稽古日誌

地面から跳ね返る前の自分

 カラダラボの活動として「わかる瞑想教室」と名前をつけて「稽古」している。
 
 実はやっている事、考えている事、意識している事、求めている事は「大人の武道塾」となんら変わりない。ただ、それでも名前を変えたのには理由がある。
 
 「自分」という存在を見て行くのに、入り口として「カラダ」なのか、「ココロ」なのかは真逆にみえるからだ。
 
 
 
 入り口は別々だったとしても、中に入れば、一緒なのは「心身一如」という言葉通り。しかし、それを口にする多くの人はなにが身体で心なのか意外にわかっていない。頭にばかり知識が入り、「わかっているつもり病」にかかっている。
 
 
 
 こんな言葉にするのは、私自身がそうだったから。
 自分の事だもん、わかっている!と思っていた。
 もちろん、口ではそんな大きな事は言わない。わからない、と謙虚でいながらも、無意識の中では疑問を持つ事無く暮らしていた。もし、自分の存在そのものに疑問を持ち、意識していたならば、それを気にする事、求める事無く暮らす事なんてできるはずがないからだ。
 
 
 
 先日、ただ「手をあげる」という動きの中にこんなにも「心身一如」があるんだ、と驚く気づきがあった。身体を研究することを仕事にまでしているわけだから、自分でも一生懸命考え、求めてきたつもりだった。それでいて、なお、こんなにも思い違いをしていたのか、という発見だった。いまだにうまく言葉にできないけど、こんなにもゾクゾクする気持ちを伝えられないのはもったいないので、無理をして言葉にしている(笑)。
 
 
 
 言葉にできない分は手を合わせて感覚を渡すことで許してもらうとして、まずは、今の時点で言葉にできる限りの事をしておきたいと思う。また、稽古、講座の時の参考にしてくれたら、と思う。遠慮なく聞いてください。
 
 
 
 「わかる瞑想教室」を通して渡したいのは、自分の意識を拡げていってもらう事。今、自分が考えている世界が身体の感覚を通してみてみるとどんどんと拡げていける事を伝えたいと思っている。
 今日の話はまさに、それ。ちょっとした技、動きの工夫ではなく、「自分」そのものの定義自体が変わってしまった、という話だ。普段、気にしないだけで、私たちの身体はたくさんの影響を受け、ここにある。時々、それが痛みや苦しみとして感情を通してあがってきてるけど、それをどんどんと潰して楽にしているのが今の世の中だ。
 
 
 嫌だな、と思う感覚を「手がかり」にするコツを覚えればこの先でてくるいろんな悩みや苦しみも怖くなくなる。人生を楽しむための武器として「稽古」を身につけてくれたらなぁ、って本当に思う。
 
 
 
 話を元に戻そう。
 「自分」という存在の話。気づいたのは、膝にかかる体重だった。
 何気なく立っていたとき、自分の膝に力が溜まっているのに気がついた。別に特別なことをしていたわけではない。ただ、立っていただけ。その何十年もしてきたであろう「普通の立ち方」が気になったのだ。
 
 
 
 膝にかかる重さが気になったので、元を正してみるか、と探し始めたとき、普段では気づかない「前」に気がついた。
 
 それまでは力の出所は足元、それも、足の親指の付け根あたりだった。そこに体重が落ち、立っていたのだろう。当たり前すぎて疑いもしなかったことだ。
 それが、その日、自分の身体が頭の先から「下へ」向かっている力をなんとなく意識することができた。
 その力が、「足裏」で「地面」と衝突し、上に上がっている。その上がっていった力が膝に集まっている事に気がついたのだ。
 
 
 
 この時、大切なのは「地面と触れ合った瞬間」だ。その瞬間、力む事無く、「地面と自分」は「同じ」になっている。くっついている感じ。
 地面に入ってきた力を跳ね返らせずに地面に流したままにしてみると、膝の重みがなくなってきた。この時の感じは自分の身体の重さをぜんぜん感じないほど、軽かった。
 それまで一度も感じたことのない軽い立ち方がそこにあった。
 
 
 
 その不思議な感覚を頼りにいったいなにが起こっているのかを探ってみてたどりついた答えが、先に書いた、自分という存在の見直しというわけ。
 
 
 
 それまで自分だと思っていたのは、地面から跳ね返ってきていた力を筋肉でぐっと押さえつける事で生まれていた自分。
 今回、新しく見えてきた自分はこの身体になる前の地面と一つになっている自分だ。
 
 
 
 言葉にすると怪しいけど、動き方もガラリと言うか、想像もつかないように変わってしまった。
 「この」身体をどうこう動かす、というのではなく、「この」身体の「下」にあった地面を「自分」として考え、その地面を傾かせる事で身体を運ぶ感覚が出てきたのだ。
 
 
 
 つまり、「自分」が「身体」から「地面」へと変わってしまったというわけ。
 
 
 
