稽古日誌

【稽古日誌】未来は過去によって決められる、と思もわれる。

金曜日、土曜日、そして今日の日曜日の稽古は、術理から感じられる事を聞いてくれる人に恵まれ、稽古時間の多くを「対話」に費やすことになった。
対話、といえば、ちょっとかっこいいけど、知らない人から見ればそれは、ただのおしゃべりに見えるかもしれない(笑)。
しかし、この一見無駄に見えるおしゃべりの威力がすごいのだ!
 
 
 
古武術的進化は努力ではなんともならないんです。
無駄に時間だけを重ねていくと、自分にはできない、という思いの方を強くしすぎてしまうから。ある意味、逆効果。
まぁ、その頑固になった自分へのネガティブな思いも、それが壊れるときには、役に立つから、完全に意味がない、とは言えないけど、まぁ、「普通」に練習をしてしまうのはおすすめしません。
 
 
 
とにかく、頭を柔らかくさせたいの。
頭の中で作っている壁が自分を縛っているんだから。
 
左右の手で作るハサミの動きが井桁術理そのもの、とわかった事で、関係って事に興味がわいてきてるんだよね。
その関係に目を向けていろいろと見てみると、それまで、なんともならずに、動かせなかったことも動かせるかもしれない、なんて思えてきたりして…。
少しでも可能性が広がるときって、わくわくするんだよね。なにも結果が出ていないのに、なんとかなりそうな安心感がでてくるの。
未来に対して不安を持っていない状態です。
 
 
 
ずっと前にも書いたけど、未来は決まってしまい、変えられないけど、過去ならば、簡単に変えられる、って僕は思ってるんです。
それは「体」は過去の積み重ねって思っているから。
でも、普通は過去って変えられるものじゃないでしょ。
それは体というものを知らないから、それを使えずに、今感じている体に従わなくてはいけないから、と思ってる。
 
 
目の前に敵がいるのが武術です。
その敵を怖いと思うのは過去に積み重なってきた経験からわかること。
あかちゃんであれば、目の前にどんなに大きな敵がいても、いつも通り、ふるまうよね。
でも、僕ら考える頭を持っている大人だと、つい、過去の経験を元に、この人には適わないかもしれない、って考えちゃう。
考えると、その瞬間、体が緊張し、こわばるの。
 
その体であれば、もう、未来は決まってるよね。
当然、相手の力に負けて、やられちゃうんです。
この時、どんなに心で「自分は大丈夫!負けない!」って念じてもダメ。体が変わらないとダメなんです。
 
 
 
術理は体を変える方法とも言えるの。
どんなにダメだ、とあきらめ心が出てきても、その時にどう体を動かせばいいのかっていう基準が術理です。
怖い怖いと思って体を縛ってしまうと、左右の手の連動は固まりとして生まれちゃう。でも、その連動を動かせるって事がわかっていれば、連動部分に油をさすように、動きをなめらかに作り出すことが出来るんです。
結果として、左右の手は気持ちよく動き出すことが出来ます。
 
すると、ダメだと思いこんでいた状況が変わるんです。
これは、未来が変わった、というよりも、体という過去を変えることで、その過去にあわせて未来が決まった、と考えるといいんじゃないかなぁ、と思います。
 
 
 
武術で考えると、こんな感じだけど、自分のこれまでの生き方に当てはめてみると、こう。
過去にあった事ってのは思い出なんです。
その思い出を自分にとって良いものと考えるのか、悪いものと考えるのか。
 
悪いもの、と考えてしまうと、その思い出が出てきた瞬間、体が固まり、当然、楽しくなくなりますよね。
楽しくなくなっていれば、やっぱり、楽しくないものを見つけちゃうもん。
でも、自分にとって、いい思い出が出てきたときには気分のいい、楽しい自分になっているから、自然とまた、楽しいものをみつけられるようになるの。
 
 
 
