稽古日誌

【稽古日誌】子供たちの話

最近、子供たちに教えている事があります。
それは両手を使う事。
 
ハサミの原理でも話をしましたが、両手の間には「連動」という関係性があるんです。
大人に対してはそれを言葉と体験を通して、まず、頭で「分かって」もらえば、後は興味が出たなら研究してもらえばいいですが、子供たちとなると、ちょっと違ってきます。
 
 
 
大人に出来る事は間違いなく、子供にもできるはずです。
ただ、子供に興味を持ってもらい、練習をしたい、って思ってもらうのが大変なんです。
 
一昔であれば、厳しく練習、というのもありかもしれません。
その厳しい練習を通して「結果」が得られる事で自信がつくかもしれません。
でも、私自身は練習をして、大会で入賞してもそれを喜びとして感じられなかった人なんです。
 
大会では入賞できても、それが外の世界でどう自信につながるのかわからないまま大人になりました。
少林寺拳法の技は教えられても、自分の中に自信が持てないのなら、指導者にはなれないなぁ、と思っていました。
 
 
 
それが「身体」という自分を感じて、動く事をしって、自分自身への見方が変わりました。
その自分がいれば、結果があってもなくても、生きていることへの喜びが出てきます。
 
特に競技の世界では賞賛されるのは一番の人だけです。
もちろん、自分の積み重ねてきた練習と努力こそ大切ですから、意味はあるんですよ。
でも、どんなに努力をしても、結果にならない場合だってあります。
少林寺拳法だけの話ならば、がんがん練習をすれば、必ず上達しますけど、必要なのはその先の人生を自分の力を信じて生きていくことだと思っていますからね。
 
 
 
そんな事を考えながら、子供たちに自分の身体をいろんな面からみて欲しいと思い、練習を考えています。
仙骨を見てもらいたいときには骨盤を立て、意識をする事もしました。
結果として姿勢は良くなって見違えるようになっても、まだ、それは指示をされたときだけ。
その姿勢に必然性というか、自分の中で自然になるまでにはもうちょっと時間がかかるかな・・・。
 
今、子供たちに伝えているのは両手を使う事。
めんどくさい理屈ぬきで両手がつながっている事をどう伝えるか、それに苦労をしていたんですが、どうも、自分の先入観が邪魔をしていたみたいです。
子供たちのために考えていた事ですが、自分自身の動きを変えるのにも役に立ってきています。
 
 
 
例えば右の突きを突く場合。
腰を落として、姿勢良く、右手をまっすぐ、相手に向かって突いていきます。
この時、形は大切です。まっすぐ、正中線を立てて、崩れないように突きをだします。
この「型」にあたる部分に先入観があります。
 
 
 
実は少林寺拳法には厳しい「型」はありません。人それぞれ持つ感覚、個性を大切にしています。
それでも、常識ってありますからね。右で突く時に意識をしちゃうのは右手です。
子供たちもやっぱり、そうなっていくんです。
 
もともと元気のある子は自然と両手が連動しているんでしょうね。
それを才能とか言っていたのかもしれません。
でも、違うんです。
右手で突こうとするから、右しかでないんです。
右を出す時に、左手を振り回してみたらどうだろう・・・。
そんな事を考えて自分で試してみました。
 
 
 
すると、自分の突きがこれまでにないほど、速く身体全体で突いているのを感じました。
胴着がピュッとうなるんです。
もちろん、突き手と反対側の引き手が大事なのは分かっていました。
でも、その引き手も常識のうちにおとなしく引いてしまっていたようです。
 
上手な先生は引き手にも突き手にも無駄がありません。
その無駄のない動きを真似してみた時、どうしても、まっすぐ引いてしまっていたのかもしれません。
でも、見た目がまっすぐなのと、体の中にどういう勢いが働いているのかは全く違います。
 
 
 
あえて突き手とは反対側の手を「振り回す」事によって、勢いが生まれるみたいです。
それを子供たちにも試してもらっています。
試して見ると、恥ずかしいのか、遠慮をしながら動きます。
それでも、両手が振り回すように動くと、その手に引かれるように身体全体が動いていくんです。
 
