の中の劣等感、コンプレックスが次々に解消、いや、このコンプレックスの元はこのままでよかったんだ、という安心感です。
 
自分の頭が勝手に、判断をして、コンプレックスを作ります。
しかし、それは、全然そうではないんです。
むしろ、コンプレックスは意識の集中。
私は「好きなもの」はほとんどありませんが、コンプレックスとしてずっと自分へと集中してきたんだと思います。
 
 
 
依存、という言葉があります。
依存症というと、つい、悪いイメージが先行しますが、そうじゃないんです。
依存できるほど、意識を集中できる事がすごいんです。
なにかに依存できている人がいると、私はいいなぁ、とつい、思ってしまいますから。
 
今、私はこれまで、自分の内側に対して、自信がない、という集中をし続けてきた事が分かりました。
だからこそ、自分の中に見つかる新しい感覚に驚き、もしかしたらこの感覚で変われるかも知れないという期待が生まれます。
 
 
 
考えてみると、人はやがて死に、皆、老いていきます。生きているからです。
この老いに対して外から、薬を飲んだり、トレーニングをして筋力をつけたり、機械を進化させ、世の中を便利にして対抗しています。
おかげでこれだけの社会になりましたが、老いに対しての怖れは逆に、大きくなっているような気がします。
 
 
 
もし、薬がなければ、もし、機械が止まったら、もし、トレーニングをする事さえできなくなったら・・・。
自分が頼りにしているものはやがて、失われてしまうかもしれません。
 
 
 
武術が見せてくれるものは、もうすでに、自分が「持っている」ものです。
ただ、気づいていなかった感覚です。
自分の内面を変えずに外側をどんどんと進化させていくやり方は西洋人にはいいかもしれません。
しかし、日本人にはちょっと合わないかもしれません。
 
なぜなら、たくさんのものに囲まれ、自分だけが幸せになっても、本当の幸せではない、と感じるのが日本人だからです。
これは、内側に対しても同じではないでしょうか?
高度な医療で身体を治しても、内側にある弱さ、老いを認めなければ満足感が得られないような気がします。
 
 
 
時々、大きな病気を乗り越えた人と出会います。
病気は人を強くしてくれるのだ、と確信します。
私は大きな病気も怪我もなく、今まで生きてきました。
しかし、その分ずっと、自分の内側ばかり気にしてきました。
この内側への掘り下げ、まぁ、ネガティブってことです。
その性格がいまでは、よかった、と思えてきます。この性格のおかげで自分の中にある不思議な感覚、すごい感覚に気づけたのですから。
 
 
 
きっと、人は誰でも、どんな時にでも、幸せを感じられるんです。
子供たちを見ているとそう思います。
そしてそのために必要なのはなんだろう?
そこにきっかけをくれるのが武術です。
身体の感覚は老いません。歳を重ねるごとに鋭敏になっていくものです。
 
もしかしたら、記憶は身体に刻み込まれていくものなのかもしれません。
過去のトラウマ、嫌な記憶を嫌なものにしているのは、体に刻まれた癖、なのかもしれません。
その癖があるからこそ、感覚を広げていけるとなると、たくさんの経験をしている事は無価値ではありません。
経験というのは自分だけのものです。
その瞬間、同じ事をしても、人それぞれ、感じている事、受け取っている事が違います。だからこそ、個性ができます。
自分の経験を生かす方法として古武術を使う、というのもいいかもしれません。
 
 
 
あれっ?
なんだったけな、今日の話は(笑)
最初は病院へ行って、病気や怪我の治し方について書くつもりだったんですけど・・・。
まぁ、こんなもんです。これが自然です。
ありがとうございました。

【稽古日誌】我について

まるまるお休みの日曜日。
仕事としてなんにも予定が無い日曜日って家族にとってはとっても大切な日なのです。
久しぶりの日曜日、おちょぼ稲荷にお参りに・・・。とはいっても、目的は串カツだったりするのですが(笑)。
 
 
 
ここのお稲荷さんはいつも賑わっていて、参道を通るだけでも楽しくなります。
人ごみが苦手な私ですけど、なぜか、ここの賑わいは平気と言うか、ふっと、この賑わいにまぎれたくなるので、時々お参りに来ます。でも、ホントは串カツに釣られているんですけど(笑)。 
 
 
 
まぁ、串カツを食べながらでも、頭の中にあるのは、自分の中の「我」と、道具としての「腕」のことばかりです。
 
こんなところに来てまで技の事を考えているとは、我ながら、変な奴です。
しかし、もう、止めれません(笑)。
 
 
 
自分の中にある「我」を見つけたとすれば、他の人の中にも「我」があることが分かります。
そして、自分が思わずやってしまう事、これが道具としての腕なのですが、これが分かれば、相手の中にもその腕を見つける事ができます。
人が苦しむ時って、自分の思っている事と、つい、やってしまった時に生じるギャップが主な原因じゃないか、と思っています。
 
できると思っていたのに、できない。
欲しいと思っているのに、手に入らない。
こんな時、我を手放し、それを運命だからと受け入れることができたら、いいのに・・・というのも「我」です(笑)。
 
 
 
とにかく四六時中私たちの心の中にいるのが「我」であり、思わずしてしまう道具としての「腕」です。
 
 
 
武術の楽しみ方としてはこの二つの自分を扱えるようにする、という事ですが、その前段階として、自分の中には二つ「ある」というのを受け入れるのが近道ではないかと思っています。
自分と言う存在をどちら側から見ているか分かりませんが、心の中に生まれる思いと、つい、動いてしまう自分は大抵、真逆の存在としてみつかります。
問題が起きた時にこそ、意識できるからです。
 
