稽古日誌

稽古はあきらめを消してくれるもの。

暑い日が続く。
それでも、山に登れば気温がぐっと下がり、気持ちよく過ごせる。
毎年、暑いこの時期は奥さんの実家の山奥に引きこもったりするんだけど、今年はその山も暑い(笑)。
 
 
 
しかし、こんな暑くて気持ちがイライラするときこそ、「稽古」なのだ!
 
とはいえ、その「稽古」は道衣を来て、道場に立ち、剣を振る稽古ではない。
周りから見れば、「だらだらしている」ように見えるかもしれない「稽古」なのだ(笑)。
 
今日はその「稽古」について考えを書いていこう。いつものように、まとめてあることではないので、ちゃんとしたゴールに行かないかもしれない。あしからず。
 
 
 
今、私の行っている事、その全ては甲野先生のモノマネだ。それまで持っていたありとあらゆる常識を壊してくれたのが甲野先生。そして、その練習方法がぴったりと自分に合ったんだと思う。
なんと言っても大きな変化は練習への向かい方だった。
 
稽古という言葉は少し重い。つい最近まで自分の行っているのは稽古ではなく、練習なんだ、と思っていたぐらい。
でも言葉が変わるから、自分への向き合い方も変わってくる。だから、ぜひ、みんなにも「稽古の習慣」を身につけてもらいたいと思っている。
 
 
 
甲野先生の稽古はいつでも、どこでも、どんなときでもだ。
道場でだけはなく、喫茶店でも、居酒屋でも、車の中でも、手を合わせてくれる。
もちろん、そんな環境ではドッタンバッタンな動きは出来ない。そっと手をあわせ、動かすだけだったりする。
そんな小さな動きも甲野先生にとっては稽古なのだと思う。
 
そう、大切なのは稽古しているのは甲野先生なのだ。
技をかけられ稽古を付けてもらっている人は、ただ、かけれられているだけだったりする。
だって、そんな場所でなにを学べばいいかだなんて、教わったこと無いもん。
 
 
 
技は盗むもの、とよく言われる。
しかし、学校教育のおかげで盗まなくても、私たちは知識を得られる事を知ってしまった。
たくさんの知識を得ることには成功したが、なにかを自分の力で盗み取る力は失えてしまったのだ。
 
 
 
甲野先生は「気づく力」が自分にもある、という事を教えてくれた。
 
 
 
仕事でも子育てでも、人間関係でも、なにをやるにしても必要なのは「気づく」という事。今はこれが幸せに暮らすためには絶対に必要なものだと思っている。
たくさんの機械やサービスで私たちの生活は格段に楽になっている。
ちょっとした困ったことも、どんどん解決していってしまう世の中だもん。
 
でも、なかなか悩みはゼロにはならない。
むしろ、どんどん、細かく、個人的な悩みに向かい、解決策がないように思わされてしまう。
どんなに豊かで便利になっていて幸せそうに見えたとしても、心の中に解決できない人は幸せな人とは言えないだろう。
 
多くの人が正しい、と向かっている先にあるのが絶望だったら怖いな・・・。
 
 
 
武術の稽古は時代とは逆行している。
現代ではルールを決め、そのルールの中で勝敗を求める。ルール違反で勝ちを得たとしても、それが明らかになってしまえば、勝ちは剥奪、失格になる。それがスポーツだ。
 
しかし、武術は違う。
いつも、自分にとって、大変な場面を用意するところから始まるのだ。
相手が武器を持っていて、こちらが持っていない。相手が不意に攻撃を仕掛けてくる。こちらは一人なのに、相手はたくさん・・・そんな理不尽な状況も稽古となれば、受け入れるしかないのだ。
 
この時、武器を強くして対応する、というのは子供にも分かる考え方。相手が素手なら刀で、相手が刀なら、拳銃で・・・。
でも、それはどこまでいってもイタチゴッコになり、終わりはきっと、破滅だ。
 
 
 
相手を変える事で状況を解決するのではなく、自分自身を見直して、解決をする、それを求めているのが武術だ。
そうなると必要なのは自分自身を見直すこと。
ダメだと思っていることは本当にダメなことなのか、自分が今、恐れを抱いているのは何に対してなのか、とにかく、自分自身を見続けるのだ。
 
 
 