 自分でもなく、他人でもなく、周りにあった空間が自分にできるかもしれない、と今、ちょっと興奮している(笑)。
 というのは、仏教ではこの世界を「自分」と「他人」と「それ以外」、という3つの観点で考えたりするから。ただ、それを頭で理解することはできても、身体を通してそれを感じることなんて想像もしていなかった。地面は地面であり、自分はこの身体であり、疑いもなかったから。
 それが「それ以外」というのを身体で感じ、動きで表現する事ができる可能性がでてきたのだ。
 
 
 
 
 嫌な事に出会ったとき、つい、自己否定をするか、嫌な気持ちにさせる敵を攻撃してしまう。しかし、もう一つ、そういう状態になってしまった「場」がある、という事だ。
 今日の話で伝えたいのは、その「場」を動かし、自分の身体、相手の身体を動かすことができる、という点である。
 
 自己否定でもなく、攻撃でもない場合、「あきらめる」、という選択肢がある。もうちょっといい言葉を使えば「受け入れる」、という感じだろうか。しかし、潜在的な意識の中ではなかなか受け入れるって事は難しい。そういう時、身体には「力み」として無意識の抵抗が表れる。
 
 しかし、自分が「場」そのものになっている時、力みは現れない。なぜかと言うと、力みは地面との跳ね返りで生まれているものだから。
 
 
 
 もちろん、ゼロではない。むしろ、この地面と身体にあがっていく力みとの割合を変えていく事こそ今後の稽古の材料なのかな、と思っている。ちょっとした事で自分の枠は壊れ、意識は広がる。
 身体はなにも変わらなくても、意識が変わると、それまで困っていた事も、違う感じで見えてくる。人に頼るわけでも、薬や機械に頼るわけでもない。自分の考え方だけで見方を変える事が「できる」というのを知っていれば、いざという時、選択肢の一つとして思い出してくれる事もあるかな、って考えている。求めてみれば、ものすごく、大きな事を返してくれるのが稽古。もっと、もっと、欲を持って自分の観察をしていこうと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 いやぁ、言葉にする事がこんなにも大変な発見は初めてかもしれない(笑)。
 でも、単純といえば単純なんです。当たり前に重力があり、地球と跳ね返って来ているんだから。きっと、無意識の動きはこの力によるものです。
 ついつい食べちゃう、なんて無意識の行動の元かもしれない、と考えると、興奮しないわけには行きません(笑)。おやつとお茶を用意して待っております。人間の奥深いところを雑談交えて楽しく、探っていきましょう。皆、そういう資格があるんですから。一部の頭のよさそうな学者さんにだけやらせるのはもったいないです。
 
 

壁を乗り越える力

 日曜日に少林寺拳法の大会があった。少林寺拳法では単純な勝ち負けでの順位はつけない。技の構成を二人で決め、それを繰り返し練習し、磨く、そしてそれを表現し採点してもらう。「演武」という方法だ。
 
 勝ち負けを競うスポーツに比べると採点方式なのでわかりにくい点もあるかもしれない。物足らない、という人もいる。しかし、やりこんでみると、単純に勝ち負けを競うものよりも楽しい部分がたくさんある。そして、それは一時の勝ち負けの楽しさで終わらず、生きていく強さに変わっていくものだ。そういう話はまた、別の機会でするとして、今日は大会参加を通して気づいた「壁を乗り越える話」をしようと思う。
 
 
 
 子供たちが出場、私は裏方。いつも大会ではこんな感じ。そして、これが結構堪えるのだ(笑)。自分だけの問題であれば、練習、稽古をすればいい。練習が足らなくて未完成なままなら、足らない練習をしてしまった自分の責任、考えを改めてまた練習すればいい。
 でも、指導者として子供たちに接しているとき、まず、やる気を持ってもらわなくてはいけない。そして、長い練習の中でそれを持続させ、大会に向かう。当然、大会が終われば結果がでてくる。
 
 自分だけの問題であれば、出てきた課題をクリアしていけば良いのだけど、指導者としてみると、単純に答えは見つからない。たとえ大会で成績がよくてもそれが大人になったとき、生きていく強さになるかどうかをつい、考えてしまうからだ。
 でも、それは「当たり前」だったのだ。
 
 答えは一つではなく複数あったのだ。それが、今回の大会を通してわかった。人それぞれ、必要なものが違うのだ。
 
 
 
 五行思想というのがある。この世界、宇宙は「木火土金水」という流れの中にある、というもの。それと自分の問題とがぴったりと合い、必要な事がわかった。今日はその五行に当てはめて「壁を乗り越える力」としてまとめてみたいと思う。
 
 
 
 大会に結果を残したい、そう思って出場していても、実際に結果がついてこない場合はよくある。むしろ、ほとんどの選手はそうだ。優勝というものが一つしか無い以上、その他大勢はみんな、期待した結果を得られない。
 