今、子供たちも賢くなって、頭で考えられる事をしてしまいがちです。
武術、武道を通して、自分の身体が動かされてしまう勢いがあるって事を感じてもらえればなぁ、と思っています。
 
 
今日は珍しく、少林寺拳法の話をしてみました。
こっちも楽しいですよ。
もし、興味があれば、見学、体験にお越しください。

【稽古日誌】引きこもりの拳

土曜日の練習は名古屋での大人の武道塾。
午前中、イオン大垣内にある岐阜新聞カルチャーセンターで講座を終えてから、名古屋の道場へ。
 
毎回大人の武道塾は数名で行っているので、一通り、今、自分が考えていることを伝えた後は、各自、自分の興味の向くまま、研究稽古をしてくれます。
この自発的に稽古をしたくなるかどうかで、その後の自分の動きの変化が違ってくるんです。
 
世の中にはボクシングのトレーナーやスポーツのコーチのように、自分は動けないけど、m指導をすること上手、という人がいます。
子供の頃からの勉強の仕方もあって、私たち日本人は自発的に工夫をするよりも、指示を受け、努力を積み重ねる方が慣れているかもしれません。
 
もちろん、この努力は大切です。
でも、いつか現れる「壁」を乗り越えることができないんです。
 
そして受験やルールのあるスポーツのように、限定された世界だけで結果を出すのであればトレーナーとの二人三脚もアリだと思うけど、私が武術に求めているもの、そして伝えたいことは自分の中にあるすごいモノを感じることだもん。
いつかくる独り立ちの時に自信をもって生きていくために稽古をするんです。
 
 
 
私もなんだかんだいっても少林寺拳法をもう、40年近くやっています。
技を見せれば、その技をしらない人からすれば、当然、上手、と言われたりします。でも、違うんです。
自分の中には常に越えられない壁を持っているんです。
 
なんとなく、武道界には自分の出来ない部分を隠し続ける、って雰囲気があります。
いや、武道の世界というよりも、スポーツ化された世界には、なのかもしれません。
勝負を一番に目的をおいてみれば、当然、自分の苦手な部分って隠しますもんね。
 
でも、それでは、いつまでたっても、自分の中の苦手感、ってなくなりませんし、いつか、上達が止まってしまいます。
大人の武道塾は自分の苦手なところを一番に伝え、抑えてもらい、乗り越えていく稽古がなにより楽しい場所なんです。
 
 
 
そのためには参加してくれる人の中に上下関係があってはいけません。
失敗をおそれるような雰囲気もいりません。
むしろ、私は失敗できる技と状況を求めて稽古しているようなものです。
 
このとにかく、自由でルールのない稽古は私が甲野先生に出会い、教えてもらった稽古の場そのものです。
もっと、具体的に一つのコツに特化して伝えた方がおもしろさもつたわるかもしれません。
でも、やりません。もちろん、この先の事はわかりませんけど。
 
とにかく、自分の身体を意識して、新しい感覚に気づいてみるとそれまで見えてこなかったものが見えてくるんです。
そうして、いったん見えてしまったものは決してなくなりません。
だからこそ、動きの変わった人は、いつでも、技をかけることが出来るようになるし、変化のない人は、いつも、技をかけられてしまうようになるんです。
 
今日はコンディションがわるいですから、ってのは全くなくなります。
 
 
 
あっ、そうか、だから、甲野先生は自分にはスランプがない、と言われるのかもしれません。
普通のスポーツ選手であれば、誰しも、かならず、自分のコンディションがある、と思っています。そしてそのコンディションに併せてスランプになったりするものです。
 
でも、武術ですからね。
今日は調子が悪いから・・・なんていいわけができる場面で稽古しているわけではないもん。
常に、自分の持っているモノをひたすら信じ、表現する事が大切なんです。
 
 
 
文化センターには文化センターの良さがあります。
研究稽古には研究稽古の良さがあります。
ともに、自分という存在を見ていくためにあればいいなぁ、と思って活動しています。
 
人間の身体ってすごいです。
もちろん、心も繊細ですごいです。ただ、心は見えないもんね。
でも、身体は感覚を通して共有できるんです。
頭でっかちになりすぎて疲れちゃったなぁ、って人には一度、体験してもらいたいと思っています。
ぜひ、どうぞ。
 
