稽古日誌

【稽古日誌】情熱を作り、扱う術理

このところ、毎週のように、発見が続きます。
甲野先生にお会いして、半年ぐらいたった頃から、発見を通して元気になる、って事を繰り返してきました。
大人になると、肉体的な成長が止まります。成長と言うよりも、衰えを感じる方が多くなるのかな?
とにかく、子供の頃の自由さが無くなり、色々と考えるようになっていきます。
 
でも、そうじゃないんだ、と知ったのが17年前。
以来、ずっと、自分の中に成長を感じながら、暮らして来れました。
なにより、この自分の中に成長を感じられる、というのが、楽しくて仕方がありません。
 
そして、この成長感はきっと、この先もずっと、なくならないだろう、と思っています。
 
甲野先生は自分にはスランプがない、と言われます。
これは、スランプを感じるよりも、まだまだ、こんなものでは古人の足元にも及ばない、という思いがあるからだそうです。
自分が「いい」と思えば、そこの場所を大切にしてしまいます。
しかし、それは、守りの姿勢も同時に作ってしまいます。
 
成長って進む事です。
その場でじっと守ると言うよりも、前へ前へと、進むこと、いや、進んでいってしまう情熱が成長ですね。
 
 
 
だからこそ、稽古に義務感やガマンがあってはいけないのです。
情熱を感じて、それに従っていれば、自然と身体がそれに引かれて成長していってしまう。
これが私の感じている稽古です。
 
 
 
去年の夏ごろだったと思いますが、胸の中に熱さを感じた事がありました。
え~っと、どんな手順だったかなぁ・・・(笑)。
両肩を締め、腰を背骨に沿って突き上げ、少し、身体を回転させてみると、ちょうど、胸の辺りで火起こしをするように切りもまれる感覚があり、その接点にボワッと熱を感じたんです。
 
これだけであれば、まぁ、そんな妄想があっても、となるんですが、武術の良いところは自分の感じた「感覚」を相手が受け取ってくれて、変化を外に見せてくれる部分です。
 
自分が熱を持った状態で相手に近づいていくと、相手が一歩、後ろへ引いてしまうのです。
衝突するべき場所が触れる以前に、「つい」、引いてしまうんです。
対峙している人の間に感覚が共有される、というのはこれまでも感じていましたが、触れてもいないのに、その感覚がこれほどまでに影響しあうのか、というのを初めて感じた術理でした。
 
 
 
問題はその感覚の共有を扱えるかどうかです。
共有するのは簡単、そして、確かです。
後は、それを使って、導いていけるかどうか、それが大切ですからね。
 
情熱、という点で言えば、時々情熱がパッと出てくる時もあるでしょう。
しかし、次第にその情熱の炎がまた、小さくなっていきます。
これでは、武術としてはつかえません。逆にそれに振り回されてしまっているのですから。
 
しかし、自分の身体を操作して作り上げた情熱は自然な情熱には及びませんが、いつでも、どこでも、生み、動かせる炎です。
炎になってしまえば、その元が火起こしだろうが、マッチだろうが、ガスであろうが、変わりません。
燃えた情熱を武器に進んでいけば自然と相手との情熱の勝負になります。
 
 
 
武術の身体操作で生まれる感覚は自然なものではありません。少なくとも、私のレベルでは。
求めているのは、これをいかに、自然にしていくか、です。
 
ドラマを見ていれば、自然な演技をされる俳優さんはごく一部です。
皆、フリをしながら演じているのが、見えてきます。
 
私たちのこの生活も、色々な役目を背負い込んだ演技のようなものかもしれません。
子供たちは自然に自分の身体のまま、心のまま、生きているのでしょう。
しかし、大人になれば、それこそ、自然に、誰かの影響を受けていくものです。
そして、そこで、ガマンをつくり、硬くなっていきます。
 
 
 
自分を固く抑えているものはなんだろう?
そんな問いを持たなくっても、表面的には幸せに生きていける世の中を私たちは作り上げてきました。
しかし、いつか、どこかで、心の声が大きく叫びだす事もあるんじゃないかなぁ、と思います。
 
そうでなければ、こんなに豊かで恵まれている日本なのに、これほどの閉塞感がでてくるはず無いですもん!
 