 この結果は「金」にあてはまる、形あるものだ。実力とも言えるかも。この実力を高めるにはなにが必要なのかといえば一つ前の要素である「土」だ。
 「土」にあたるのは「努力」、練習時間。練習なしに実力がつくことなどありえない。勉強なしに学力がつかないのと同じ。
 ただ、その努力に「陰と陽」があり、多くの場合、努力が実を結ばない方へとむかっているんだ、と気づいたのだ。
 
 
 
 実を結ぶ努力とはそれを行っている間、がんばっている気持ちは微塵も浮かばない。ただ、楽しいからこそ、その事をずっと、考えてしまうのだ。学校の勉強は嫌いだけど、ゲームの勉強は楽しい、って事。そして、この時、ゲームの勉強は勉強だと思っていないはず。楽しいからこそ、続くのだ。「覚える」「身につける」という点では同じなのに。
 
 勉強もゲーム感覚になれば楽しく続くかもしれない。勉強をしていく事で手に入れられるものを先に考えてみれば、楽しくなり、向き合い方が変わるかもしれない。
 とにかく、「がんばり」という「努力」の前に「楽しさ」、これをしていれば間違いないという「明るい未来」が無くては実力のつく努力はできないという事だ。(無理をすれば体や心が病んでくるから、正直である。)
 
 
 
 この時、もう一つ大切なことが。それは結果を求める「欲の強さ」だ。
 現代っ子は生まれた頃からすべてを手に入れている、といわれる。欲しいもの、なりたいものがない、という子も少なくない。
 欲張ってはいけません、という教えが有効だった時代もあるけど、大きな視点で流れを見た時には欲の力も絶対に必要なのだ。
 
 
 
 少林寺拳法では「自己確立」という目的を持って修行する。自己を確立するだなんて、大きすぎる欲だ。生きている中でその自己確立を実感するのには「これでいい」という基準がいる、スポーツでも、仕事でも、人間関係でもなんでもいい。ひとそれぞれ、目標を作り、自分の事を自分で認められるようになるのが大切。
 もしかしたら、それは、自分勝手でわがままな自分になってしまうかもしれない。ひたすら自分の力、納得をもとめるのだから。
 
 
 
 そこで少林寺拳法にはもう一つ目的がある。「自他共楽」だ。自分だけが強くなるのを良しとするのではなく、「俺もがんばるからお前もがんばれ」、と相手の事を考えるのだ。
 スポーツの世界で考えてみると、これはありえない。相手の弱点を研究し、戦術を組み立て、勝ちを獲りに良くのだから。
 開祖は「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」という言葉でそれを言われた。頭だけで、うんうん、いい言葉だ、とそのまま流してしまうのはもったいない。これを身体を通して、実感として、確信する事こそ、自分が自分の人生を生きていくうえでは必要になると思う。大切なのは欲を認め、育て、大きくして行くことにある。少林寺拳法では「自己」の欲から「他人」の事も考えられる人へと育てている。そして、「半分は・・・」という言葉でやさしさもつけながら(笑)。
 
 
 
 今回大会を通して気がつけたのは「自分の目の前にある壁をどう乗り越えていくか」、という事だ。乗り越え方がわからなくて、とりあえずがんばろう、という人は多い。もしかしたら「がんばれない」、という人は無意識の中でこの方法では実力が得られない、と思っているのかもしれないし、その実力自体を必要としていないのかもしれない。
 
 
 
 仕事をするようになれば好むと好まざると、実力、結果を求められるようになる。今はそういう時代、社会なのだ。だからこそ、稽古、練習を通じて自分の力を信じて壁を乗り越えていく力を伸ばしていく事こそ、大切になるはずである。
 
 
 
 実は「金」「土」「火」以外に「木」と「水」に関してもはっきりとわかった事がある。最後にそれをまとめて終わりにする。
 
 結果、実力は「金」、それを求めるのなら自分の与えられた時間をできる限りそこに向かせればいい。努力、練習すれば間違いなく力はつく、これが「土」。ただ、いやいや努力をしても集中力は続かない。楽しく努力することが必要だ。この時、本人は努力をしている、なんて感じないだろう。それを可能にするのには自分が持つ解決法、勉強法、練習法に対して疑いがあってはいけない。明るい未来を探すのだ。
 未来には明るいものと暗いものがある。自分の未来をどちらにするか、探すことが「火」。
 
 
 
 しかし、探していると自分には暗い未来しかない、という諦めが生まれる場合もある。それを出さないように助けてくれるのが火の前の要素である「木」だ。木にあたるのは責任、役目、仕事、自分にはその価値がある、と認めること。自分で認めることができなければ、誰かからの命令でもいい。自分がその問題から逃げ出せないほどの「圧力」があれば、明るい未来を探し続けることができるだろう。
 やってはいけないのは明るい未来を探す前にただ、命令のまま努力をしてしまうこと。追い越してはいけない(笑)。
 
 
 