古武術を通して稽古してきて、おもしろいのは、自分の思っていた事がどんどん、ひっくり返っていくという事。
イヤだなぁ、と思っていた事がどんどん、自分にとって必要な事に感じられるんですよね。
 
ハサミの術理にしてもそう。
大切なのは両方なんだ、って事を体でわからせてくれたもんね。
自分にとって都合のいいことだけじゃダメだったんだって。
都合のいいことがあれば、いやなことも出てくるよね。その間にあるものこそ、自分の一番求めていたものなんだ、って確信したんだから。
 
 
 
都合が悪いものからは逃げたくなります。
運良く逃げられて、自分にとって幸せなものを手に入れたときに今度はそれを失いたくない、という気持ちもでるし、そのレベルに達したからこそ、見えてくるもっとやりたいことに気づくかもしれない。
結局、その場からまた、次のところへと行きたくなってしまう。まぁ、繰り返しなんだよね。
 
その繰り返している事自体が楽しい、って事がわかると、最初に思っていた「苦」が「苦」でなくなるの。
 
 
 
大切なのは間にあるもの。
過去と未来の間にあるものは今。
その今を見るためには二ついるんだよね。
過去と未来。
今、自分が見ている未来が希望なのか、絶望なのかはわからないけど、それはそれでいるんです。
今、自分が感じている過去が楽しいのか、つらいのかわからないけど、過去もいるんです。捨てる事ってできないし、やっちゃうと大変。
過去と未来があると、そのつながりが見えてくるからね。
そして、必ずつながってるから。
 
武術で変えられるのは身体。
そういうことを考えて、稽古して、研究して、おしゃべりをする、こんな楽しいこと、他にみつかりません。
 
気がつけば、今日もそんな稽古を5時間やってました(笑)。
気に入るかどうかは試してみないとわからないですからね。
仲間になりませんか(^-^)v
 
 
 
今日も長くなっちゃいました。
いつも、ありがとうございます。

【稽古日誌】無意識に気づこう!

今日は名鉄コミュニティーサロン西春での講座。
ちょうど、先月、ここの講座で肘から先を捨てるって事をはっきりと言葉にしたのを思い出しました。
肘から先をホーミングミサイルのように、ぽとっと落とすんです。
その後、肘から先が「勝手に」相手(目的)めがけて飛んでいくんです。
自分の頭ではわからない動きで手が動くんですから、相手はさらに困るんでしょうね。そのわからなさが相手の虚をつき、崩すんだと思います。
 
 
 
手が勝手に動く…。
そんなこと、自分には無理だと思っていたんです。
治療家の人の中には自分の手が相手の体の悪い場所へ自然と、無意識に動く、という人がいます。
そんな魔法みたいな事にあこがれてました。
あぁ、自分にもできればいいのに…と思いつつ、どう考えてもそんなのは無理です。
 
でも、その考える作業がじゃまをしていたんです。
自分の手足は勝手に動く、という事がわかると、逆に今度は、自分が考えて何かをするよりも、はるかに手足に任せてみた方がいい、という事がわかります。
 
 
 
このブログを書いているのもそう。
時々、iPhoneの音声認識アプリで書くこともあるけど、ほとんどはキーボードで書いてます。
その時、キーボードを打つ手は自動的です。
きれいなブラインドタッチではないけど、ほぼ、無意識にキーを打っています。
その一つ一つの指の動きを頭で意識してコントロールしているわけではありません。
 
 
 
手が自動的に動くってのは特別なことではなく、自然なことなんです。
いや、むしろ、普段の生活の中で不自然なときってほとんどありません。何気ないときって自然なんです。
 
ただ、自分にとって、いやなことに出会ったときに、自分のその状況とかをつい、考えちゃうんです。
その考えてしまった時に自然な状態に戻るためのものが武術です。
 
 
 
目の前に敵がいる。しかも、その攻撃は自分にとって、怖いもの。
この時、普通でいるってのが難しくなります。
でも、実は、普通に、自然体でいれば、その状況を気にしないで、乗り越えられるほどの力を持っているんです。
 