 
 
機械が進歩しましたからね、ついつい、新しい機械や仕組みに頼り、この今の状況をなんとかしてほしい、と願ってしまいますが、もう一つ、この環境を変える方法があるんだ、という事を忘れないで下さいね。
 
 
 
武術の世界は環境に文句をつけないところから始まります。
ルールが無い状況で、いかに、自分らしく生きるか、を求めていると考えています。
 
相手が複数かもしれない。
こちらの体調が悪いかもしれない。
不意を突かれ、卑怯な策略にはまるかもしれない。
 
それでも、文句を言えないのが武術の世界です。
変えられるのは、自分の身体、心です。
はっ!と驚いても、次の瞬間、自分の身体を整え、落ち着く事がなによりの解決法だと教えてくれているのです。
 
 
 
現代では直接的に戦いを必要とする人は多くありません。
しかし、目に見えないレベルではみんな、戦っているのです。
あと、数百年もすると、みんな仲良く、という世界もくるかもしれませんが、今は今です。
今のこの世を充実させ、満足、納得していきるには自分の覚悟や情熱、そして、経験から学ぶ遊び心が必要です。
武術はそれを教えてくれるものだと思っています。
 
 
 
カラダラボの講座は各地、月に一回、二回ですが、私が道院長をしている道場では少林寺拳法を通じて心と体のつながりを週に二回、繰り返し教えています。
お近くの方はぜひ、見学からお越しください。
こちらが少林寺拳法のホームページです。
写真では子供が多いですが、大人の方も大歓迎です。
むしろ、親である大人、老いを感じているけど、なんとかしたい、と思われている大人の方と一緒に練習していきたいと思います。
子供たちの良いお手本になりたいですよね。
 

【稽古日誌】足指に引かれて歩く術理

昨日書きそびれた「足の指に引かれるように歩く」術理について今日は書きます。
肘から先を切り離し、手首を起こす事で、指先の動きが自由となって、身体全体をコントロールできるようになります。
 
いや、コントロールって言うと、ちょっとニュアンスが変わります。
手首が自由になってどこへにもいける感じが生まれる事で、自然と大きな体幹部まで引き連れていってくれるようになるんです。
 
変なたとえですが、親(体幹部)は子供(手)が自由になる事によって、まるで、自分の事の様にうれしくなるって感じです。腕と身体に親子の関係を見て取ると稽古しやすいと思います。
 
 
 
そこで、手にあるのであれば、足にもあって良いだろう、と考えました。
思いついたのは手が自由になって、すぐでしたが、なかなか手のようには自由になれません。
なぜかと言えば、足はすでに、身体を支える役目を「いつも」持っているからです。
手のように、やる事がない時には自由にして良いのではなく、「常に」身体を支えなくてはいけません。
 
その足指を意識してなにかをしようとした瞬間、身体のバランスが崩れます。
二本足で立っていたのが一本になるのですから、当然です。
 
 
 
気づきはいつも、突然、やってきます。
手指に任せる事に気づいてから一週間後、先日の金曜日、買い物の最中、ふと、足親指がぐいっ、と上がっているのを感じました。
この親指はその瞬間、重さを支える役目から離れているのに気づいたんです。
フリーなんですね。
 
 
きっと、それまでも親指は自由だったはずです。
考えてみれば、親指にだけ力が入り続けることって無いですし、足親指の付け根は地面とぶつかっていても、親指の先は浮いていますからね。
ずっと自由だったにもかかわらず、ずっと、サボっていたんです。
いや、大変だ、と思い込んで「足グループ」の中にいたものの、やれる仕事が無くって腐っていた感じです(笑)。
 