 
 
さて、この日の大人の武道塾。
めずらしく、男性がそろって、武術らしい研究ができました。
座り相撲や袈裟固め、柾目返しも力一杯抑えてもらって新しい使い方もみつかりました。
 
拳の一点に入り込むと太刀を交わせるほどの速さと軽やかさがでる、とはこれまでお話ししてきたとおりです。
ハサミの原理で大切だと言ってきた「連動」は拳の原理にはありません。
これを親からみて、子供と孫の違いで説明してますが、苦労してます(笑)。
 
兄弟は気になるけど、いとこになると、すこし遠いでしょ、そんな感じなんです(笑)。
 
 
 
とにかく、両手があるのに、一つしか使えないんです。
いや、これをダメだとは全然、思っていませんでした。まだ、生まれたばかりの術理ですし、一つの拳を動かすだけでも、十分すぎるほどの結果を出してきますから。
 
ただ、今日の稽古の相手は単純な腕力だけではなく、すでに、感覚もレベルが違ってきた強敵です。
彼らとすこし、乱取り的に手を合わせてみると、デモンストレーションの時のようには技がかかりません。
以前であれば、これもしかたない、と思っていたと思いますが、動きが変わってきたことで、なんとかしたいという欲求が生まれてきてるんでしょうね。
手を合わせながら、自分の身体に出来ることを探してみたんです。
 
 
 
すると、見つかったのは、この拳を動かす方に使うのではなく、その拳の中に引きこもり、まず、気持ちの中で安心を作るといい、という事でした。
引きこもってみると、外からどれだけ力を加えられても、心に不安が出てこないんです。結果的に、この時には身体にも崩れがなく、余裕をもって、相手を観察することが出来ます。
 
相手の力をとにかく、引きこもった拳が担当していると、反対側の手が気楽に動かせることに気づきました。
やはり、手は二本あるんです。
この引きこもった拳と自由な手が同時に働くと、相手はどちらを相手にすればいいのか迷うらしく、崩していけるようになりました。
 
 
 
これを日常生活の中で応用していくと、きっとこんな感じです。
仕事や家庭の中に生まれるトラブルをなんとか解決したい、って考えますよね。
でも、いきなり、解決策に手をだし、改善を図ろうと思っても、なかなか実際にはうまく行かなかったりします。
だって、そのトラブルの状況に対して、恐れや不安があるんだもんね。
 
だから、この時、なにか行動を始めるんじゃなくって、自分がそのトラブルに負けていないかを問いかけるの。自分の心に。
その時、不安が出てきたら、じっと、拳を握って、そこに集中するんです。労宮をおさえてもいいはず。
とにかく、心に不安があっても、身体を意識することで、不安をまず、とっちゃう。
 
 
 
この先、改善しなくっても、まぁ、自分は壊れないな、って気持ちを作り出すんです。
そんな事できるはずない、って思うかもしれないよね。でも、武術であれば、それができるんです。
頭では無理無理、と思うことも、身体はひょいっとやっちゃったりするから。
 
まず、壊れない自分を作って、耐える。これを忍耐と言っていいのかわかりません。ただの我慢とはレベルが違うから。
 
その安心な自分を作ってから、なにが出来るのか、ゆっくりと観察してみるんです。
 
 
 
これが今考え得る、武術的トラブル解決法です。
 
 
 
ねっ、変でしょ(笑)。
こんな事ばかり考えるようになって、生きることが楽しくなったんです。
自分でも自分の人生を生きていけるって感じられるようになりましたから。
 
また、このあたりの話も冊子にまとめてお渡ししたいと思います。
期待せずに、待っててください(笑)。
 
今日も、ありがとうございました。
 
 
 
追伸
来年早々、甲野先生の浜松講座が決まりました。
ぜひぜひ、お越しください。
人生がダイナミックだってわかりますから!