 
 
その自然体の目安になるのが手足に任すことであり、その両手の間に連動を持たすことなんです。
連動を「作ろう」とすると、うまくいかないんです。
 
 
 
自分の手足に任すことができるんだ、ってのをどう経験するかがポイントなんだけど、どうですか?普段の生活の中で考えることなく、体に任せてる事ってありますか?
なんとなく、生活の中でだんだん手足に任せていくウエイトって減っている気がするんです。
理由は機械が高性能化してきているからかな?
スイッチ一つでものすごい働きをしてくれるもんね。
いや、最近はスイッチも押さないで、勝手に一番効率よく働くように、動いてくれていますね(笑)。
 
 
 
機械だけじゃないよね。
仕事の仕方もそう。
ちゃんと相手の顔色を探って答えをだすよりも、業務システムをちゃんと動かすことが主になっちゃったりしてないですか?
仕事の内容もどんどん、新しくなって行くし。
 
さらに、失敗を経験として受け入れ、体で覚えさせてくれる余裕もなくなってきたりして…。
新人であっても、成果をきっちりと求められる時代です。いやぁ、大変な時代です。
 
 
 
手足の力ってすごいんです。
無意識の力ってすごいんです。
でも、無意識の力に気づかせてくれるチャンスがないまま、大人になっちゃってるんです。
だから、武術なんです。
武術を無意識のまま受け止められる人は才能がある人。そういう人は、まぁ、そのまま、やってくれればいいんです。
私が得意なのは、武術を通して、普段の自分、無意識の自分をみてもらうこと。
誰にでも無意識ってありますからね。
意識しないときに生まれる力を見て欲しいなぁ…。
 
 
 
今日も、楽しく過ごせました。
ありがとうございます。

【稽古日誌】井桁術理に気づくまで17年かかった!

先週から「ハサミの原理」として左右の手の間にある関係性を話してますよね。
ブログを改めて読み返してみると、その興奮に我ながらあきれます。こんな事をずっと、続けてるんですから(笑)。
 
それでも、本当に「興奮」なんです。
何度体験しても、ついつい、興奮しちゃうんです。
まぁ、まさにここが古武術の醍醐味なんですけどね。
気づき一つがそれまで見ていた世界をがらっと違う世界をみせてくれます。
このブログでも勝手にその日、気づいたことを書かせてもらっています。決して「その通り」にしなくてはいけない、なんて事はありません。
むしろ、この勝手さ加減を勝手に学んでもらって、勝手に気づきをどんどん増やして行って欲しいと思います。
 
 
 
さて、ハサミの原理ですが、なんと、これは「井桁術理」だ!って気づいちゃったんです。
いや、考えてみると当たり前なんだけど、指摘をされて、あぁ、と思いましたから(笑)。
ハサミの良いところってのは、その構造が「壊れない」って事です。
左手や右手は目に見えるでしょ、自分に見えるってのは、相手からも見えますよね。
だからね、その手は抑えられやすいんです。
 
でも、ハサミの原理で動く両手は動きの元に当たる部分がありません。
いや、あるんだけど、それは自分の中にある感覚だから、目に見えないんだよね。
目に見えないとなれば、相手はそれを感じられなければ、止められない、という事になるんです。
この「見えない」というのが、自分がどんなに注意深く押さえ込まれても、動くことができる理由なんだよね。
 
 
 
このハサミを二つ組み合わせて連動しているのが井桁。「♯」、こんな感じね。
実は、甲野先生に興味をもったきっかけになった術理が「井桁術理」なんです。
格闘技の世界では当たり前だと思われていた、腰をひねり、地面を蹴り出すことで下半身のパワーを手に伝えるというコツ。それを否定し、全く真逆な、「蹴らない、ひねらない、うねらない」という体の使い方を発表されていたんです。
 