 そして最後に「水」。これは「運」を表している、「他力」と言ってもいいかも。自分に圧力がかかって逃げ出したい、と思ったとき、それを受け入れるのに必要なのが「運」だ。自分はそういう運命だったのだ、と考えてみる。これは決して「諦める」という事ではない、自分の周りには自分だけではなく、他人という存在がいて、自分の力に合わせて他人は動き、自分に帰ってくる、という大きな流れを教えてくれているのだから。
 
 
 
 これで五行、「木火土金水」が一巡りした。実力(金)がつけば、他人はそれをほっとけない(水)。これが「運がつく」状態。考えもしなかった役目(木)をもらい、重荷だと思っても諦めず、明るい未来を探し(火)、それを十分に感じてみると、自然と身体と心は楽しいほうへと動き出す。四六時中楽しいことと向き合えるようになる(土)。すると、それにあわせて力はついてしまう(金)。
 こういう循環があるんだ、というのが実感できた。そしてこの20年、私は知らず知らずの間にこのいい流れの中に居られたみたい。
 
 
 
 明るい未来がどんどんなくなっている今の時代、明るい未来は自分の中にあるんだ、それをこれからも伝えて行きたいと思う。
 
 
 
 
 お近くの稽古、講座はカラダラボのウェブサイトからご確認ください。
 
 
 

瞑想教室で得たもの

 ニュースが溢れるようになって、昔だったら夢だったような製品、サービスがすぐそこまで来ているのを感じるようになった。

 ついさっき聞いたニュースは無人飛行機が自宅まで商品を運んでくれるらしい。無人の自動車が公道を走るのも実験は進み、後はゴーサインをどうだすか、というところまで来ているって話も。

 そういえば、車が出始めた100年前、馬車になれていた人たちは「そんな怖いものには乗れない」と言っていたそうだ。

 

 

 

 つまり、馬車であれば、馬が危険を察知して止まってくれる。しかし、車は自分の意思で運転をしなくてはいけないからとの事らしい。これが冗談なのか、本気なのかわからないけど、たった100年で常識って簡単にかわる、って事はわかるはず。

 

 

 

 こうしたインターネットも20年前には皆が使うものではなかった。

 私たちの世代は人とつながる事を目指したものが、今の子供たちにとっては、つながっていない状態を考えることの方が難しいそうだ。ここでも常識は変わる。

 

 

 

 とくに、これからの時代はさらにスピードを上げて世界が変わっていくだろう。TPP問題も細かく問題をばらしていくから自分の権利を守ろう、という話しか聞こえてこないけど、簡単に考えれば、世界で一つのものさしを作ろうって事だろう。ある面では価格が安くなり、いいと思えるかもしれないけど、安くなっては困るものまで統一されていくのだから、どこへ向かっているんだろう、という想像ぐらいはしておいた方がいい。

 

 

 

 今から20年、30年後の未来はどうなっているんだろうか?

 そんな事を考えるのが好きになったのは、ここ数年。もっと前から無意識的には「考えたい」という気持ちはあったように思うけど、それを意識の表に出して自分の問題として考えるだけの自信もなければ、困ったこともなかった。のうのうと生きていたのだ(笑)。

 

 

 

 年齢のせいなのか、時代のせいなのか、身体の感覚が拡がってきたからなのかわからないけど、今ってなんだ、自分って何だ、世の中ってなんだ、と考えたくなってきた。

 

 そういう問いをインターネットを通して検索すると山ほど「答え」は出てくる。そこで出会う新しい知識は答えになっているようで、実は、また、新しい問題になっていることが多い。気がつくと、なにがなんだかわからないほど複雑な問題になっていたりする(笑)。

 

 

 

 きっと、甲野先生に出会わなくては、その複雑な問題に振り回され、なんとか、人の意見を自分の意見だと思い込むことで暮らしていたに違いない。生きている、という点では変わらないかもしれないが、今ほど「楽しい」というのを感じていたとは思えない。

 

 

 

 今、すごく「楽しい」のだ。

 

 

 なんと、子供っぽい意見なのだろう(笑)。ここに微妙な気持ちを伝えられる言葉の術があればいいのに・・・と思うけど、仕方がない。今、楽しい、というのが自分で感じられるだけでも幸せなのだから。

 

 

 

 

 いつの間にかカラダラボの活動に「わかる瞑想教室」というのが加わった。もともとやるべきことも、決まりもない、ただ、研究する会だったので、名前も付けられずにいたけど、自分が行っている事が「瞑想」という言葉がぴったりかもしれない、と思い名前をつけた。

 

 

 

 きっと、瞑想という言葉には決まりはない。いろんな瞑想法があるみたいだから、なんでもいいはず。私にとっての「古武術」という言葉は、甲野先生やその周りで楽しんでおられた方々を周りの人が自然と名づけた、という点で、私がそれを名乗っていいのか、というジレンマがあった。

 

