稽古日誌

甲野先生に出会って。

今日、4月28日は甲野先生の名古屋稽古会開催の日です。
甲野先生の凄さは何といっても、そのライブ感にあります。参加者の方が投げられるふとした質問の中からまた新しい展開が拡がっていく事もしばしばです。
そうした気づきを重ねて、自分自身をどんどんと変化、成長させていける、という事を身をもって示してくれているのが甲野先生だと思います。
参加される方はぜひ、どんどん、思った事、感じた事、考えた事を先生にぶつけてみてください。その質問に対して瞬時に対応する様子はまさに、「武術的」なのですから。
 
 
 
私が甲野先生と出会ったのが1995年。大学を卒業した年でした。
力いっぱい稽古できる場がなくなり、これからどう稽古していこうかと迷っていた時に偶然、目の前に現れてくれたのが甲野先生でした!
以来、18年、ずっと、甲野先生の後を追い稽古を続けてきました。
 
甲野先生はよく「私にはスランプがありません」と言われています。何度も稽古会に足を運んでくださる方はよくお分かりだと思いますが、まさにそうなのです。
事実は小説よりも奇なり、ではありませんが、還暦を数年越えた今でも、どんどんと動きを進化させ続けています。
 
 
 
その「スランプが無い」ということですが、実は後ろを追わせてもらっている私もそう感じられるようになりました。先生と出会ってからの稽古を思い返して見ると、一度も後戻りをした記憶が無いのです。誰でも、自分の身体の動きを進化させていくことはできるのだ、と確信をしています。
 
ブログや講座の中で何度も言わせてもらっていますが、私は子供の頃からずっと、運動オンチだったんです。いや、運動だけではなく、音楽、美術、勉強もほとんど、うまくいったためしがありません。
今、こうして文章を書かせてもらっていますが、作文も大嫌いだったんですから。
 
それが、甲野先生と出会い、武術を通して体の凄さを知り、興味を引き出され、気がつけば、今、この体全体で生きている、という喜びを感じられるようになりました。歳を重ね、常識的には動きが悪くなっていくはずだと思っていたのに、20代の頃にはできなかったこと、いや、やってみようとも考えなかった事が出来るようになってきました。
重要なのは、頭の中だけで喜びを感じられるのではなく、実際にこの身体が「良く動かせる」ようになり、そこから喜びがでている、ということです。
 
 
 
この変化ってなんだろう?なぜ、こんな変化が自分の身に起こったんだろうか?それを考え、伝えたくて日々、考えていますが、まだ、明確な答えは出せていません。ただ、私たちが持っている、この身体は等しく大きな可能性を持っている、という事は確かなようです。
 
ただ、どれだけ可能性を秘めていたとしても、それを発現させる事が出来なくては自信を持とうと思っても、逆に働いてしまう場合もあるはずです。甲野先生に出会う前の私はそうでした。
 
 
 
甲野先生と出会う前と出会った後、なにが違うのか考えてみました。
おそらくその「違い」とは稽古の仕方です。
今でこそ、「稽古」という言葉を普通に口にすることが出来るようになりましたが、最初は自分のやっている事は練習であり、稽古ではない、そう感じていました。
スポーツの練習の延長のような感覚だったんです。
 
言われた事、指示された事をただ、繰り返す。準備体操、基本練習、受身、移動稽古、技の練習、乱捕り・・・、そんなパターンで練習を続けていました。同じメニューで練習をしても、全然、上達しないんです。そしてその理由を自分には才能が無いのだから、仕方がない、と勝手に決めていたのです。
 
しかし、甲野先生が教えてくれた「稽古」には普通の練習にあるものが全く「無い」んです。
 
 
 
ちょっとその変わった稽古法をご紹介します。もちろん、私が勝手に「変だ」と思ったことですが・・・。
 
まず、基本がありません。
どこから、どう手をつけて良いのか分からないんです。
しかし、この手探りな自分に向き合い、動き始める事こそ、稽古への始まりなのかもしれません。
 
指示される事がなければ、自分で「決めて」動かなくてはなりません。
私にとって、なにをしても許されるという環境は「楽」では無かったんです。本当に最初、途方にくれました(笑)。しかし、決める、という事は自分の内面と向き合うことになるんです。手探りでもなんとか、最初の一歩を踏み出したわけです。
 