新発見ってわくわくしますよね。
失われてしまった古の秘密、みたいな期待感を持ったんです。
 
その井桁の動き「♯」ですけど、左の線と右の線が互い違いに連動して動くんです。
右の線が前へと進むとなれば、左の線は後ろへと下がります。
この時、右だけ、左だけという個別の線を抑えても抑えきれないんです。
力のたまりやすい支点がずれるからです。
 
井桁の動きに対して働きの悪い使い方として紹介されていたのがワイパーの動き。
一点を支点にして左右に動きます。その動きは単純なので、止めるのが簡単なんですよね。
 
 
 
ハサミは交差の動きですが、井桁の動きは平行です。
太鼓を両手で打つ動きは左右の手に連動、関係性があります。
これは難しい事ではなく、普通に打つと自然と連動しているはずです。
両手を動かして打つ動きと、片手で打った時の感じを比べてみてください。
絶対に両手を動かした方が動きやすいはず。
 
 
大切なのは、井桁術理を身につけなきゃ、というよりも、無意識に動いているときには、いつも、左右の手に連動があり、井桁の動きになっている、という事かな。
無意識、無心のままでいる事って武道の世界ではみんな求めている最終地点です。ただ、そんな夢みたいな事を真剣に求めている人ってほとんどいないと思うけどね(笑)。
 
左右の手の連動を無心のまま体に任せて動くときの基準にしてみたらいいのかな、って思っています。
 
考えてみてください。
心落ち着ける場所でなら、無心に近づくこともできるかもしれません。
ヨガでも瞑想でも静かな場所で、自分に向き合うことってやりやすいです。
でも、武術は真逆の場所で自分に向き合おうとしているんです。
 
武術が必要とする場面は「常に」緊急事態です。
自分にとって、「ヤバイ!」と思えてしまう場所です。
緊張感が体を縛り、心にも自由がなくなる瞬間に自分をとりもどせるかどうかが武術です。
 
この時、自然体に近づくための目安に連動感を使うといいんです。
左右の手を動かしてみて、その手の間に軸を見つけると、前後左右、真逆の方向への動きが抜群に速くなります。
太鼓をたたくというのは上に持ち上げ、下に落とすという上下の動きですね。
その上下の動きを作るのに、片手よりも、両手の方がはるかに簡単なんです。
 
 
 
それにしても、井桁の術理に気づくのに17年。
この年数で気づけて良かったのかもしれません(笑)。
考えてみると、ずっと、井桁術理はわからないものでした。
最初に興味を持ったものなのだから、ちゃんとそれを消化して次ぎの術理の行くのが「普通」かもしれませんが、そうじゃないんだなぁ、と改めて思います。
 
みんな自分だけの山の登り方をすればいいんです。
でも、日本ではどうしても「我流」が嫌われちゃいます。
やってみると、楽しくて仕方ないんですけどね。
 
 
日曜日は夕方から名古屋で大人の武道塾です。
ハサミの原理を中心にやります。
詳しくはこちらを。大人の武道塾 名古屋

【稽古日誌】術理は見えないから、感じるしかない

来年度から新しく勝川の文化センターでも古武術講座を始める事になり、その書類を整え手渡しに行ってきました。
「古武術講座」と言っても、一体なにを、どう伝えればいいんだろうか・・・と、未だに困ります。
ある人はそれを介護だと思うかもしれないし、ある人、刀をブンブン振り回すものと考えるかもしれません。
でも講師である私は、心と体が一つである事が「分かる」ところに最大の喜びがあると思っていたりするから厄介です(笑)。 
 
 
 
いつも思うんだけど、本当にこれは不親切な話。
だって、私自身は甲野先生の「技」に惹かれて稽古を始めたんだもん。
気がついたら、武術の稽古を通して感じられる身体の感覚が心という形のないものを理解するのに都合がいい、という事がわかっちゃったの。
以来、ずっと、楽しく、稽古を続けてきています。
 
 
 