考えてみれば必ず答えはみつかる。
 
きっと、そのことを僕らは忘れてしまったのだろう。
自分なんかがなにかをしても、変わるはず無い、そうあきらめてしまう癖を付けてしまったのだ。稽古を習慣にすることが出来ると、どんな時にでも、たくさんの気づきを得ることができるようになれるのだ。
 
 
 
今、こうしていろんな事を書かせてもらっているけど、私自身はとにかく自己肯定度がまるっきり低い人間だった。自分には才能なんてまるでない、そう思っていたから、困った状況で自分に頼る事なんてまったくしてこなかった。誰かの助けを待つばかりだったもん。
 
 
 
そんな性格を変えることができたのが「稽古」だったのだ。
ただ、手を上げるという単純な技の稽古を繰り返すことによって、気がつくと、自己観察が「癖」になっていた。
なにか「技」を身につけ変わったのではなく、自分への向き合い方が変わったのだ。
 
 
 
うまく行けばなぜうまく行っているのかを感じ、失敗したときにはなぜ、うまく行かないんだろうと身体の中を探る。
すると、自分の体の中にそれまで気づくことの無かった「感覚」を見つけることが出来ることがわかる。
 
 
 
こうなってくると、目の前の失敗、成功ってちょっとどうでも良くなる。常に、自分自身との感覚との問題だから。
 
ただ、これは普通の感覚からするとギャップがあるみたい。まぁ、変な人に見られるってリスクがあるって事(笑)。
 
 
 
どういう事かと言えば、うまく行っているのに、じっと考え込み、喜ばない、失敗しているのに、自分の中で新しい感覚に気づいちゃったりすると、心底喜んだりするんだもの。
周りの人からの理解は得られにくいかもしれない。
 
 
 
でも、こうした事が自分の身体の声を聞く訓練となり、気づいていなかった多くのメッセージが身体から出ていたことが分かると思う。
 
その身体からのメッセージに耳を傾ける作業こそ「稽古」なのだ。
 
 
 
仕事が忙しくなり、運動できない、と言う人がいる。
ケガをして運動できない、という人もいる。
いろんな事情で思い通りの練習時間が持てないらしい。
 
でも、それは勘違い。どんな時にも「稽古」になるのだ。
 
 
 
今、座ってこのブログを書いている。
すると、時々、腰が痛くなる。その瞬間、腰の感覚が気になって仕方なくなるのだ。
少し背を伸ばして、腰を楽にする。すると、ちょっと緩むのかまた、ブログに集中できる。
 
でも、また、腰が痛む。
こんな事を繰り返している間に、腰が痛む感覚は短くなり、慢性的な痛みに変わる。
痛いモノを痛くないと思いこむという力を人間は持っているので、慢性的になってくれば感覚を鈍くして、気にしないようにさせるんだけど、これをしてしまうと、どんどん身体は鈍いものになってしまうのだ。
 
一時は良いのかもしれないけど、いつか、それも効かなくなり、どっと痛みが戻ってきたりする。
 
 
 
身体から出てくる痛みは全て感覚。その感覚を手がかりにすることで、それまでの動き方とはまったく違った動き方を手に入れることが出来るのだ。
 
間違えてもらいたくないのは、動き方を変えることであり、鍛えるのではないという事。
例えば腰痛で言うと、筋肉をつけることで痛みは抑えられるかもしれないけど、それは対処療法、もともとの原因を変えてしまうのだ。
 
 
 
今気にしている事、それは股関節。
最近のブログにもたくさん書いているけど、股関節はキャスターの構造をもち、自分の身体の重さから生まれるストレスをぴったりと流し、腰に負担をかけないようにしてくれる。
 
 
 
腰の痛みが出て来た瞬間、そこに「腰」が有ることがわかる。
丁寧に観察をすれば何番目の腰椎なのかもわかるだろうけど、いいんです、気にすることの出来なかった腰に感覚が生まれている、という事が分かれば。
 
 
 
きっと、今の自分の腰が自分の重さを支えきれなくなったことで痛みがでているんだろう。
じゃあ、それを股関節に任すことが出来れば腰は楽になるはず。
でも、思っただけではこの腰の痛みはなくならない。なぜだろう?
 