 
そしてさらに甲野先生の稽古は練習日すらないのです。
武道に限らず、ふつう技芸の教授って毎週、毎月、練習日が決められます。そして、その練習日にあわせて参加し、学んでいきますよね。練習日に休んでばかりいると、だんだん道場に顔を出しづらくなります。当然、練習意欲が無くとも、今日は練習日だからいくか・・・そんな気持ちの時も出てくるはずです。
でも、甲野先生の稽古は「一回稽古制」であり、その日、稽古がしたい、という人だけが集うようにデザインされていました。自らの興味に従い集った人たちが稽古をするのですから稽古が盛り上がらないはずがありません。
 
ただ、その盛り上がり方も不思議でした(笑)
お互い向かい合い、じっと手を握りあう。そして、隅の方では一人黙々と杖を振っている人がいたりして・・・。
稽古に慣れ、一人で稽古できる人たちは主役であるはずの甲野先生を見ていないんです!
甲野先生は名古屋から通う初心者の私のような人のためにいる感じなんですから(笑)
 
さらに、練習時間も驚きでした。
初めて参加した稽古は始まりが2時。そして、終了したのが確か10時ごろでしたから。その間、次から次へと稽古したい人が出入りし、皆、自分のしたい事をしているんです。
 
 
 
今、自分がこうして、自分の身体に向き合い、身体を感じられるようになったのは、間違いなく、甲野先生が考えられた「稽古法」があるからです。
その場にいるだけで、イヤでも上達してしまう稽古法。
甲野先生が立ち上げられた武術稽古研究会という名前の意味を考えてみれば、この稽古の仕方が偶然ではなく、意図して作られていたのがわかりますよね。
 
 
 
カラダラボの稽古は私が驚き、虜になったその稽古法を行うための場所です。
名古屋に戻って見ると、こんな自由な稽古の出来る場所がありませんでしたから。無いのであれば作るしかない、それだけの思いで始めたのがカラダラボです。
 
いったん、自分の身体の声の聞き方が分かれば、いつでもどこでも、自分の身体に目を向けた瞬間が稽古になります。
家にいても、会社にいても、友達と遊んでいても、いつでもです。
必然的に「稽古量」が増えますよね。そうなれば、もう、上達しないわけが無いのです。
 
 
身体の声が聞ける、というのは心の声が聞けるという事です。
自分にとってつらい事、嫌な事に出会った瞬間、それが何よりの稽古材料になってしまうのです。嫌な事に出会った事が、稽古を通してみると、それがきっかけで新しい世界を感じることが出来るようになるんです。
 
こうなると、もう、嫌な事や苦手な事は本当にイヤで避けたい事なのか、よく分からなくなります(笑)。
自分の身体の声、心の声が聞けるようになっていくのに、どんどん、自分が良く分からなくなっていくんです(笑)。
 
 
 
自分が「わからない」というのは自分の中に可能性がありすぎてわからないという事です。普通、大人になればなるほど、自分が出来る事、出来ない事って固まっていきます。たいていの場合、もう、歳だから・・・と、小さくなっていきます。
でも、違うんです。
まだまだ、快適に動く事ができるに違いない、そう思えてくるんです。
そして、それは「私」だけではなく、「身体」を有している誰にとっても、です。
 
 
 
甲野先生の稽古会の世話人として、皆さんと先生との縁をつなげ続ける事こそ、先生から受けた恩の返し方だと思っています。ぜひぜひ、この出会いが皆さんの刺激になり、人生を楽しく愉快に過ごそう、と心に決めるきっかけとしてください。そのための応援はしっかりさせていただきますからね!
 
 
甲野先生の講座に飛び入りでも参加したい!という方は jun@karadalab.com までメールをください。お返事いたします。
会場等はこちらから確認してください。

興味を引き出す方法

昨日の土曜日はコミュニティサロン西春での稽古と夕方から大人の武道塾。
同じ事を同じように伝えているつもりですが、なぜか西春はいつも人が少ない。もし、じっくり身につけたい、という人がおられれば、西春はおすすめです。
ただ、少人数がいいのか、大勢の中での稽古がいいのか、といえば実はよくわかりません(笑)

 
 
というのは、私自身、甲野先生から手取り足取り指示をされながら教わった感じではないから。それでも、なんども、手を握らせてもらい、抵抗し(←これ、大事!)、崩され、倒される経験が何よりの刺激になりました。
少人数であれば、技をカラダでなんども経験できる良さがあります。
 
しかし、少人数だからこそ、つい、講師にべったりとついていまい、「自分の」稽古が出来なくなる事も。先生の話を聞く、という勉強の仕方に私たちは慣れていますから、つい、依存しちゃったりします。
大勢いれば、自然と、私の手も、目も足らなくなります。自然に稽古は自分の中のやりたいことが主になるんです。なにかが出来るようになれば、仲間に教える機会も出てくるでしょうし。結果的に自発的に練習出来るようになってしまうことも・・・。
まぁ、長所即欠点といいますからね、いいところを見ればありがたくなるし、悪いモノをみれば、ココロが汚れるだけです。そして、これに気づくことも経験でしょうか(笑)。
 