 
 
だんだん、身体が擬人化してきました(笑)。
まぁ、自分の身体ですから、たのしく、過ごすには良いでしょう。
 
 
そこで、親指の先を意識して、その一点に引かれるように歩いて見ると、身体がふわっと浮く感じがあるんです。
 
バナナを踏んで、つるっと滑るとこんな感じかもしれません。
しかし、バナナを踏んで転んだ事もないですが、転んでいる人を見たこともありません(笑)
それでも、感覚は想像できます。
踏みしめ、蹴ることなく、足がすっと、出て行くのです。
 
手指の時と同じように、手先が先に行くと、自然と体幹部が引きつられていきます。
この足指もすっと、動く事で、体幹部が移動するんです。
 
 
 
気がついてみれば、いつでもどこでも、意識して動く事ができるメリットがある事が分かりました。
 
手指の自由さを感じた時、体幹部から動きを始めるのではなく、とにかく手が蝶々になったかのように、勝手に動いて欲しいと願い、そうさせていました。
しかし、これは、いかにもおかしい。不審者です(笑)。
踊りの似合う状況でなら、ほめられる事も、街のコンビニでそれを行うには勇気がいります。
まぁ、私は平気ですけど(笑)。
 
必然的に、練習量を積み重ねる事が難しくなります。
 
 
 
しかし、足指は常に歩きます。
コンビニに行くのも、アクセルを踏むのも、講座に出かける時にも足は動きます。
常に、「同じように」足を使う事ができるのです。
 
相手が刀を振り下ろしてくる状況と、コンビニの自動ドアをくぐる動きが同じなんです。
足指の感覚さえ確かめる事ができれば、あとはもう、時間が味方になってくれます。
 
 
 
世の中には自然という大きな働きが存在しています。
機械を進化させる事で、時間や空間を私たち人間は縮めたり、伸ばしたりしてきました。
上手に使える人とそうでない人がいますが、戦って勝てるものではありません。
時間を味方にする事を背骨の流れに教えてもらいました。
空間を味方にする事は肘の自由さに教えてもらいました。
そして、もう一つ、指先に教えてもらっているのは運命。
自分の運命にあたるものが指先かもしれない、なんて、頭の中のワクワクは広がっています。
 
 
 
稽古の時間は長くても数時間、文化センターでは90分のところもあります。
どうしても、「動き」の説明と体験に時間を費やす事になりますが、その動きの奥にある感覚からもらえる発想は波動、時間、空間、運命・・・なんて、誰もが心の奥に持っている好奇心とつながっています。
 
 
 
もし興味があるなら、ぜひ、一緒に、それらを追い求めましょうね。
カラダラボの講座は「自由」です。
カリキュラムはありません。
なにをしてもいいんです。
今、その瞬間、自分が問いたい事を問い、向き合うことで、その情熱が周りの人にも伝播していきます。
まさに、これが波動なんですが、ついつい、人から、指示をもらいたくなってしまうんですね。
 
 
 
甲野先生は「自分」とはなんだろう?という問いに向き合う事の楽しさを教えてくれました。
たくさんの人が「答え」を大声で叫ぶ中で、ひたすら、答えを探す姿勢を見せてくれました。
自分がまだまだ「途中」である事を見せてくれたのです。
 
その姿にきっと、私の心が揺れたんだと思います。
完成していなくてもいい、途中でもいいんだ、と言葉にはされていないと思いますが、勝手に、私は受け取りました。
 
 
 
この楽しさであれば、一生楽しく生きていけるかもしれない、と思い、今こうして、手を取り合って、感覚を受け渡す仕事をさせてもらっています。
古武術の可能性はそのまま、人の、あなたの可能性です。
前にも書きましたが、私は本当に、ずっと、ネガティブで自分に対してほめて上げられるような事は何一つ、ありませんでした。
しかし、はしごの上り方を教えてもらった事で、ちょっと、成長する楽しさを知ったのです。
誰かにほめてもらうことよりも、確実に自分の中に見える成長が力になりました。
 