でも、もし、いきなり身体とは、心とは、運命とは・・・となってくればきっと、止めていたはず。
 
私が教えている少林寺拳法も似たようなところがある。
戦争が終わったばかりの日本で少林寺拳法の開祖は「教え」を説き始めたそうです。
しかし、混乱期の日本ではその「教え」に耳を傾ける人は少なかったそうな・・・。
それでは、と始めた活動が「ケンカの仕方」を教えると言う事。
自分の身は自分で守る事が必要な時代であったのもマッチしたんでしょう。その後、少林寺拳法に入門する人はぐんぐん増え、現在では累計100万人を優に超えているはずです。
 
 
ケンカの仕方を習いつつ、心の修行が出来るのが少林寺拳法ですが、組織が大きくしっかりとするのと、世の中が機械化、サービス化に変化する中で、私たち一人一人が「身体」というものを感覚的に理解できなくなって来てしまいました。
 
身体を使わなくても暮らせる時代です。
身体の感覚が失われていったのも仕方ないかもしれません。
カラダラボで伝えているのは技以前の「身体」という事です。
突いたり蹴ったり投げたりという「技」ではなく、立ったり座ったり、歩いたり、という日常の振る舞いの中の身体の感覚です。
 
技はもう、みんなそれぞれ、たくさん知ってると思っているから。
技ではなく、術理、身体の感覚を身につけて欲しい、と思って、活動しています。
 
 
 
とはいえ、それは「見えないもの」。なかなかそれを大切にするって難しいよね。
いや、もう、すでに大切にしようって事は十分すぎるほど、知ってるんです。
ただ、感覚がないからこそ、大切にしている、と思い込んでいる状態です。
私がそうでしたからね。
丁寧にやろう、とはまさに「感覚的」な事ですが、丁寧にやっているかどうかをチェックする感覚がないんですもん。
 
 
 
目の前になにかあれば、ちょっと、持ち上げてみてください。
コーヒーカップでもいいし、携帯電話でも良いです。
その時の腕の具合、掴んでいる指の具合、支えている肩の具合ってどうなってる?
それに気を配り、より、快適になるように工夫をしていくことが稽古です。
 
特に、指先なんかは意識の集中がしやすいところ。
微妙にかかる力を見ていけば、十分、それだけで、感覚の稽古になります。
指の腹に触れている摩擦の力、モノの重さと指の間に生まれる圧力ってあるんだけど、普段はまったく、気にしていないはず。
 
でも、この気づいていない感覚を見つけることができれば、技の精度はガラリと変わるんです。
 
 
 
これって、「認識」なのかな。
術理ってのは「見えない」ものかもしれません。
でも、「感じられる」もの。
難しいのは最初の一つ。
 
術理はこういうブログの中ではどうしても、「言葉」で解説をする事になります。
もちろん、YouTubeで見ておいて、という事も出来ます。
ただ、それだと、分かる人にしかわからないもん。
私はいつも、分からない側の人間だったの。
甲野先生はご自身の身体にあった感覚を言葉に乗せて伝えてくれました。
 
例えば、それは「身体を決してねじらない」みたい感じで。
身体を捻って蹴りだす事で力を出すのが当たり前な私にとって、その言葉は真逆な事を始めるきっかけになりました。
 
当然、最初はできません。
でも、諦めずに、何度も試していると、いつしか、自分の中の感覚を探している自分がいることに気づいたんです。
どこが最初の一歩だったかは忘れてしまったけど、難しいのはこれまでの「やり方」を捨て、自分の感覚に従う必要があったから。
 
 
 
ハサミの原理で説明している左右の手の連動性は見えないけど、確実にあるものなの。
手についた砂を払うように、パッパッと手をあわせてみてください。
その時、左右の手が同時に動いていますよね。
それが連動です。
 
何気ない動きであればあるほど、左右の手は微妙に連動してるの。
ただ、何気なさ過ぎて、気づけないんです。
もうすでに、自分の中にあるものに気づくだけだから、いつ、それに興味を持って始めても遅い事ってありませんからね!
ちょっと、今日は長くなってしまったので、「技」の説明ができませんが、また、改めて、丁寧に、細かく、動きを言葉にしてみます。待っててください。
 
 
 
それでは。
いよいよ、来週です。
甲野善紀先生の名古屋講座にお申込の方はこちらからどうぞ。

【稽古日誌】感性を使おう!