 
でも、この意識できる、って大切なんです。
意識できるからこそ、今度は、この二つの意識がうまく役割分担をして働いている、という事を感じられますし、その瞬間こそ、喜びになります。
 
 
 
そういえば、今日お参りした、おちょぼ稲荷には「重軽石」というものがあります。
まぁ、ただの石なんですが、普通に持った時と願いを口にして持った時と重さが変わることで、願いが叶うかどうかわかるすごい石です。
 
もちろん、量りにかければ、石の重さは同じです。
しかし、持ち上げるのは自分、人間です。人間だからこそ、言葉を口にしたときに揺らぎがあります。
この揺らいだ部分を分からせてくれるのが、重軽石でしょうね。
 
・・・と身体の方からみると、神秘の重軽石も仕組みが当たり前に想像できてしまいますが、心の中では摩訶不思議な作用が働いている、と願っています。
これも、きっと、私の中の「我」ですね(笑)。
 
不思議な事、大好きなんです。
 
 
 
不思議な事と言えば、まさに、古武術って不思議です。
昔から、漫画や映画の世界には明らかに体力の劣る老人が若者をコロリと倒す場面が出てきます。
その信じられない状況を説明するのに使われるのが「気」であったり、「エネルギー」であったり、「バランス」だったりします。
 
現在でも、超能力を科学する、なんてテレビの企画があると、気功師は必ず、登場します。催眠術師もでてきますね。
人の心と動きを意のままに扱うのですから、不思議に見えるかもしれません。
 
 
 
考えてみれば、私が甲野先生に惹かれたのも、著書を読み、そこに常識では考えられない技を使っている甲野先生に惹かれたからです。
 
ただ、他の達人に惹かれず、甲野先生に惹かれたのは先生ご自身が、ご自分の技や身体について、一生懸命「言葉」にしようとしてくれていたからです。
 
 
 
最初に読み込んだ本は「井桁術理」という本でしたが、なぜ、小さな力で大きな人を崩し、投げることができるかといえば、気配がない動きだから、そしてその気配を消すためには身体をねじってはいけない、そしてねじらない様に動くためには身体を割って使い、互い違い、まさに井桁のように部分にたよるのではなく、全体を使う必要がある・・・なんて書いてあったのです。
 
 
当時、この説明で分かったかと言えば、「分からなかった」んです(笑)。
ただ、説明があることがうれしかったんですね。
 
 
世の中の多くの達人は、自分の技の秘密を語りません。
それは技は秘伝であり、それを伝える事で、自分の技が効かなくなるからかもしれませんし、感覚的に身につけてしまって、自分でもその仕組みが分かっていないかもしれません。
 
自転車に乗れる事と似てるんですよ、きっと。
自転車に乗るための「手順」って山ほどあります。コツはたくさん言葉になってます。
でも、乗れてしまえば、それは当たり前。
達人にとって、人を軽く扱い、投げる、というのがとっても、当たり前な事なんでしょうね。
 
 
そんな中、甲野先生は細かく身体を観察し、言葉にしてくれました。
その言葉は感覚が言葉になったものなので、頭では分かっても、身体は動きません。
「我」の部分では分かっても、「腕」を動かそうとしてしまっていたからかな、なんて、今は思います。
 
 
 
言葉は便利ですが、その言葉を自分の中の「我」と「腕」とどちらが聞くかで全然違ってきます。
「我」は「腕」に敵いません。
腕はその身体を使って動くという働きを最大限に行います。
我のほうで動いて欲しいと思っても、腕には腕の動き方があるんです。
 
自転車で言えば、乗り方をどれだけ覚えても、脚には脚の腕には腕の、今までの動き方が刻み込まれているので、なかなか新しい状況にたいして対応できないんです。
そのもどかしい状況を頭である我はもどかしく見ているかもしれません(笑)。
でも、こういうものです。
 
 
 
仕組みが分かれば、楽になります。
「我」の部分がやさしく見守る事ができるから。
身体に任せてみれば、必ず、身体はその状況に適応してきますからね。
 
考えてみると、現代は周りの環境の方が、どんどん便利になって、身体に楽をさせてくれています。
身体がサボっていくのも仕方ないかもしれませんね。
 
 
 
あぁ、やっぱり、書き出すとどんどん考えている事が拡がって、止まりません(笑)。
それはあらゆる状況に「我」があり、「腕」が関係しているから。
運動が大切、と言われていますが、体重がどうだ、とか、健康がどうだ、って話ではないんです。
自分とはなにか、と考えた時に頭だけの問題ではないから。
頭だけで解決してしまうのなか、脳みそだけ取り出しても生きていけます。
 
 
でも、そんなんじゃない!って事を身体で感じられるのが武術を通しての稽古です。
上手な人はどこの世界にもいます。
身体を通して受け取れる人は受け取ればいいし、言葉を通してそれがわかるなら、それもいいです。
大切なのは相性。自分の身体に届く人を師匠に持つ事がなによりの近道です。
 
あぁ、だからこそ、師匠は3年かけてでも探せ、って言われるんでしょうか(笑)。
私の場合、前を歩いてくれる師匠は甲野先生ですが、この私の「我」に教えてくれるのはこの身体、「腕」のような気がしています。
自分の身体が自分の我に教えるんですから、もう、こんな強い師弟関係ってないですよね。 
 
 
今日もお付き合い、ありがとうございます。
あっ、そうそう、11月23日(金・祝)、師匠の甲野先生が名古屋で講習会を行います。
ぜひ、どうぞ。新しい世界に気づく事ができますからね。