 
 
考えてみると、甲野先生は「稽古」というものを改めて考えさせてくれた人です。そもそも武術稽古研究会というネーミング自体がもう、すごいです!稽古の仕方を研究されていたんです。
稽古というとなじみが無い方もいるでしょうから、練習とか、勉強と考えてもらっても良いと思います。なにを勉強するのかよりも、どう勉強するのか、といったところなのかな。
 
そうだと仮定すると、甲野先生は勉強そのものの楽しさを教えてくれたと言えます。
強制されて勉強するよりも、自発的に、興味を持って勉強した方が成果が出るのはわかりすよね。
しかし、それが分かったとしても、「興味を出す」というのは簡単ではありません。しかし、甲野先生はそれを見事に引き出してくれました。勉強嫌いな私を勉強大好きに変えてくれたんです。
 
 
 
おそらく誰にとっても、自分自身のカラダは大切なもの。でも、その大切なモノを見失ってしまい、あきらめてしまっていたのが私です。しかし、そのあきらめてしまっていたこのカラダにまだまだものすごい可能性があることを教えてくれたんです。自分の中にも可能性がある事が分かってしまえば後は掘り出すだけです。もう、時間のある限り練習するのも当たり前かもしれません。
 
 
 
次の日曜日に甲野先生の名古屋講習会があります。
3時間、とにかく、甲野先生をじっくり楽しんでもらいたいと思います。
この3時間、空気を共にすることで、自分の中の興味が引き出されるかもしれません。なにもかわらないかもしれません。
ただ、「普通ではない」経験が出来ることは確かです。もっともっと自分の中の興味を見てみたいという人はぜひ、ご参加ください。
申し込みはこちらからできます。

【稽古日誌】つかみの話

火曜日は大垣中日文化センターにて体験会でした。大垣の中日文化センターも何クール目になるのかなぁ。毎回、新しい人達との出会いがあり、伝えることの難しさと楽しさを感じています。

今日の体験会、一番新しい研究の成果である「浮き」と「武器とり」をしようかと思ったんですが、最初のつかみの話が盛り上がってしまい、気がつけば、時間ギリギリまで、そのつかみの話で終わってしまいました。

つかみの話って骨を廻す、という話です。
手を上げる動作って誰でも出来ますけど、その上げ方が「よくない」って知っている人って多くないよ、って話です。

それは体の専門家、治療家の方でもそう。実際の患者さんへの治療ではもちろん、有効で負担のない体の使い方を指示してると思うんです。でも、「自分の体」に関していえば、ずいぶんと負担をかけてるんです。

骨の構造なのか、筋肉の構造なのか、正しいことはわかりません(笑)。だって、誰に教わったものでもないんですから。武術の稽古を通して、有効なモノを探していったら、その動かし方が見つかったんです。

手を上に上げるとき、つい、肩に力を入れて、まっすぐ上げてしまいます。確かに、これで手をあげる事はできます。スイッチを押すぐらいならこれでいいかもしれません。でも、大きな力は発揮できません。

手を上げる時、まっすぐではなく、「回旋」させながらあげるんです。内旋でも外旋でも良いんです。腕の旋回をつなげていくようにして上げていきます。すると、背骨と腕の骨の位置関係が繋がるんでしょうね。そこに強さが生まれてきます。

現代のように自分の身体を使わなくても仕事が出来る時代にはいらないように思えるかもしれません。でも、私たちの身体が私たちの心を動かします。身体に強さがあれば、ストレスにやられる事もないですが、そこの関係を忘れてしまっているんです。

スピリチュアルなものが求められる時代ですから、心身一如と多くの人が言葉にしていますが、実際に身体を感じ、心との繋がりを認識してはいません。
なにか、自分にとってイヤなこと、問題な事を解決しようとするとき、身体に解決策を求める人って少ないです。

しかし、なんといっても、身体と心は一つのモノです。次元が違って見えるとか、そんな感じ何でしょう。身体が快適になれば、心は「絶対に」快適なはず。そして、逆に、身体が弱っているのに、心が幸せってあり得ません。

心は形として見えないものです。感じるもの、なのかもしれません。
でも、体はここに、目の前にいつもあるものです。見方さえわかれば、目の前はすごく、明るくなりますよ。