 

 というのも、だんだんと自分が求めていく先に世間一般的に思われている武道、武術のゴールと違っている気がしてきたからだ。

 せっかく武道、武術に興味をもってこられても、なんでもいいんだ、なんて事を言われたらきっと、その人はがっかりすると思う(笑)。

 戦いの場面を想像し、その状況をどう克服するかを考えたとき、やっぱり、学びたいのは「どう戦う」かだから。もちろん、昔の私はそうだった。

 

 

 でも、いつしか、ただ立っているだけで、争い自体がなくなってしまう事があるのだ、と気づいてからはもっと、その立っているだけ、というのを追求したくなった。

 街を歩いていて襲われることは少なくなったけど、日常の仕事や生活の中で不安を感じ、緊張してしまう自分にはいつも困らされてきたから、その違和感をとりたい!という性格の問題ももちろんあったと思うけど。

 

 

 

 姿勢の大切さに気づき、身体が変わり、結果的に動きや技にまで影響がでると、たくさんの人に驚かれるようにもなった。その「結果」を見て、教えてほしいと思われたからこそ、講座や稽古に来てくれるし、仕事もくれるんだと思う。

 その声にこたえて、全部伝えたい、と思っても、自分が変わった原因は順番を変えたからなのだ。技を覚えたからできるようになったのではなく、技をあきらめ、姿勢に特化したからこそ、それまでの自分が変わったのだと思う。

 

 

 

 この「変化」は身体に起こったことだけども、身体が変わると同時に、心にも変化が起こる。その動きを感じられる前には決して得られなかった気持ちがうまれるから。そして、私が楽しんだのは、その「気持ち」なんだ、とわかったからこそ、ちょっと違う名前でそれを伝えないといけないな、と思った。

 

 

 

 なにも変わっていないけど、気持ちだけは安らかになっている、これ、すごく不思議なこと。なぜ、こんな気持ちがある事に気づけなかったのだろう、と。

 鍛えて強くなったから自信がつくわけではない。自分の身体にそれまでとは違った意味があることがわかると、勝手に安心がでてくる。身体の動きが広がったことで、意識も広がっているんじゃないだろうか、そう考えた。

 

 

 

 瞑想を教える、といっても、じっと目を瞑り、内省はしない。もちろん、してくれてもいいけど(笑)。

 実際にやっている事は大人の武道塾と変わらない。ただ、見ている方が違うだけ。身体が変わることで、いったい、自分の何がかわるんだろか、というのを考えて出てきたアイデアを共有して手がかりにしてもらえれば、と思っている。

 

 

 

 

 先日も自分でも「???」な発見があった。頭で考えると、到底理解できないことが、身体でわかり、間違いない、と思えてしまったのだ。

 

 その発見とは、目に見えるこの体の一つ上の次元に自分が「いる」という事。

 その「感じ」になってみると、目の前で自分を抑えてくる相手が「自分と同じ」ように感じられるようになった。コンチクショーという気持ちがないまま、相手を動かし、また、相手に動かされる感じがずっと続くのだ。

 結果的に、相手が崩れるかもしれない。でも、それは、自分と相手とが分離した感覚ではなく、共にその場面を作る「仲間」の感じがする。

 

 

 

 甲野先生はアクシデントに遭われたときよく、「こういうシナリオになっていたのか」といわれる。起きた現実に文句を言うことなく受け入れる姿勢にかっこよさを感じ、それを目指していても、実際に自分が窮地に陥ってしまえば身を守ろう、という緊張や、持っている武器を使いたくなる気持ちがでてくる。その場を「受け入れる」という感覚はまったくわからなかった。

 

 そのわからなかった感覚が今のこの身体を一つ上の次元の「影」だと感じられるようになって、「わかる」ようになったのだ。

 もちろん、これを実生活に生かすにはそれこそ、修行が必要。すぐに、不安はやってくるから(笑)。

 でも、自分の意識できる場面で、自分の意思を使って、相手を含めた世界を見直せる経験があるのとないのとでは、ぜんぜん違うのだ。いつか、この感覚が「普通」になるだろう、という予感が今出てきている。

 

 

 

 実はこういう言葉遊びのような技は大嫌いだった。

 実際にその技を受け、崩され、そこになにかが「ある」とわからせてくれれば、そこに集中することができたかと思うけど、どんな人に技をかけられても、自分のがんばる事で抵抗できてしまったから。

 これは私に才能があったわけではなく、何度も手を合わせているとパターンがわかり、身体がそれに対応するようになるからだと思う。だから、それによって遠回りをさせないように「抵抗しない」「一つになる」という教え、導きがあったのだと思うけど、その教えでは頑固な自分の頭は変えられなかったみたいだ。

 

 

 

 時間はかかってしまったけど、絶対に崩されない、と向かってくる敵を前にしても自分がやわらかく、いつものままに動けばいい、とわかったのはやはり、身体を頼りにできたから。