それは股関節に感覚がないから。
股関節がどこにあり、どうなっているのかがよくわからないから。
 
 
 
この時事典を調べて、股関節の構造を学ぶこともいい。ただ、私はそれ、ダメだった(笑)。
知識で股関節のことを学んでも、実感がないままでは痛みという実感を持つ腰に負けていたから。
必要なのはいかに、経験値を増やすか。
腰に負けないぐらいの経験を股関節にも作ればいい。
 
  
腰の痛みを手がかりにしながら、その痛みが気にならなくなる座り方はないんだろうか・・・とごそごそしたり、目を瞑ったり。
とにかく色々試すのだ。
 
 
 
こう書いていくと、そのうち腰の痛みが気にならなくなる座り方が見つかりそうな気がするかもしれないけど、そうは簡単にはいかない(笑)。
むしろ、もっと痛くなったりする。
簡単にうまく行くんだったら、きっと、たくさんの人がもう試しているはず。
 
楽な座り方が見つかるかと言えば、簡単には見つからない。だから、あきらめちゃう。
 
 
 
これは武術の稽古でもおなじ。
今、自分が出来ない状況を何とかしようと稽古するとき、色々試しても、まず、うまくいかない。何十年もダメだと思っていた状況が簡単に壊れるってなかなかアタマが信じないからだ。
今のこの時点はなにを試したとしても、自分の中に「あきらめ」が有る以上、なにも変わらない。
 
 
 
実は稽古は「あきらめ」を何とかしてくれるもの。
私たちはつい、目の前の困難を自分には無理、と思ってしまいます。周りにいる人は簡単にあきらめるな、君ならできると声をかけてくるけど、たいていの場合、無理無理とあきらめがやってくる。
  
 
 
一見、強固にみえる「あきらめ」だけど、出来てしまうと簡単に壊れてしまうのもあきらめのもう一つの側面。
出来た、という経験があると、今度はなにか違う条件が出てこない限り、あきらめはでてこない。むしろ、出来ることをあきらめてみよう、と思っても、無理(笑)。
 
 
 
この「あきらめ」を消す唯一のものが「経験」。自分には無理、と思っているアタマの中を変えるには出来るかもしれないと思える経験を積み重ねていくしかないのだ。
 
でも、ちょっと考えて欲しい。
今、自分の生活ってガラリと変わる事ってあるだろうか?
ほとんどの場合、昨日と同じだ。
何十年も前と比べれば格段に変化している生活も、毎日の積み重ねとなると、その変化には気づきにくいもの。
ついつい、昨日と同じ、という気持ちが強くなってしまっているのだ。
 
 
 
稽古ってのは自分の身体を改めて感じさせてくれる小さな経験。
座り方一つでも、ずっと、それを考えることで、いつか、峠を越える。
今、私の中にあるのは完璧に楽な座り方ではなく、峠を越え、いつかそのうち、楽な座り方を手に入れられるはず、という明るい未来だ。
股関節に任すことで、それが叶うはず、という自信がある。
 
 
 
実は現代は小さな経験すら難しい時代になっている。
どこに行ったとしても、人の手が入り、楽になっているから。
そして、ついつい、人は楽な方へと行きたくなるし。
 
 
 
 
だからこそ、稽古の習慣を自分のモノにして欲しいのだ。
同じ場所、同じ仕事をしたとしても、実は、毎瞬毎瞬、この身体は微妙に違う反応をしている。そういう事に気がつくようになると、毎日は退屈な連続ではなく、ちょっと楽しいモノに変わってくる。
 
人には同じ習慣を続けたい、という本能が有るみたいだけど、同時に、ちょっと変わったこともしてみたいという欲求があるはず。
そのちょっと変わったことをしてみたいという欲求を安全にさせてくれるのだ。
 
まさか、イスにゴソゴソしながら、稽古しているとはなかなか思われない。
そして、時々、気づきがやってくる。
その気づきはそれまで、求め続けてきた人だけにやってくるモノ。
どこにもその気づいたことが「正しい」と書いてなくても、自分の中に確実にこれでいい、という確信があるもの。
 
 
 
汗がボタボタ落ちる暑い日もじっと自分の内面に目を向けると、いろんな事を試せる稽古になる。
今、試しているのが顎。下顎をぐっと上に押しつけてみると、暑さがマシになったりするのだ。原因は分からない。気持ちの問題なのかもしれない。でも、気持ちを顎で変えられるのなら、遠慮なく使わせてもらう(笑)。
 
 
 