【稽古日誌】提灯とライト

いよいよ、12月。今年もあと一ヶ月かと思うとやれていない事の多さに凹みます。
まぁ、それでも、無理に頑張ってみても、うまくいかないのはもう、知っている(笑)。
今、やりたい事をやっていくのが一番なんだ、と自分に言い聞かせているけど、それで結果がドンドン出てきてしまったのが私の「武術」。
 
 
 
学生時代なんかに一生懸命練習に励んだ時期もあったけど、技ができるってのは単なる練習時間じゃないみたいなのだ。
もちろん、時間は大事なんだけど、普通に考えられている時間とはもう、全然違う。
今、自分のために稽古している時間は?と問われるとほとんどありません。
もちろん、講座や稽古会の時間は自分にとっても貴重な時間でとっても良い練習になります。
でも、スポーツ選手がするような自分のスキルのためのトレーニングの時間ってほとんどないもん。
それでも、それまで、まったく出来なかった事が現実に出来るようになったりしてますからね。
 
 
 
きっと多くの人は不安があるから練習するんだと思うんです。勉強も似たようなものかもしれませんね。
でも、甲野先生から学んだ稽古法は違うんです。
とにかく自分の身体、心に興味を持ってみると、いつでもどこでも、なにをしていても、この身体と心に目が行くようになってしまうんです。
 
具体的な練習時間はほとんどなくても、普通に生活をしている間中自分の心と体と対話をしているようなものです。
考えられないほどの成果が出てきてもおかしくないですよね~。
 
 
 
こうして日誌を続けていけるのも、毎日の生活の中でどんな事を考えて稽古しているのかが伝わればいいなぁ、と思ってです。
個々の技や術理の工夫はどうせ変わっていくので、適当に受け止めてもらえれば良いんです(笑)。
それよりも、身体と対話をしながら生きていくって事をもっと、身近に感じてもらえればなぁ、と思っています。
 
そうだ、昨日の日記でしたね。
身体を感じながら生きると言うのは過去を受け入れる、認めるってことです。
感覚を掘り下げ、それまで気づかなかった事を身体に見つけるたびに、自分の身体に感謝の思いが積み重なっていくんです。
 
自信を持って生きろ、って言葉は安易に使われる言葉だけど、自信がない自分をどう信じるのかってものすごく大変な事なんだよね。
武術を通して見える身体が教えてくれるのは才能とかを超えたものすごいものだから。
どんなに自分を否定してみてもこれは、すごい・・・と思わせてくれるものです。
ぜひ、自信をもてない人にこそ、試してもらいたいものです。
 
 
 
 
さて、技の話を少し。
太刀捌きの解説をします。
この動画の身体操法です。
 
 
 
コブシの中の一点に力と意識が集まるようにして見ると動きがよくなり、結果として、こんなにも普通に刀を交わすことができるようになりました。
この時のコブシの感覚ですが、「提灯」と似ている気がしています。
 
 
普段私たちは自分の意思でなにかをしよう、と生活をしています。これを「我」の動きとしましょうか。
我が強くなっても暮らしていけるのは自分の命令を聞いてくれる機械を手にしたからです。
でも、刀を前にした時、逃げなきゃ!と我が命令を手足に下したとしても、手足が動き出すまでにはタイムラグがあります。
このままでは刀を交わせません。
 
 
しかし、コブシに意識が集まった時、自分自身は大きな身体の自分ではなく、ふわりと浮いている「一点」になるんです。
このコブシが動く時にはタイムラグってないんです。いや、ないわけではないと思いますが、圧倒的に短いんです。
 
刀が来た瞬間、そこから逃げて、別の場所へと行けるんです。
この時、コブシは逃げられても、大きな身体はどうなるんだろう?って思いますよね。
身体はコブシにあわせてついてくるんです。ついてくるにもかかわらず、速いんですよね。
 
 
 
我の動きと一点の動き。
サーチライトと提灯のような違いと思って下さい。
威力のあるサーチライトは自分の意思で好きな方向に光を飛ばす事ができますよね。
見たい方向へと光を向ければそちら側は照らされ、見る事ができます。
 
でも、提灯はその周りだけをボワッと照らしています。常に提灯の「周り」だけです。
真っ暗闇を提灯を持って歩けばきっと、その提灯に引かれるように歩くはず。
 
しかし、サーチライトは違います。自分の身体があって、光をそこから発するものです。
自分という主体が胴体にあるのか、手にあるのか。
それが変わってくるんです。
 
 
 