 

 

 

 わかる瞑想教室でやりたいのは知識の拡大じゃない。持っている知識を身体で表現すると、こう変わる、という事だ。大丈夫、と思える知識を持っていたならば、絶対に、身体は安心できるはず。でも、なかなか、こういうアプローチでの瞑想はないはず。

 

 私がそうだったように、よくわからない人も多いはず。なにができていて、できていないのかを「自分」でなんて決められなかった(笑)。

 どんなに大丈夫、と言い張っても、ちょっと押されたぐらいで姿勢が崩れてしまえば、それ、やっぱり、わかっていないことだと思うから。

 

 

 

 

 

 最初、特になんの修行も受けていない自分が瞑想教室をやるだなんて、恐れ多い、と思っていたけど、自分でもそれを「目的」にしたことで、気持ちの中にたくさんの変化が出てきた。

 

 自分の心を探るのに、誰の許可もいるはずなかったのだ。なぜなら、もう、自分はちゃんと、自分の心を持っているのだから。

 でも、どこかで、心は高尚なもので自分なんかが研究してはいけない、なんて思い込みがあったと思う。これ、身体の時もそうだったな、と今ならわかる。自分が身体や動きを「研究」するだなんて!と。

 でも、誰にでも、その権利はあるのだ。自分で研究してみたらいい。

 

 

 

 

 

 身体も心もなんとなく、時間や世間に流されると、自分からどんどん離れていく。それが面白く、楽しいことであればそれでもいいけど、そうでないなら、ちょっと勇気を出して、「自分で研究」し始めてみるのをお勧めする。自分の中から出てきたアイデアにはきっと、素直に従えると思うから。

 

 

 

 カラダラボのウェブサイト

 http://www.karadalab.com/

 

 5/26(月)には甲野先生を名古屋へお招きし、講習会を行います。おすすめです。

悩みの原因は頭と胴体。

 とあるカウンセリング系のDVDを見ていてハッとした!

 

 そこに出てくる多くの人の鼻が曲がっているのだ!しかも、その参加者は外国人。その事が衝撃だったのだ。

 

 

 鼻がバランサーになっている事に気がついて、色々な人を観察してみたとき、日本人の多くが鼻を曲げたまま生活している事に驚かされた。

 その理由を「日本人は骨格、筋肉の強さがなく、重い頭を支えるのが大変」だから、と考えた。だからこそ、あごを引き、姿勢を作る「作法」を作ったのだろう。その「作法」がなくなり、現代人は首に力みが生まれ、捻じれてしまっているのだと思う。

 

 すごいな、と思ったのは外国人の多くは首に弱さがないのだ。横を向いていても上を向いても、捻じれていても弱さがない。映画に出てくるような俳優はもちろん、観光地などで目にする外国人もみな、立派な首をもっている。日本人に比べて、外国人の首の強さは圧倒的だ!とうらやましく感心していた。(逆に、だからこそ、「作法」というすごいものを見つけれたのだ!と日本人であることをうれしくも思ったけど。)

 

 

 

 外国人は強い、と思い込んでいた分だけ、そのカウンセリングDVDをみて驚いたのかもしれない。そのカウンセリングに参加している多くの外国人の首が捻じれて今にも頭が落ちそうなのだ。なぜだろう?

 

 

 

 新しい事象が出てきたとき、頭はすぐに、「探索モード」に切り替わる。この切り替えを学べた事が武術を学んだ事の最大のメリットかもしれない。人生に起こる問題を楽しく、前向きに考えられるようになれるんだから。

 

 

 

 しっかりとした体格、筋力がありながらも崩れるのはわかる。もともと人は不安定な二足歩行をしているのだから。でも、その崩れを持っている人がこんなにも集まることってなんだろう・・・って。

 

 そこで一つひらめいた。

 日本人と外国人の問題ではなく、もしかしたら、悩みの元は頭の重さを支えきれない事で生まれる「捻じれ」なんじゃないか!って。その捻じれから頭の重さを支えきれずに生まれる「不安定さ」が気持ちを揺らすんではないか、と。

 

 

 

 心と体は一つ、と「よく」言われる。

 ただ、私はその事を「間違いない」と思いつつも、それを口にする人をそれほど信用していない。

 

 なぜなら、心と体は一つといいながらも、それは「心の影響を体が受ける」、という事ばかりで、「体を丁寧に動かしたことで生まれる心の快適さ」に気づいていないからだ。心をネガティブにしてはいけない、ポジティブにしなさい、というのは簡単だけど、それをやりきるのは、すでに悩みを持ってしまった人にとっては難しいことだから。

 

 そして、実際にポジティブを提唱する人でもストレスに弱いだろうなぁ、という姿勢の人もいる。もちろん、姿勢は隠しきれない(笑)。姿勢に捻じれと偏りを作りながら心と体が一つです!と言われても説得力がない。

 