きっと人間って退屈が嫌いなんだろう。
どんなに便利になっても、退屈に縛られると、生きていく気力がなくなっちゃう。
こんなに便利でご飯も食べられる時代なのに、自ら死を選ぶ若者が後をたたない理由も退屈と無関係ではないはず。
自分自身、甲野先生に出会う前は楽しさを探しに、いろんなところに出かけた。家電もすきだったから、新製品を見てワクワクもした。
でも、外に有るものって無限に進化するものではないから、いずれ、限界に近づき、退屈がやってくる。
 
 
 
でも、身体感覚ってほぼ、無限。掘り下げれば掘り下げるほど、驚かされる。
なにも生活は変わっていなくても、その瞬間を楽しめられるようになるのだ。
 
 
 
みんな、誰でも、自分の身体に目を向ければ無限の楽しさが手に入るのだ。
その楽しさを持った上で、仕事でも子育てでもやってみたらどれだけ楽しいことか。
正解なんてどこにもないからこそ、これでいい、って確信が欲しいのだ。
確信は外に頼るものではなく、自分の内側に見つけるもの。
毎日の生活全てを稽古に出来たら、変わらない自分になることの方が大変。
 
10年後、20年後の自分は絶対に今よりも楽しい。稽古を通してそれを確信することができた。
自分自身に気づいてもらいたい、今、まだそれは困難なこと、と僕は感じている。でも、だからこそ、色々試し、工夫し続けるのだ。きっと、いつか、誰にでも自分を信じる事ができると、伝えられるようになれるはず。
 
 
 
 
そうだ、そう感じられるのはもう、すでに、それを受け取ってもらった仲間がいるからだ!
ありがとうございます・・・。
 
 
 
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稽古、講座の予定
8/24 大人の武道塾【浜松】
8/25 大人の武道塾【名古屋】
9/22 甲野先生の講習会【名古屋】
9/23 甲野先生の講習会【浜松】
 
会場、時間などはホームページで確認してください。
問い合わせは全て karadalab@gmail.com まで
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手指は掴み取るもの。股関節、肩甲骨は移動するもの。

手指のキャスターと股関節のキャスターの役割分担について分かってきたことがあるので、言葉にして残しておきますね。
 
 
 
股関節や手指の第三関節はキャスターのような構造を持っていて、外からの力、つまりストレスに対して、自動的にバランスを整え、受け流してくれる事がわかり、それに伴い、動きの質も格段によくなりました。
 
当初、股関節のキャスターも手指のキャスターも同じキャスターなんだ、と考えていて、どこの部分であっても、キャスターが一つでも地面についていれば、自分の身体のバランスが整えられるんだ、と理解していました。
 
もちろん、これは間違いではなく、実際に相手に押されたときなど、股関節で力を受け止めても、手指で受け止めても同じように、相手の力に身体を力ませることなく、受け止める事が出来るようになります。
その時、股関節を働かせるよりも、手指の方がなじみが深いだけに、やりやすいな、と思うぐらいだったんです。
 
 
 
しかし、手指のキャスターが細かく動かし、制御できることが分かってきて、相手との間に「ズレ」があることが分かってくると、この手指と股関節は根本的に目的が違っているのだ、と思うようになりました。
 
 
 
コイン取りという遊びがあります。
手のひらの上に乗せたコインをこちらが取り上げる、というシンプルな遊びです。
遠慮なく、取り合う、という事で特にルールは決めません。むしろ、取られてしまったら、今度は取られないように、厳しくしていく、という風に考えていきます。
 
遊びですから相手に遠慮はありません。
最初、不慣れで取られていても、そのうち、だんだんと取りにくくなって行くものです。
 
この手をいかに速く動かすか、しかも、気配なく。
どんなに速く動くようになっても、気配が出てしまえばなんともなりません。静かに、速く、という矛盾した動きを学び、試せるのがコイン取りです。
 
 
 
身体を速く動かす方法はたくさん、あります。それこそ、人それぞれ、コツを持っているものです。
私自身もこれまで、たくさんの事を考え、そして、捨ててきました。
きっと、また、動きは変わるでしょうが、聞いてください。現時点での一番の工夫を。
 
 
 
 
股関節と手指の働きが違う、と書きました。
ゲームセンターにあるクレーンゲームを思い出してください。
 
移動して、掴む。
 
二つの違った動きがあり、ぬいぐるみなどの景品を取り上げることが出来ます。
どんなに正確な場所へとクレーンを移動しても、掴む力が弱ければ取れませんし、どんなに掴む力が強くても場所が違っていれば取れません。
 
 
 