もちろん、暗くないところではライトでも提灯でもどちらでもかまわないです。いらないですし(笑)。
刀を捌くというのも似ています。普通の時、刀もなにも振り下ろされない、恐怖がないときであれば、どっちに意識があってもいいんです。
でも、目の前に恐怖がやってきたとき、自分がどこにいるのか、ってのを考えて見ると対処の仕方が変わってくるんですよね。 
 
 
 
なんだかんだ言っても、今の時代の日本は平和です。
問題意識を持たなければ、気楽に生きていくこともできます。
でも、きっと、人間って知識を増やしていく事で、自然と問題を作っちゃうと思うんですよね。
問題が出来ちゃった人はその問題を解決していかないと幸せな気持ちになれないですからね。それを解決する事をライフワークにして楽しんでください。
そのための役立つツールが身体を細かく感じさせてくれる武術だと思います。

【稽古日誌】未来に期待しない!

テレビをつけるといつも、選挙の話が飛び交っている。
実は、国会中継が好きなんです。
選挙も嫌いではありません。
でも、この党がいい!ってのはありません。
どこが勝って欲しい、ってのもないしね。 
 
なにが楽しいかって人間の本性がぶつかっているのを感じるから。
まぁ、たいてい、口から出てくる言葉は嘘(笑)。
それを反省せずに、真剣に話をしているところが面白い。
 
昔、東大かどこかの学者さんたちの話で規則に対して、いかようにも解釈します・・・という笑い話にもならない話を聞いたことがあるけど、ここまで、科学が進歩して予測出来る社会を作ってきたけど、予測の出来ない最後の偶然性を持っているのが「人間」だと思うからね。
 
 
 
正しいこと、悪いこと、間違っていることなんかはわかりません。
今、正しく見えても、何十年か後、どうなってるかはわからないもん。
政治的な話をすると、みんななにかしらの意見を持ってるよね。
でも、20年ぐらいまえってあんまり、話題にならなかった気がするけど、どうだったんだろう?ただ、自分が歳をとったからなのかな(笑)。
 
 
 
今の政治的な衝突を見ていて思うのは、みんな「未来」の話をしてるなぁ、って思うんだ。
ここで過去の話って書いたかな?
武術が扱うこの身体が表しているのは「過去」。
これまでの生活が身体に現れてきているから。
 
それに対して心が見せてくれるのは「未来」。
誰だって未来を明るく楽しいものにしたいと思っているよね。
今、政治家は我が党は、私は未来の日本をより良くします、と大きな声でうったえています。
一生懸命なのはわかります。いろんな欲もあるかとおもうけど、その人の信じるものを出そうとしているのだから、まぁ、みんな応援したいと思ってます。
少なくとも、自分が政治をするよりもいい仕事をするだろうって感じです(笑)。
 
 
政治家は未来を語ればいいんです。むしろ、それが仕事なのかもしれません。
西洋化する前の政治ってどうだったんだろう?
未来を描く事ってあったのかなぁ。
 
というのは、武術というか日本が大切にしてきたものって身体を抜きに考えられないもん。
武術の世界は未来に期待をしない世界です。
もちろん、助かりたいとか、そういう事を考えることはあります。
でも、実際の闘いの場面で、明るい未来を期待しても、それを敵である相手が受け入れてくれるはずありません。
万が一、そんな事があったとしても、二度、それが続く事はありません。
たまたま助かった方法をまた期待するような不安定なものに頼る事ってできないでしょ。
 
 
 
だから、ひたすら、過去に入るんです。
過去ってのは身体だ、と言ったよね。
 
自分の過去って何だと思う?
この前、その過去について大きな見方の転換があったんです。
大切なことなので、もう一度、言わせてください。
いや、これから、きっと、何度も言わせてもらうと思うな(笑)。
 
 
 
みんなね、未来に期待してるの。
政治はもちろんそうだけど、新商品や新サービスもそうでしょ。
映画なんかエンターテイメントもそう。こんなに楽しい作品が来年、公開ですよ!、なんて。
 
もちろん、そこで期待感が出てしまうのが悪いって事じゃないんです。
未来を想像しちゃうことも自然だからね。
でも、その未来ってやがてやってくるでしょ。
その時やってきた未来が自分にとって期待していたものかというと、わからないし、もし、期待を裏切られてしまった時のがっかり感ってイヤだよね。
 