 武術はどこまで行っても、この「体」を使い、状況を打破していくもの。どんなに困難があったとしても、自分の体を通して、感じられるものを大切にしている。

 

 

 

 

 

 姿勢の崩れが心にも崩れを作るんだ、とはわかっていたけど、それが、こんなにも影響があるとは思いもよらなかった。

 そのDVDの中に出てくる人は皆、心に不安があるからこそ参加をしているんだろう。そして、その多くの人は首に力みを持っている。支えるのに十分な筋力を持っているように見えていてもだ。

 皆、例外なく、自分の持つ不安や悩みは取りたいと願っている。そして、アドバイスを真剣に受け取り、対話の中で明るいものが見えてきた人は見る見るうちに明るい表情になっていく。そして、同時に体もリラックスしていくのが見て取れる。まさに、心と体が繋がっているというのが感じられるいいDVDだった。

 

 

 

 ただ、彼らは家に帰り、またいつもの生活に戻ったとき、そのままのリラックスを続けられるだろうか、と思ってしまった。長年の生活の中で作った姿勢が悩みを作ったかもしれないからだ。

 目の前の問題はきっと、わかりやすいもの。言葉になっていれば多分そう。そして、それは何らかの方法で解決できるはず。でも、首に捻じれをつくったままの姿勢で暮らせばまた、新しい悩みを作ってしまう、かもしれないと思った。

 

 

 

 もちろん、新しい悩みが出たらまたカウンセリングを受ければいい、という考え方もある(ビジネス的にはこれを望んでいるカウンセラーも多いかも(笑))。でも、これでは根本的な解決からは大きく外れていくだろう。長い時間をかけて崩した姿勢がその後の長い人生でよくなっていくとは考えにくいからだ。私たちは老化っていう大きな問題を抱えているからね。

 

 

 

 武術的にこれを解決するならば、「自分の心が持っている悩みを解決しようとしない」、という方法がある。ひたすら、自分の姿勢だけを整えていくのだ。

 武術であれば目の前に敵が現れるのは「当たり前」。この「敵」が悩みであり、不安そのものだ。自分を倒しにくる相手が現れているのに、消えてくれ、と願っても消えるはずない。だからこそ、心を変える方法ではなく、体に基準を作り、動かし、整えていく方法を作り上げたのではないだろうか。外を変える工夫ではなく、内側を掘り下げ、かえる工夫を求めたのだ。もちろん、目の前の敵、悩み、不安から脱するために。

 

 

 

 でも、この方法はきっと理解されにくい。

 想像してみて欲しい。自分には今、大きな悩み、不安があり、押しつぶされそうだ、と。

 その状況でアドバイスをする私は「鼻が曲がっているよ」という。どんな悩みであろうとも(笑)。

 アドバイスを受けた人はそれを素直に受け入れられるはずはない。身体のことを知らなかった自分の経験もあるのでその気持ちはわかる。むしろ、それがわかる方がすごい(笑)。

 

 でも、考えて解決しなかった問題はやっぱり考えてはいけないのだ。

 ただ、原因はある。「姿勢が悪い」のだ。

 

 

 

 ちょっと前には悩みがあったら汗をかいて発散しろ、と言われただろう。衝動買い、やけ食いなんかで解消する方法もあった。でも、体から作法がなくなり、弱くなった事で発散をすると、またそこから「新たな悩み」が出てくるようになってしまったようだ。リセットした後の身体が弱いからだ。

 

 

 

 そして、心の分野も研究されてより、丁寧に言葉を尽くして誘導するようになったのも原因だと思う。ちょっと効果が出ればそれに頼るようにもなるだろうし、どんどん、体の本来持っている強さに気づけなくなってしまっている。

 

 

 

 

 しかし、とにかく、「姿勢」の強さを忘れないで欲しい。身体は絶対に、自分から切り離されることはない。絶対に自分を助けてくれる存在なのだ。

 その身体の力を借りるためにはがんばることなく、続ける事が必要だ。身体の力を信じ、任せ続けることが大切だ。

 

 ただし、世の中はどんどん便利になっていくだろうから、体にかかる負担は軽くなっていく。その事がどんどん自分の頭から体の感覚を忘れさせる。まぁ、今がきっと、そんな感じ(笑)。

 

 

 

 悩みがある、不安がある、違和感がある、というのは実はありがたいことかもしれないのだ。その状況では「もう、いやだ」と信号をだしてくれているのだから。行動を起こすきっかけをくれているとも考えられるだろう。

 とにかく色んなことを試して悩みは解決すればいい。でも、どうしても解決できない、とあきらめそうになったとき、「体から心を整える方法がある」、と覚えておいて欲しい。

 

 

 

 

 いつか、本当に困った、変わりたい、と思ったときに自然と身体のことを思い出すはず。こうしてブログを読んでくれた経験は無意識に残るから。

 気づいてあげればすぐに働いてくれるのが「身体」。遅すぎる、というのはないから安心して大丈夫。いつか手を合わせて感覚を渡せるその日まで、私は研究を続けておきます(笑)。より簡単に身体の事がすごい、と信じてもらえるように。

 

 

 

 稽古の詳細等はカラダラボのウェブサイトをご確認ください。

重力って頼りになるぞ!