時間はかかりましたが、まだ、死なないですし、これからまた、人の寿命はどんどん長くなっていくはずです。
ぜひ、楽しさを待つ受身の姿勢ではなく、自分にとって、本当の楽しさ、幸せってなんだろう?と問いかけてみてください。
 
 
 
 
今日も、ありがとうございました。
お返事もなかなかかけなくてすいません。
感謝しています。
 
コメント欄だけではうまくお返事ができませんので今、止めていますが、もし気になる事があればメールを下さい。
カラダラボのホームページからでもいいですし、下記のアドレスからでも結構です。
一緒に、心と体の楽しさを感じましょうね。

jun@karadalab.com

【稽古日誌】手首に歩いてもらう術理

金曜、土曜、日曜と、大人の武道塾を連続開催。
ずいぶんと研究が進んで、これまでの動きとはまた、レベルが変わってきた気がします。
 
技を通して確かめてみると、確かにそこに違いがあって、技を受けてくれる人からも不思議さが楽しい、といわれるんですが、いつも、この新しい動きは、日常生活のあの動きに似ている・・・って思ってしまうんです。
苦労して、新しく身につけたのではなく、まさに「発見」なんです。
 
普段、当たり前すぎて気がつかない動き。
例えば、こうしてブログを書いている時のキーボードを打つ指先なんかはどう動かしているのか分からないけど、確実に、頭に浮かんだ言葉を打ち、文字にしています。
思っただけで、末端が動き、形にしているってすごくないですか?
 
足らないから、練習する。
できないから、新しく知識を吸収する。
 
ついつい、自分の事を足らない、と思ってしまうのは日本人の癖です。
それだけ、子供の頃から勉強する事に集中してきた結果かもしれませんが、根底に自分に対しての満足が有るのと無いのとでは大きく違います。
もう、すでに、皆すばらしい能力を持ち合わせている、それを確信しました。
 
面白いのは、私という自分に対してはまだ、疑っているんです(笑)。
でも、人に対しては、もう、可能性の塊にしか見えません!
ホント、笑っちゃうぐらい、ネガティブですね(笑)。
 
 
 
さて、忘れないうちに、昨日までの3日間で分かってきた事を覚書として書いておきます。
先々週の金曜、土曜で「腕を捨てる」という使い方が見えてきました。
かわいい子には旅をさせる、という言葉の意味を身体で確かに感じて見ると、体幹部という親がでしゃばらない方がはるかに、この腕と言う子供が自由に働くんだ、と分かりました。
 
信じられないかもしれませんが、どんなに押さえつけられても、この腕は自由に、どこへでも、トコトコ、歩いていくのです。
ちょうど、人差し指と中指が両足の役目をして歩いていきます。
かわいいですよ(笑)。
 
 
 
こんな動きが出来るようになりました。
仰向けに寝転がり、両手を万歳。この状態で、両腕を力いっぱい押さえつけられるのです。
やって見ると、わかりますが、お腹に力を入れると、身体がねじれます。うまく、体幹部の力が押させられている腕にまで届かないんです。
寝転がっていますから、体重と言うエネルギーも使えないですし。
 
今までは、この状態は脱出不可能、「ダメ」な状態だったのです。
 
しかし、これは親が子供を心配しているから、子供が自立していけると思っていないんですね。
この時、親は諦めて、万歳をします。腕をしっかり、もう、身体から、ポンと上へと捨ててみます。
すると、腕には全く力がはいりません。当たり前ですが。
 
そして、おもむろに、手首を起こします。
どうやら、この手首を起こす、というのもポイントらしく、思春期を超え、自分の人生を自分で生きる、という宣言に近い働きがあるみたいです(笑)。
 
 
 