水曜日、今日は鳴海の中日文化センター。
実はこの講座にはもう一人の師匠がいるんです。操体法という技術を教えてくれた恩人。
私は師匠と思っているけど、なぜか、講座にも来てくれる。もう、なんと感謝を伝えたら良いものか・・・恩に報いるには自分の知っている事、やれる事を全部、持っていってもらうしかないと思ってます。
 
 
 
操体法は体のバランスをとる技術。
体のバランスは力技で整えるのではなく、本人の力を引き出す形で整えていくもの。
普通と違うのは痛みを消す事に専念するというよりも、痛みがある事で気づく、痛くない側、気持ちの良い自分に働きかけて、調整していくんです。
 
 
例えば膝が痛いとするよね。その膝は動かなくても痛いかもしれないけど、動かしてみたら、もっと痛いところがわかるでしょ。
僕らって、動かないでいられないからね。必ず、動いているんです。
動いているとね、つい、痛みの方にばかり目が行っちゃうけど、その痛い側とは反対側って「痛くない」って事なの。
 
その痛くないってのはね、考え方を変えると、動くと「気持ちが良い」とも考えられるんだよね。
そして、その気持ちよさを追求していくと、あら不思議、痛かったはずの側の動きまで改善されて行っちゃう!
 
その不思議な技に魅了されて、学び始めたんだけど、考えて見ると、この時の経験が今の自分にはとっても役に立っている事を、今、思い出しました。
 
 
 
そうだ、自分の体を感じて、動いて、変わっていく、というのを操体法で学んだんだ!
特に、武術家であれば、体ぐらい治せなきゃ、とも思っていたし。
今はそのおかげで自分の体に具合の悪いところが出てきても、気にならなくなったもんなぁ・・・。
 
 
 
師匠の話に限りませんが、人には「特技」というものがあるよね。
まぁ、私にはその「特技」がない、と思っていたんですけど、最近、ようやく、武術が特技と言ってもいいかなぁ、と思いだしたところです(笑)。
 
みんなが当たり前にしている仕事なんかは、特技そのものです。
仕事で治療をしている人、人の痛みをとってあげられる腕ってのは、なかなか手に入れられません。
そういう仕事をされている方で本当に腕がないならば、決して続けて行く事ってできないでしょ?
だって、治らないところ、リラックスできないところへはお客さん行かないもの。
でも、仕事としてやれる、ってのは、ちゃんとそこに自分の腕を喜んでくれる人がいるから、仕事になってるんだよね。
 
 
実は、みんな気づいていないだけで、すごい事をしているんです。
周りの普通の人たちが出来ない事を自分はやっている、そう考えてみると、今、出来ている事が必ず、身体感覚という事を教えてくれるはず。
 
そして、それは人を治療する、って特別な事でなくてもいいの。
音楽を聞く事でも、絵画を観る事でも、趣味のようなものでも、そこに「違い」が見つけられるのならば、絶対に、「感性」があるんだから。
 
 
 
そういう違いを見つける感性が私にはなかったんです。
いつも目に付くのは「数字」。
だって、はっきりしているから。
速さやボリューム。それって数字で計れるものでしょ。
でも、使いやすさとかって、感性じゃないですか?そういうモノサシがなかったんです。
 
私の場合、だからこそ、探し続けていられるともいえるけど、もう、すでに、感性が自分の中にあるのなら、ぜひ、そいつを生かして、どんどん、広げていけば良いと思うな。
 
 
 