 重力の話をしようかと思う。
 
 最近の内観的技の影響か、ずいぶんと考えることが飛び出した(笑)。カラダを元に研究できてよかったなぁ、と思うのはどんなにとっぴな想像、アイデアも技を通して、その「確かさ」を感じられるんだから。
 
 その技を通しての研究があればこそ、次の術理に進める。どんなに頭で、「これはいいんだ!」と考えても、実際にこの世界で使えなければ全く意味がないもの。今、この瞬間、生きている時間を大切にしたいのだ。
 
 
 
 今、一番「確かな」こと、それは私たちの周りには「重力」があったのだ、ということ。
 しかし、その重力は普段全く生かさず暮らしていたんだなぁ、という反省だ。おそらく昔の日本ではうまく、この重力を使いこなしていたはず。自分の周りにはこんなにも「頼り」になるものがあるんだ、ということを肌で感じていたはず。
 でも、今の時代はものすごい機械が生活を変えてしまった。よくできた機械ならその中に「自然の法則」が入っているはず。私たちが「自然の法則」を感じる機会はぐっと減ってしまったなぁ、と思う。
 そんな生活が当たり前になって、つい、自分だけの力でがんばってしまう「癖」をつけてしまったのだ。
 
 
 
 重力に気がついて、感じたことがある。この「力」は決して逃げないし、裏切らない。どんな状況においても、私たちの周りにあり続けるんだなぁ、って。筋肉だけの力しかしらないままで、あれができない、これができない、って事を思っていたのか・・・。わかってしまった以上、このままではいられない。ちゃんと使わせてもらおう。
 
 
 
 重力ってのはいつ頃認識されたんだろう。物理学者にとって重力は大切なものらしい。この世の全てを計算によってあらわそう、と考えたときにはなくてはならないものだから。ちなみになんと、この世界には力は「4つ」しかないらしい!無限にあるように思えるエネルギーの種類がたったの4つって不思議だ。
 しかもその4つの中で重力と他の3つがなかなか組み合わされないとの事。重力と他の3つを組み合わせて「統一理論」を作ろうと目指してるんだって。
 
 
 
 難しい話はわからないけど、重力は他の力に比べて「小さい」んだとか。なんと、そこが統一させる鍵になってて、小さい部分の力は「別次元」へと拡散しちゃっているなんて!世の中はSFよりもSFなのか・・・いやぁ、世の中って不思議ですねぇ。
 
 これまで、カラダの感覚にはまってこられたのは、自分のカラダを通して世の中の不思議を感じられるからも知れない。知識を得た喜びではなく、カラダで「わかる」感覚。たった一つの気づきでも、それまで何十年もできなかった動きができるようになってしまうんだから。間違いなく、そこに「ある」という実感も得られるし。
 ネットを通じてどんな知識でも入れれそうな世の中だけど、全部、頭どまりになってると逆に苦痛になる。わかっているのに、なぜ、うまくいかないんだ!って。
 
 うまくいかないのは知識が足らないからじゃない、知識をさらにいれたら、また、やることがふえてしまうもの。世の中は結構単純にできているのかもしれない、今、そんな気がしている。その単純な一つが重力に頼ってみる、って事。
 
 
 
 チェックの仕方は簡単。押してもらったり、引いてもらえばいい。自分が居続けたい場所にいられるかどうか。外からくる力に負けないためにはこちらにも力がいるのだ。これは単純。力の大小だ。ただ、問題は「どんな」力を使うか。ここに重力が使えそうなのだ。
 
 重力って大きいはず。だって、地球の中心から月をひきつけておくような力だもん。そんな大きな力がタダで使えるのだ。電気の力を使うには結構なコストがいるけど、重力はタダだ(笑)。
 
 
 仏教的に人は誰でも救われる、と言われる。そう教えられたとしても、その「根拠」もやっぱり欲しい。単純に言われたことを「信じる」って現代人にはものすごくハードルが高い(笑)
 重力は誰に対しても、どれに対しても等しく、力を与えてくれるもの。あとはそれに乗るか、乗らないかの選択。こういうところを救われる根拠にしてみると、また、気分がいい。
 そして、この先、もっといいアイデアが見つかれば、遠慮なく、そちらへ向かいう。頭で考えていれば、行き先に迷うかもしれない。でも、私には甲野先生に教わったカラダがある。カラダがより、生かされる方へと進めば間違いないのだ。
 
 
 
 難しいことを書いてしまった。とにかく、カラダに感覚があり、それは自分のものになるのだ、と伝えたいのだ。ぜひ、稽古にお越しください。
 
 
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