手首を起こして見ると、肘から先の腕の部分にぐっと力がみなぎります。
なんだろう?仙骨に生まれた力が背骨へ通ることで生まれる力に似ています。
そして、いよいよ、指に任せて、動いてみるのです。
すると、さっきまで、ビクともしなかった腕がなんの苦労も無く、好きなところへと進むようになります。
 
 
写真やビデオをとっておけばよかったですね。
すいません、気がきかずに。
今度、とってもらいます。
 
 
 
できない技ができるようになる。
頑固な頭にはこの経験こそ一番の薬です。
頭は変化を嫌うそうです。
もちろん、成長したい、という思いもあるみたいですが、同時に、リスクは負いたくない、危険な事はしたくない、という気持ちが自分の行動力を止めてしまうそうです。
 
武術は常にリスクとの戦いです。
自分に感じる壁、これは心の壁とも言えるし、具体的な力として感じられる身体的壁であるともいえます。
 
いや、力を感じる事のできる身体的な壁だからこそ、処理ができるんです。そうそう!
 
みんな内観、内省をすれば、どこかに自分の限界という心の壁を見つけることはできると思います。
普段は考えたくないだけで、見ないようにしているだけですから。
しかし、心の壁を見つけても、どうしようもない、のが現実です。
だって、心を触る方法って私たちは知りませんから。
 
でも、身体に生まれた限界は身体を通して触る事ができます。
触ってみて、研究して、工夫していくと、その壁は自分が作った壁だ、という事も分かります。
自分が作ったのだ、とわかると、今度はその壁を消してしまう事もできるんですね!
 
 
 
身体でどんどん壁を消す訓練をすると、心の壁も消しやすくなります。
すると、不思議な事に、壁が無い方がいいのではなく、壁があるからこそ、自分の成長が分かるのではないか、と思うようになります。
壁は嫌なものではなく、必要なものなのです。
 
 
サッカーや野球など、スポーツには敵が必要です。
その敵と戦うことで、自分の力を感じる事が楽しいことですよね。
この時、敵が力を抜いて、まったくはむかわなくなったら、楽しくないですもん(笑)。
 
 
 
おっと、足の指に引かれてうごく、というのを書くつもりだったのに・・・。
また、次回、いや、いつか、書きます。
ありがとうございました。
 
 
 

【稽古日誌】会社は人の力を引き出してくれるもの

今日は浜松で大人の武道塾。
浜松での稽古も常連さんたちのおかげでずいぶんと根が張ってきました。
ありがとうございます。
 
 
甲野流の稽古は「1回稽古制」です。
義務感や強制で稽古をしても、進展はない、からです。
 
でも、普通は違いますよね。
毎週ちゃんと、道場に通い学ぶ姿勢が大切、といわれます。
人がそこに集えば、仲良くなります。
そして、自然に階層という組織としての形が出来上がってきます。
今までの時代はその組織としての大きさを求める時代だったように思います。
 
 
 
なにをしてますか?
と聞かれれば、少林寺拳法、空手、柔道、合気道・・・と流派を答えます。
でも、現代流派はどうしても、個人の幸せよりも組織の幸せが優先されます。
会社と同じです(笑)。
 
昨日、ドラマで、ある職人が俺たちは会社の道具じゃね~!って叫んでました。
 
会社は親ではありません。
いや、もしかしたら、昔の日本の会社は親の役割を持っていたかもしれませんが、今ぐらい効率重視の資本主義的な会社の形になれば、使える道具と使えない道具とで分けられてしまいます。
 
そういえば、なんと、会計的には社員と会社の備品のボールペンは同じなんだそうです。
こういう事を聞くと、なんて、乾いたつらい環境なんだ・・・と人である自分は思いますが、武術的な視点で考えると、ちょっと違うんです(笑)。 
 
 
 
肘から先を身体ではなく、道具として考えてみると、ものすごい事に気づくんです。
その道具の働きを完全に生かすためには身体が「我」を出すとダメなんです。
それは、腕を心配したり、気をつかったりしても、同じ。
腕が壊れそうだからって体幹が働き出すと、そこに充実感はありますが、道具が甘えるんです。
そして、だんだん、自分の腕を信頼できなくなります。
 