自分が「いいな」と思う事を信じてみるのが感性です。誰にも遠慮はいらないです。むしろ、感性を黙らせて、教科書どおりに学ぶってのが今までのやり方だよね。でも、それでうまくいかないとなれば、今度は感性に従ってみたら良いと思うよ。
 
感性って、趣味や仕事の世界では絶対に大切にしているはず。
好きな音楽を聴いてうれしいって事は、そうじゃない感動しないものも分かるでしょ。
私はわかんないもん(笑)。
言葉は悪いけど、みんな一緒に見えちゃうし、聞こえちゃう。
いや、悪い意味じゃなくって、なにを見聞きしても自分よりも「上手」に見えちゃうんです。もしかしたら、いつも、嫉妬してるのかもしれません。
 
 
 
武術の稽古で使うのは、その「感性」。
ほんの少し、体を動かした事で変化している事はないかを探ります。
最近の術理で言えば、両手の連動性。左手と右手がつながって、ハサミのような関係があるって書いたよね。あれは、右手を動かした時に、左手「も」動いている事に気づいた事から見つけたものなの。
まぁ、紙を破いた時にタマタマ(笑)。
 
そのタマタマ、偶然を見逃さずに、ハッと気づけたのは運だとおもうけど、それも感性のトレーニングである稽古を続けてこれたからじゃないかなぁ、と思うんです。
 
 
 
仕事の時にはみんな、すごく冷静にちゃんと、動いているでしょ。
でも、生活になると、結構感情的になっちゃって、自分を見失っちゃう。
 
仕事になれば、失敗を改善するためになにをすればいいのかをちゃんと考え、工夫して、結果を出しているはず。
弱音を吐いている暇なんてないですよね。
たくさんの経験の中には失敗もあると思うけど、その失敗に負けずにちゃんと学んで、力をつけてますよね。
その成長してきた自分を使わない手はないですって!
 
 
 
仕事しながら、どうして、これをやれるようになったんだろう?とか、趣味の世界を楽しみながら、なぜ、自分はこれが好きなんだろう?とか、色々と自分の心のうちを探るのも立派なお稽古です。
むしろ、その何気ない日常の自分を感じられるようになれば、イザという時にも冷静にそこへと戻っていく事が出来そうでしょ。
平気な自分でいられるようにする、ってのが私が求めている武術です。
 
 
 
頑張るって事も大切だけど、頑張りが必要ってことは、今、目の前にあることはちょっと、自分には難しい、ってことだもん。
そして、それは目の前の事を難しい、と思ってしまった理由があるんだよね。
どうして、それを簡単だと思えないんだろう・・・そんな事を考えているだけで、ちょっとワクワクしてしまえるようになりました(笑)。
 
 
実は幸せには二つあって、結果が出て、手に入れられたからうれしい、と言うのと、なんだか新しいことが見えそうだ・・・という期待感の幸せがあるんです。
形ある結果は手に入れると、すぐに、次を求めてしまって、大変ですが、期待感の方の幸せは今この瞬間から、手に入れるまで「ずっと」幸せが続いちゃうんですよ(笑)。
 
 
武術の稽古で「わかる」のはこの両方です。欲張りなんです(笑)。
自分が工夫しつづけると、必ず、動きが変わります。動きが変わると、それにあわせて結果も変わるんです。だめなものはだめ、とすぐに分かります。逆に、うまくいってしまう時には、理由はわからなくても、これで、いい、というのがわかるんです。
 
 
今日は「感性」の話になっちゃいましたね。
その日気づいた事、感じた事をそのまま書こう、と思ってブログを書いています。
まぁ、ダラダラ書いてますので、サラッと流しながら、気が向いた時にまた、読んでくれればうれしいです。
 
 
ありがとうございました。
 
 
そうそう、私の操体法の先生は栄中日文化センターで講座も持ってます。
治療に興味があればぜひ、そちらにもどうぞ。
栄中日文化センター「からだのバランス整える操体法」です。