 
 
つい、未来を期待してしまうのは、あまりにもこの時代の未来を作る力が大きくなり過ぎちゃったから。
遠くの外国へ行きたい、と願い飛行機が出来ました。身体を運ばなくても、ネットを使えば、地球の裏側の友達ともコミュニケーションが「瞬時に」取れます。
これ、あたりまえにみんな使ってるけど、ものすごいことだよね。
 
なにかが「できる」って事を幸せって思いこんでると思うの。
西洋的な考え方で言えば、自分の周りにたくさんのモノがあるって幸せだと思うんだよ。外国の人なら、便利になって、豊かになることがそのまま、幸せって思えるかもしれない。
 
でも、日本的に考えると、モノがあるから幸せって事じゃないんだよね。
日本人って心の中にある世界も大切にするもん。
モノがあっても、自分の中に納得したものがなければ、ついつい、考え込んでしまったりするの。
 
 
 
単純に未来がバラ色になれば幸せならいいんだけど、安易に得た幸せをそのまま素直に喜べないんかもしれないの。
武術的に言えば、相手に勝つために武器をどんどん大きくしていくのが西洋的解決法なんだけど、日本は武器を進化させなかったからね。
その武器を扱う身体を大切にしてきてるの。身体が使えれば、自分の心の中に満たされる気持ちが生まれます。その納得できる心を得るために武術があるんです。複雑ですね(笑)。
 
 
 
未来に期待をすることなくどう生きるのか。
私が武術の中に見つけたのは「自分の過去」をどう考えるか、です。
生まれた日からが過去の始まりだと思うのは頭だけの問題です。
記憶があるところからがスタートだとすると、そこからの自分はきっと、プラスマイナスゼロです。
良い事も悪い事もあって、今の自分があるからね。
 
でもね、違ったんです!
過去の始まりは地球の始まり、宇宙の始まりかもしれないんです。
そこまで掘り下げられなくても、人間がここまで進化してくるまでに、色々あったはずです。猿だったかもしれないし、魚だったかもしれない。
いきなり、人が出てきた事は無いはず。
 
 
 
最初の生命がなんだったかはわからないけど、たまたま地球に生まれた命が膨大な時間をかけることで、ここまでやってきたんです。
ここにはプラスしかありません。
人であるだけで、ものすごい、時間の積み重ねをしているんだと気づきました。
 
生まれる前からも、自分はたくさんの時間を持っているんです。
未来に期待しても裏切られることがあるけど、膨大な過去は一度認めることができれば、感謝しかありません。
その膨大な時間を積み重ねてきた「自分」がここにいる、って考えてみると、この先の未来がどういう未来が待っていようとも、まぁ、なんとかなるかもしれないなぁ、って思えてきます。 
 
 
 
武術は単純に相手に勝つことが目的じゃないんです。
たとえ、勝ったとしても、そこに卑怯な事実があったりして得た命だったりすると、きっと、心の中に負い目を背負ってしまうはず。
だからこそ、過去なんです。
過去に感謝をしまくって生きていければいいなぁ・・・って本当に思います。
 
 
 
こんなややこしい話、今日も聞いてもらってありがとうございます。

【稽古日誌】経験こそ稽古

先週行われた中部大学の少林寺拳法部の幹部交代式。
今日、幹部となって初めての練習を見に行ってきた。来月には新人大会もあるという事で、みんな目的を持ち、がんばってました。
 
 
 
目的があるときってやる気が出るんです。
そんな時にワザワザこちらから押しつけるような指導はしません、絶対に(笑)。
自分の中から沸いてくる興味があるのなら、堂々とそれに向き合う事が一番なんだ、ってのが伝わればうれしいです。
 
 
 
もちろん、その考え方はこれまでの自分の稽古から確信のあるもの。
学生時代、たくさんの教えを聞きながらもどうしても、身につけられなかったのは、教わる事を頭だけで判断をしようとしていたから。
 
それが、自分のしたいこと、感じることに集中してひとつひとつ解決をしていくことで、想像もしなかった動きが出来るようになったのだから、迷いようがありません。
 
 
 