 
 
つまり、会社は自分と言う人間の可能性を見せてくれるモノなのです。
人はつい、無意識に自分にはできない、という壁を作ります。
その壁が大きくなりすぎると、小さくなってしまいます。
小さくなると、苦しさが出てくるんです。
 
でも、会社員でいる自分は結構やれるんです。
人と会うのが苦手、話すのが苦手、という人でも、仕事となれば、一生懸命それに向き合えます。
やらなければクビですからね(笑)。
 
何度も失敗し、経験値を重ねると、だんだんと壁だと思っていたものが壁ではなくなり、強くなるんです。
 
 
 
ちょっと昔の日本の会社は人を育てる余裕がありました。
失敗しても、それを経験値として認めさせてくれました。
でも、ちょっと、今の時代はそれがなくなってるかもね。
 
 
 
今、自分を育ててくれているものって持ってますか?
私は武術の稽古がまさにそれです。
だんだんと自分が分かってくる事で、自分の身体が基準、ものさしになっている事がわかりました。
 
「今」の私がつらいと思っている事も、身体が進化して変わると基準が変わって、平気になるんです。
そこに成長が感じられるから、楽しいのかな。
 
 
 
そういえば、練習方法の話でした。
カラダラボの講座は一回稽古制。
まぁ、大人の武道塾は1ヶ月6000円でもいいよ、と言ってますが、これは、私がもらいすぎるのが怖いから(笑)。
練習したくない時にはしない、そういうのが大切です。
 
逆に稽古したくなったら、何年、あいだをあけてもかまいません。
昨日、「技」と「術」の話をしました。
技は繰り返し稽古して、腕に動きと感覚を覚えさせる必要があります。
でも、術は繰り返しではなく、気づきなんです。
気づいたものはなくなりません。
だからこそ、その瞬間の気持ち、姿勢が大切なんです。
 
 
 
甲野先生からはたくさんの知識も頂きましたが、なにより、この稽古法を教えてもらった事がありがたいです。
ずっと、「我流」では成功しない、と教えられてきました。
学校って、そういうところです。
 
でも、「自分」を見つけるのに、方法なんてありません。
「自分」が自分にあうものを探していかないと、見つからないんです。
 
 
 
組織の中では「イエスマン」が重宝されます。
自分の意見をはっきりという、とはスローガン的には良いですけど、中途半端な気持ちで怖れを持ちながら意見を言うと、まわりからつぶされます(笑)。
 
できない事も「イエス」という、すると、できる自分が見つかったりしますからね。
 
武術の技も同じです。
できない、って諦めてるとなにもできません。
なにかが出来るって、ちゃんとできる理由が自分の中にあるんです。
 
 
 
二十歳ぐらいの頃、憧れた、合気上げ、間合いの無い突き、意識操作が今、手が届くところに来てみると、不思議な技ではなく、理由がわからないだけだったんだ、と分かります。
 
考えて見ると、世の中にそんなものがたくさんあります。
理由が分からないから不思議なものもそのうち、当たり前になりますね。
このネットもそう。
世界中がつながってるんです。
この世界を私は20の頃知りました。
でも、今の子供たちはこの世界が当たり前です。
 
ネットでつながっていない世界を知らない世代です。
私たちがなにかをぎゃーぎゃー言うよりも、はるかにすごい事をしてくれるはずです。
その子供たちへの信頼も道具の術理で気づきました。
 
 
 
昨日の浜松の稽古でもお話しましたが、答えのない子育ての問題で確実な答えを身体に見つけられた事は本当に幸運でした。
また、子育ての事も言葉にしていきますね。
今日も、ありがとうございました。

【稽古日誌】技と術の話

今日は「技術」の話をしようと思います。
技術って言葉は「技」と「術」という文字で作られています。
甲野先生は「術」と呼べるほどのもの、という事をよく言われます。
でも、「術」って何でしょうね。
 
 
 
「技」という言葉はみんな、普通に使います。
でも、「術」ってどうでしょう?
普段、使いますか?
 