ゲームではあたりまえの事も、自分の動きとなるとなかなか冷静に分析ってできないものです。
手を動かし、試し、想像しながら聞いてくださいね。
 
 
 
ちょっと前のブログに、手指のキャスターが使えるようになると、手自体が移動する事ができる、と書きました。
それは、間違いないことですが、せっかくこの身体があるんです。役割を分担することでより、素早い動きができるはずです。
 
今日は手指のキャスターが掴み担当、肩や腰が移動担当、と考えてみることにします。
普通に考えれば、まず、コインの位置まで手を動かしますよね。
そして、次に、指を使って、つまみ上げます。
たった、これだけの動きなのに、「敵」がいるだけで、難易度はけた違いにあがってしまいます。
 
 
 
なぜなら、動いた瞬間、気配となり、相手に認識されてしまうから。
ようやくたどり着いても、もたもたコインをつかみ取ろうとしている間に相手に防がれてしまうんです。
 
 
 
この問題に対して、動き方を「逆」にしてみました。
まず最初に行うのは、コインを掴む際の手指の角度をそろえるんです。
 
指は不思議で、届いていないにも関わらず、コインを取ろうと想像すると、そこになかなかのリアリティで想像できるモノなんです。
しかも、実際に対象であるコインは目に見えていますしね。
 
 
コインと指との角度を整えると、そこに安心が生まれます。
この手がコインにまで届きさえすれば、もう、なんの苦労もなく、ただ、掴めばいいのですから。
 
 
 
どうやら、無意識の中で迷いがあったみたいです。
せっかくコインにまで手が伸びても、そこから指を使ってつまみ上げるとき、取れないかも・・・と思ってしまっていたんですね。
角度的にずれていたからです。
その角度が整い、最短距離でのつまみが出来るようになると、迷わず、コインに向かっていけます。
この手、身体の具体的な速さの問題よりも、アタマの中に出来てしまう迷いのロスの方が大きかったようです。
 
 
 
まず、最初に指を整える。
そして、移動。
 
 
順番を変えただけなのに、気配は消えるし、速さもあがってきているようです。
気づき一つで世界が変わる、それを体感するには面白い遊びではないかなぁ、と思います。
お試しあれ。
  
 
 
 
実は、これ、すごく大切なことだと思っています。
例えば、仕事でなにかをしよう、と考え、計画を立てたとします。
まずは目標にたどり着くためになにが出来るか、とがんばるでしょう。
おおざっぱな目標でも、近づくところまではいけるはずです。
 
ただ、実際には良いところにまではいけても、つかみ取ることが出来ない人はたくさんいます。
じつは、これ、先ほどのコイン取りと同じ事が起こっているんです。
良いところにまで行っても、最後の最後のつめをイメージできていないために、つい、迷い、考え、チャンスを逃してしまっていたかもしれないからです。
 
 
最後のツメをちゃんと、イメージできていれば、チャンスが来た瞬間、逃さず、それを生かせられますから。
 
 
 
手指の役目は最後のツメです。
つかみ取ることそのものです。
それに対して股関節や肩甲骨は移動です。
動物は移動するものです。
私たちは手指を進化させ、より、細かく動かせるようになった存在じゃないですか。
ちゃんと、その進化された部分をまず、活かして、後は移動したり、流れに乗っていれば、望むもの全てをつかみとる事が出来るかもしれませんよ。
 
 
 
・・・夢が広がっちゃうな(笑)。
 
 
 
暑い日が続きます。体調にはお気をつけください。
ありがとうございました。

他者との角度

今日は他者との「角度」についてお話しします。
 
 
今、自分のカラダでリアルタイムに見つかっている事なので、まだ、うまく言葉になっていません。ただ、それでも、自分の感じ方一つで、ありとあらゆるモノとの「関係」が自分が原因でこじれていたのかもしれない、そう思うようになりました。誰にとっても大切なことだと思いますので、感じていることをそのまま、ありのままお伝えしておくのもいいかな、と書き留めておきます。
 
 
 
手指のキャスターを見つけ、この「手自体」が動ける事に気づきました。これは、以前、カラダの中に親子関係がある、と言いましたが、末端である孫(手)が自分で自立し、生きていけるようになったかのような感じです(笑)。
 
動くと言うことは「目的地」があります。たどり着く先があるんです。考えてはいなくても、たどり着いてしまえば、そこがゴールだとわかります。
すると、そのゴールに着いた瞬間、「ずれている」事が気になるようになったのです。
 