骨を廻すというつかみの話はもう、何年も前に見つけた動きです。見つけた当初は驚きと共に、それを練習もしましたが、骨の構造って、ずっと昔から、変わらないんです。
知らないだけで、この体の可能性を使わずして暮らすのって、もったいないです。もっと、もっと、欲をもって、自分を信じてみたらいいのになぁ、なんて。

ではでは。
また。

【稽古日誌】つかみの話

火曜日は大垣中日文化センターにて体験会でした。大垣の中日文化センターも何クール目になるのかなぁ。毎回、新しい人達との出会いがあり、伝えることの難しさと楽しさを感じています。
 
 
 
今日の体験会、一番新しい研究の成果である「浮き」と「武器とり」をしようかと思ったんですが、最初のつかみの話が盛り上がってしまい、気がつけば、時間ギリギリまで、そのつかみの話で終わってしまいました。
 
つかみの話って骨を廻す、という話です。
手を上げる動作って誰でも出来ますけど、その上げ方が「よくない」って知っている人って多くないよ、って話です。
 
それは体の専門家、治療家の方でもそう。実際の患者さんへの治療ではもちろん、有効で負担のない体の使い方を指示してると思うんです。でも、「自分の体」に関していえば、ずいぶんと負担をかけてるんです。
 
 
 
骨の構造なのか、筋肉の構造なのか、正しいことはわかりません(笑)。だって、誰に教わったものでもないんですから。武術の稽古を通して、有効なモノを探していったら、その動かし方が見つかったんです。
 
手を上に上げるとき、つい、肩に力を入れて、まっすぐ上げてしまいます。確かに、これで手をあげる事はできます。スイッチを押すぐらいならこれでいいかもしれません。でも、大きな力は発揮できません。
 
手を上げる時、まっすぐではなく、「回旋」させながらあげるんです。内旋でも外旋でも良いんです。腕の旋回をつなげていくようにして上げていきます。すると、背骨と腕の骨の位置関係が繋がるんでしょうね。そこに強さが生まれてきます。
 
 
 
現代のように自分の身体を使わなくても仕事が出来る時代にはいらないように思えるかもしれません。でも、私たちの身体が私たちの心を動かします。身体に強さがあれば、ストレスにやられる事もないですが、そこの関係を忘れてしまっているんです。
 
 
 
スピリチュアルなものが求められる時代ですから、心身一如と多くの人が言葉にしていますが、実際に身体を感じ、心との繋がりを認識してはいません。
なにか、自分にとってイヤなこと、問題な事を解決しようとするとき、身体に解決策を求める人って少ないです。
 
しかし、なんといっても、身体と心は一つのモノです。次元が違って見えるとか、そんな感じ何でしょう。身体が快適になれば、心は「絶対に」快適なはず。そして、逆に、身体が弱っているのに、心が幸せってあり得ません。
 
 
 
心は形として見えないものです。感じるもの、なのかもしれません。
でも、体はここに、目の前にいつもあるものです。見方さえわかれば、目の前はすごく、明るくなりますよ。
 
 
 
骨を廻すというつかみの話はもう、何年も前に見つけた動きです。見つけた当初は驚きと共に、それを練習もしましたが、骨の構造って、ずっと昔から、変わらないんです。
知らないだけで、この体の可能性を使わずして暮らすのって、もったいないです。もっと、もっと、欲をもって、自分を信じてみたらいいのになぁ、なんて。
 
 
 
ではでは。
また。

【稽古日誌】太刀「獲り」

これまで、父は少林寺拳法名古屋緑道院、私は愛知大府道院を道院長として引っ張ってきた。その元気だった父が急に亡くなったことで、名古屋緑道院も私が引き継ぐ事になりました。

当然、いつかは…と考えてはいましたが、まだまだ、先だと思ってましたし、古武術の方もどうすればもっと、身体が生きることの意味を感じさせてくれるもの、だと伝えられるか模索していましたので、本当に予想外です。

名古屋緑道院の指導を引継ぎ三週間、ついつい入ってしまう気合い、いや、気負いかな、そんな力みに家に帰ってくると、バタッと倒れてしまいます(笑)。

子供たち、仲間たちを相手に少林寺拳法を修行するのは、もちろん、楽しいこと。身体を動かし、稽古をしていれば、自然と、元気にもなりますし。ただ、まだまだ、無意識に力みがあるんでしょうね。こうしたブログや新しいウェブサイトの方になかなか、時間がさけませんm(_ _)m。