使わないですよねぇ・・・。
 
 
 
つまり、現代人にとって「術」という感覚って消えてしまった、という事なのです。
「技」と「術」、セットになって辛うじて理解できるものなのかな?
 
 
 
携帯電話はあの小さな箱の中に、ものすごい小さな部品がぎっしりと詰まっています。
あれを見れば、技術のカタマリだという事が分かるはずです。
しかし、普段はその技術のカタマリを見ることも、感じることも無いまま、当たり前の道具として使っています。
この当たり前な感じこそ、危険です。
自分の中に平和を作ってしまうから(笑)。
 
人は「平和」になると、考えるのをやめてしまいます。
つい、そこに安住してしまうんです。
だからこそ、感謝しましょう、という教えがあるのかもしれませんね。
 
また、話がずれていきそうです。今日は感謝の話は置いておいて、ひたすら「技術」の話をします(笑)。
 
 
 
まずは「技」と「術」との違いについて、私が考えている事をお話します。
 
「技」というのは、手順と考えてみてください。
相手を投げる技があるとすると、腰で担ぐのか、手首を捻るのか、体を捌いて崩して投げるのか、との違いを作る部分です。
手首を捻るにしても、どう捻るのかで、技は変わってきます。
 
たくさんの得意技がある事は武器にもなりますが、反対から考えてみれば苦手な技もある、という事です。
得意な部分と苦手な部分、と分けてしまうのは、表面的な違いに影響をされやすいからです。
当たり前ですが、野球と水泳は競技がちがいます。
泳ぐのが苦手でも、走るのは得意な人もいるはずです。
この両者を比べて、得意不得意を考える部分が「技」です。
 
 
 
それに対して「術」というのは、共通する部分。
手順、形、状況など、さまざまな「違い」を違いとしてみるのではなく、同じものとして扱って見たときに変わらないものが「術」です。
 
手を上げる動きと下げる動き。
方向が「違い」ます。方向が違えば、形が違います。
しかし、この時、その手の「内側」を見るんです。
筋肉の力み具合や身体全体のバランス、心の持ち方はどうか・・・などです。
 
上に上げても、下に下げても、筋肉が力まず、バランスも崩れず、心も揺れない、と言うのであれば、共通の「術」がそこに存在している、と言えます。
 
 
 
しかし、多くの人は「見た目」に振り回されます。
上に上がっている技と下に下げている技。その技は別物に見えますよね。
でも、同じなのです。
同じ「人」を見ていても「技」的には違う「動き」をしているんですが、「術」的には同じ使い方をしている、と考えられます。
分かりやすいのは「見た目」ですが、間違いを起こしやすいのも「見た目」に惑わされた時です。
 
こんな人だとは思わなかった・・・、この言葉は見た目を信じて騙されてしまった人の言葉です。でも、私は内側が見えませんでした、という事ですから、ちょっと恥ずかしい言葉かもしれません(笑)。
 
 
 
もともと、日本でははっきりとした事を言葉に表さなかった文化があったのかもしれません。
あいまいさを生活の中に取り入れていたわけです。
その表面的なあいまいさを感じ取る部分が「術」と考えてもらえば分かりやすいでしょうか。
 
 
 
とにかく、最初が肝心です。
一体、自分はなにを学ぶのか、それを決めなくてはなりません。
技なのか、術なのか・・・。
 
古武術はピアノのような楽器演奏にも有効です。
しかし、その際に伝えられるのは「術」の部分だけです。
いくら古武術を学んでも、一曲も弾けるようにはなりません。 
しかし、すでに弾ける人であれば、たった一回の動きを試すだけで、そこに自分の中の違う面に気づく事ができるかもしれません。
すると、その瞬間、自分の演奏が見違えるようになる事もあります。
 