 
 
武術っぽく、突きでお話ししましょう(笑)。
手を相手の顔面に向けて放つ。これが突きです。
いかに気配なく、威力を乗せてつくのか。武術家はそれに一生をかけています。理想的には(笑)。
 
相手と自分との間にあるのが「間合い」です。相手との距離を縮めるために移動するんですが、これまで移動は身体、脚の役目でした。腰をねじったり、脚で身体を押し出したり、肩を入れたりして間合いを消す努力をしてきました。
 
この時、相手を斜めに見てしまうと、突きが遅れますし、気配がばればれで、役に立ちません。相手の正面に立ち、突く、当たり前の事です。
 
 
 
腕や身体で突くのであれば、これでいいんですが、手自体が動けるようになってくると、手と目的地の関係が重要になりそうです。
 
どんな場所からでも、手が、気配なく、飛ぶ。これは非常にメリットのある新しい突き方ですが、ここにも相手のとの間に角度のずれがあったんです。
この時、手指のキャスターを利用して、まず、相手との角度をあわせます。すると、その後のずれを気にすることなく、ただ、飛ばせばすむようになります。
 
 
 
どうやら、私の無意識は分かっていたみたいです。
このままでは、ずれてるよ、というのが。
角度をあわせた瞬間、心に余裕が生まれてくるのを感じました。
やれることはやっている、そういう自信です。もし、これで交わされたりしても、悔いがない感じです。だって、今、その瞬間の突きが「今までの」自分の中で一番の突き方だってわかっているから。
 
 
 
自分以外のものとの間にズレが見つかり、気になりだしてみると、今度はそれを整えざるをえないようになってきます。
例えば目の前のペットボトルをとるとき、それまではただ、手をペットボトルまでのばせば良かったのが、それでは、余分に力が必要だとわかったんです。
ちゃんと角度をそろえて出すようにすると、触れた後、ほとんど、力むことなく、ペットボトルを扱うことができるようになります。
 
 
 
日本には「お作法」がたくさんあります。そのお作法は現代のような効率、成果重視の世の中では建前的な立場になっています。
しかし、これは私たちの祖先が作り出した機械に頼らず、自らの力で生きていく知恵だったんです。
この機械やコンピューターだらけの世の中にあっても、なくしてはいけない大切な知恵なんです。
 
 
 
物質的にはこれだけ豊かになり、不満などでないような世の中ですが、なかなか私たちの心は満たされません。それはほんの少しの角度の違いでしかないかもしれない、それを感じることができました。
 
 
 
なにかを考えるときに善か悪かと考えると、進める方向は二つだけです。細かい角度処理はできません。しかし、キャスターは違います。どんな力があろうとも、そのまま受け入れ、流すことが出来ます。相手に対して、一番良い角度で入りきる事ができるんです。
 
 
 
自分の中にある「自由感」それは身体で感じるのが一番です。いや、むしろ、身体を持っている以上、身体が自由に軽やかにならなければ心に自由はうまれない、と思っています。
 
 
カラダラボで求めているのは成果的に考えるとどうでもいいものに見えるかもしれません。だって、ただ、手を上げたり、歩いたりしているだけですもん(笑)。
でも、そこに自由感を感じられるようになると、自分の機嫌が抜群に良くなります。なにかをするとき、機嫌が悪いまま、恐れを持ったまま取り組んでもうまく行くはず無い、うまく行ったとしても、楽しくない、そう思っています。
 
一見どうでも良いことばかりをしていますが、周り回って一番、幸せな気持ちを得るのに近道になっているんです。自分が持っているスキルを最大限に生かすために機嫌を良くする、そんな事かもしれません。
 
 
 
ありがとうございました。

手指のキャスターを身につけてできる事。

無意識の動きと意識的な動き。
意識できないからこそ、無意識の動きになるんだけど、意識と無意識との間をつなぐモノが身体ではないか、と思うようになってきました。
 
 
 
手指のキャスターが働くようになって、自分で自分の動きを見ても「速い」と思うようになってきたんです。
ただ、この手を出して、目の前のコップをとる。
その時の動きが速くて、なめらかなんです。
 
武術的に試してみると、手指のキャスターから動いたときには相手もその手の初動を掴みきれずに、崩されてしまう事がなによりの証になっています。細かい理由は分からないですが、まだまだ自分の身体に残っている可能性を感じさせてくれます。
 
 
 