ハイハイ、と素直に言うことを聞く学生は教える側は楽かもしれない。
でも、それはどちらも、暗に我慢をしてその場を取り繕ってるかもしれないもん。
自分の中の不安や疑問を心の中に押し殺していると、いざというとき、緊張として出てきてしまうんです。
 
 
 
学ぶってのはとにかく経験だとおもうの。
その経験ってのは身体で感じるって事。
昔、甲野先生に学び始めた頃、ビデオカメラを買う余裕がなくって、テープレコーダーを持ち込んで、先生の使う言葉を残しておこう、って記録させてもらっていた事がありました。
でも、これ、その場の経験のチャンスを逃してしまう事だったかもしれない、って今は思うんです。
まだ、テープレコーダーだったからおいておくだけだったけど、ビデオを手に入れてからは、後からみればいいや、と回し続けていた時もありました。
 
 
 
ビデオを通して、動きは映るかもしれない。
でも、全ては映らないし、そもそもそのビデオからなにを受け取るのかは自分の中にある感覚次第だもんね。感覚を掘り下げ、鋭くすることが武術の稽古そのものだもん。
 
手を合わせたり、その場をともにして空気感を味わうことで感覚を認識していくことが何よりの経験だと思うなぁ。
 
目から得る情報量ってすごいっていうよね。
特に、現代は。
でも、それに囚われるからこそ、みんなが同じようになっちゃうと思うんです。
目からの情報を主に作られた技の手順は共有がしやすいけれども、ついつい、それに囚われがちになります。
 
 
 
今、こうしてみんなが見ている画面も実はたくさんの「点の集まり」だよね。
線に見えるものもじっと目を凝らせば点の集まりにすぎません。
武術の技ってこういう事かもしれないの。
 
 
 
手のひらの中に一点が見つかるってのは、それだけに意識していると、他の身体の部分が無意識に任せることができるようになるんです。
 
不安が生まれると、つい、なにかをしたくなるでしょ。それがなくなるから、結果的に身体が安定して早さもでるんです。
 
でも、もし、これが肩を支点にして腕を使う技になると、その腕の動く部分を先回りして抑えてしまうと、技が止められてしまいます。
柾目返しや浪の下のような単純な技であれば、相手の虚を突くことで技として効かせるようにもしやすいですが、打撃系のような相手の気配をより敏感に察知してうごくような状況だと、ちょっと辛くなります。
 
 
 
そんなときにも、自分がどこにも縛られない一点であれば、相手の防御をかいくぐり、相手の中へと入っていけるようになるんです。
どちらが「正解」ってのはありません。
使い勝手の悪い一点よりも、熟練された技をもつ線の動きの方がいいかもしれません。
ただ、その時、自分がどんな動きを求めているのかを問いかけなきゃいけないんです。
自分の心の声を聞き、それに従って、やりたいことをやれる自由があるって感じられることこそ、幸せ何だと思うから。
 
 
 
なんの話だっけ(笑)。
そうそう、大学へ行ってきたんだった。
そこで、暇そうにしている学生を相手に太刀を捌く動き、相手の意識を操作する小手投げなど、これまできっと体験したことのない技を経験してもらいました。
まだ、彼らからすると、私は敷居の高い「監督」に映るかもしれません。
でも、今日の体験はきっと、彼らの心に刻まれたはず。この先、どんなに他人に誉められても、自分の中にあれはできない、って動きがあれば、追求する心って抑えきれなくなるはずだから。
 
 
 
自分の中に求めるものが生まれて、そして、それを手に掴むことができるって、わかれば人生はきっと、ダイナミックで楽しくなります。
困難がないから幸せではないんです。そんなものって無いもん。
どんな困難が現れてきても、なんとかなるだろう、って気持ちを身体がくれるんです。
私も20年前、前監督にその事を教えてもらいました。
今、自分が楽しく納得して自分の人生を生きていけるのも、監督がいたからです。その役目を今、自分がしているって思うと、不思議です。
 
 
 
それにしても、若さって本当に自由だなぁ、と思いました。
昨日の技に対する感想や質問がとにかくいい感じなんだもんなぁ。
 
また、動きを変えていくことで、どんどん、フィードバックさせていきますね。