これは、技を学んだのではなく、身体の使い方という「術」を学んだわけです。
 
 
 
武術とピアノほどジャンルがかけ離れていれば、混同する人もいませんが、これが武道と古武術の場合はつい、技の方に気をとられてしまうんです。
 
 
 
「突き」という技があります。
シンプルにただ、まっすぐ手が出て行くだけなのですが、かく流派によって、こぶしの握り方や手を出す方法が微妙に違ってきています。
 
古武術には「無拍子突」というのがあります。
気配がない突きで、あっ、と思うと目の前にコブシが届いていて、受ける暇もありません。
武道、格闘技をしている人であれば、気配がないという突きを身につけたい、と思うのは当たり前ですよね。
 
この時、コブシの形、手が進むルート、捻るのか捻らないのか、という「形」を変えてしまうと自分の行っている流派の技を否定してしまう事になってしまいます。
いや、それでも突きなんだから許容範囲だ、と考えて練習する事はできても、だんだんとその妥協が増えていくと、やがて、自分の流派の中ではやっていけないほど、違う技になっていってしまうものです。
 
 
 
無拍子突きは「技」的には特別なものではなく、ただ、突きとして手を出しただけのものです。
ポイントは「術」があるかどうかなのです。
気配がでるのはなぜかと言うと、身体の各部分がバラバラに動いていて、統制が取れていないからです。
つい、お腹に力がはいり、腰を捻り、肩に力がたまります。
そんなバラバラの動きをみんなしています。
そのバラバラさを長年の練習を通して整わせ、自分のものにしていく過程こそ稽古なのですが、この忙しい現代ではその心の余裕をもつ事が難しいわけです。
 
 
 
反射、という動きがあります。
熱いものに触れれば誰でもものすごい速さで手が動きます。
この時、気配なんかまったくありません。
熱いものに触れた瞬間、身体の方がびっくりして、手が動いてしまうんです。
 
この原理を利用すると無拍子突きは簡単です。
誰でもできます。
もうすでに、自分の中に反射のシステムがあるからです。
 
 
 
しかし、これでは頭は納得しません。
だって、自分でなにかをしている、という実感がないから。
 
「術」ってなんだったか思い出してください。
全ての中に共通する動きです。
反射で考えてみれば、手を出すのも、引くのも、上げたり、下げたりする動きも、「やろう」としてもできますが、「反射的」にもできます。
同じ動き、同じ形だっとしても、その内側の部分が「意識的」なのか「反射的」なのかでは当然、違ってきますよね。
 
 
 
何十年と休まず繰り返し行ってきたことは無意識の中に刷り込まれてきます。
この無意識の中に刷り込まれた動きは意識をせずとも行える動きです。
当然、気配なんかありません。
 
朝起きて、歯を磨き、会社にいく。
これ、無意識にパターンです。
みんなたくさんの無意識のパターンを持っているんです。
 
 
 
自分の中にある意識していない部分を意識して使えるようにするのが「術」です。
自分の中にゆるぎない「術」を意識できると、外がどんなに荒れて、つらく感じられる時にも、あせらず、自分に戻ってくる事ができます。
 
単純に「一つの技」だけを身につけたいのであれば、手の形、脚の位置、タイミングなどを限定して、繰り返し練習をするのもありです。
むしろ、そちらの方が速く身につきます。
しかし、技と術の区別の無いまま身につけてしまうと、無意識にできる事が一つ増えただけで、応用ができません。
遠回りのように思えるかもしれませんが、自分の「術」として考えて稽古してみる事で、生きていく間に起こる全てのことに使えるコツを手に入れることができます。
 
 
 
自分はどっち側がやりたいのかなぁ、と考えて、稽古してくださいね。
今日は技、今日は術、って感じで軽くやればいいんです。
楽しく稽古しましょう!