それでもなぜか、技の研究、身体感覚の新発見は止まらないんです。いや、むしろ、加速している気が。会う人会う人に不思議がられるのは、全然落ち込んでいない様子だからでしょう。親不孝何ですかねぇ(笑)
でも、本当にこの武の道に導いてくれたのは父と母のおかげですから。悲しみ、寂しさよりも、感謝の気持ちの方がいっぱいなんです。

改めて、ここ数日の発見を書かせてください。自分で言うのもなんですが、ものすごいんです(笑)
昨年稽古納めで偶然気づいた肌の感覚。そこから、浮きの大切さ、重力に縛られている事に気づき、工夫を重ねてきました。

そこで見つけたのが、形の力です。
ついつい、力というと、体の中からでてくるものだと考え、それを鍛え、出していくことに頑張ってしまいます。きっと、それは、筋肉の力。わかりやすいですもんね。

でも、その筋肉の力はいずれなくなる力ですし、そもそも、出し続ける事のできない力です。
しかし、現実に相手を崩すとなると、その筋肉の力を使わずして崩す事はできませんから、みんな、仕方なく、それを鍛え、求める事を止められないんです。

それがどうも、肌の感覚が高まってくることで、私たちの体には、もう一つ、形の力があることに気づいたんです。
もちろん、気づいた、というのは、崩すのにも使える、という事ですよ。頭でだけではありませんので。
しっかりと抑えられ、つい、力を必要と考えてしまう時にも、選択肢として、形から力を取り出す事ができるようになりました。

具体的に技になったのは先々週の金曜日。突然、相手の抱えている剣をヒョイと取り上げる事が出来たんです。
それまでは相手の武器を取り上げるだなんて、考えたことがなかったんです。だって、しっかりと、警戒をしている相手から武器を取り上げる事なんてできない、と思っていましたもん。

もちろん、当て身などを使って取り上げる、という選択肢はあります。しかし、それを技として身につけるには相当の訓練が必要です。
でも、その技のために時間を費やしてようやく身につく、ってのは、古武術的上達とは違う、と考えていますから。

私の考える、古武術的上達は体の中にそれを簡単に行えるなにかを見つける事だと思っています。
出来ない、とは出来ないと思っているからなんです。むしろ、出来るときには出来ないことの方を考えられなくなるから、出来てしまうのです。

今回、まさに、それを実感する事が出来たんです。
というのは、剣を取り上げるだなんて、出来るわけないと思い、全く期待もしていなかったんですよね。それが、たった一つの気づきで、ヒョイと取り上げる事ができるようになってしまうだなんて…、マンガみたいです(笑)

この歳になって、こんな刺激を味わえるんですよ。なんか、本当に不思議です。

具体的に言葉にしておきますね。また、動画なんかは改めて。
まず、ポイントは相手の持つ剣を動かす方向です。先に筋肉の力ではなく、形の力だ、と言いました。この時に刀を動かす力は筋肉ではなく、刀そのものが持っている力のような気がします。

相手の剣を掴めば当然、相手はそれに抵抗し、もみ合い、全力で綱引きが始まります。この時、筋肉の力が出やすい方向があるんです。それは、相手と剣を取り合ったとき、前後の方向なんです。ついつい、その前後の方向で刀を取り合ってしまうんですね。

しかも、私たちの感覚って、結果敏感じゃないですか?
前後に動かさないように、といしきをしても、つい、動いてしまうんです。そのわずかに動いた瞬間を相手も見逃しません。しっかりと、抵抗され、もみ合ってしまうのです。

ですから、形の力に気づかなくてはいけないのです。筋肉の力はもう、捨ててしまってください。
剣をつかみ、取り合いをするのをまず、やめます。
指先に意識をして、剣の表面を切っ先の方向へと引きずります。この時、指先だけが滑るように動くのではなく、指先に摩擦を感じながら、抑え込まないように、表面を引きずります。

すると、形を持つ刀ですから、その引きずられた瞬間、刀の柄の裏側の表面も動くんです。その動きを加速させるように、もう一方の手の指先で押し出して見るんです。

すると、その両手の動きのおかげで、剣の中心に軸が出来、回転が始まるんです。このいきなり動く横方向への回転により、相手は剣をつかみ続けることが難しくなるんです。

多少粘り強くても、回転重ねたり、体も加速に協力出来るようになると、まさに、ヒョイという言葉が似合うような技になるんです。

これを中学生、小学生、そして、保育園の子にも伝え、試してもらうと、気持ちよく刀を取られて、それも、楽しいんです。
大の大人が何十年もかけて出来ないのは、不可能な技でも、才能を必要とする技でもなく、ただ、原理に気づいていないだけなんですよね。

また、ゆっくりと書きたいと思います。よろしくお願いします。