さて、この手指のキャスター。
この動きをより、認め、使いこなすことでいったいなにが出来るようになるのか。
それはやりたいこと、やってみたいことを無意識のレベルで行っているレベルに引き上げることができるようになる、という事。
 
例えば自信のない時に誰かを訪ねるとしましょう。
ドアをノックします。
この時、恐る恐るノックをしていませんか?
もし、次に起こる出会いに全く恐れを持っていなければノックは全く自然に、むしろ、気にすることなく、コンコンと行うはず。
 
こんな時、人は、大丈夫、大丈夫と、心に暗示をかけようとします。
実際に手のひらに人の字を書いて飲み込んだり、お気に入りの音楽を聴いて、気分を高めてから、向かったり。
 
しかし、どんなに心に暗示をかけても、心の奥の奥にまである恐れは相手には見えてしまいます。
きっと、ノックのコンコンも、相手の無意識にはこちらの恐れが届いてしまっているんでしょう。
 
 
 
この時、手という具体的なものの動きを高めるのです。
手指のキャスターはそれをさせてくれます。
 
テレビや映画の俳優は自然な動きを求めて日々研究されているはず。
しかし、その自然さを求めるのは大変なようで、みんながみんな、自然体の演技を身につけられるかというと、どうもそうではないようです。
 
しかし、この手指のキャスターを身につける事で、自然な動きに一歩近づくのです。
 
武術の動きは自然さへとどんどん自分を近づけてくれます。
面白いのはその自然さへのスピードがドンドンドンドン加速度を上げていくのです。
甲野先生に出会った頃、なにをすべきかと考えてもなにも手がかりがなくなってしまったんです。
動きが変わるきっかけとなったのは、「どう動くか」を求めるのではなく、自分が「動いていない」と認める事だったんです。
 
 
 
自分が動けない、と認められると、今度は自分の身体になにがあるのかを見ていくことが出来ます。
最初、数年に一度しかなかった大きな変化が、今、毎月、毎週、いや、稽古する度に新しい動きを見つけることが出来るようになりました。
 
この一つ一つの発見、気づきはどんなにお金を出しても手に入れられない自分自身の成長を感じさせてくれます。
この成長が死ぬまできっと、続くんだろうなぁ、と実感しました。
そして、この楽しさをもっと共有したい、と願い、今の仕事を始めています。
 
 
 
興味があれば、ぜひ、お越しください。
身体を軽やかに動かしていくのは自分自身の責任であり、人生のテーマともつながるものですから。
カラダラボのホームページはこちら。

自動化の話

今日は自動化の話。
自動化された動きはとにかく、気配がなく、自然なんです。
しかし、自然な動きを求めてみても、なにかをしようと考えた瞬間、不自然な動きとなってしまいます。気配が出て来ちゃうんです。
 
 
 
自分の中に取り込まれた自動の動きは疑いのない動きです。
その自然な動きに近づくための鍵になるのがキャスター、それも、手の中にあるキャスター、第三関節なんです。
 
気がついていないだけで、みんな自動化された動きを持っています。
朝起きて顔を洗い、ネクタイを締め、通い慣れた道を進み、学校、会社へ行きます。これ、全部、無意識化された自動の動き。それらは全部、気配のない自然な動きです。
 
きっと、技術のある俳優さんならその瞬間、その人になりきり、自然な動きが出来るんでしょうね。しかし、私たちはなにかをしよう、と考えてしまうと普段自分が行っている動きも、不自然なものになってしまいます。いったい、なぜ、出来ている動きが出来なくなってしまうんでしょうか?
 
 
 
カラダの構造が分かってくると、まだまだ自分のカラダは動くって気づきます。自分が「持っている」ものを今は気づかせてくれる人が少なくなりました。たくさんの便利な機械は増えましたけどね。
 
それはそれで喜んで、楽しんで使えばいいんです。でも、自分への信頼をなくして生きていくことだけはしたくないなぁ・・・って思います。
 
 
 
第三関節から指を動かしてみると、その先にある第二関節、第一関節が楽になるんです。楽になるってのは大切です。楽になればなるだけ、気にすることのない動きになっていきますから、自然な動きにつながるのでは・・・。
 
 
 
無意識の時には指先から動いているんです。きっと。
でも、武術が必要な場面って、敵が目の前に現れた緊張状態の時です。余裕がある時には夢を描いて、それに身を任せればいいんです。しかし、現代ってそのリラックスをする時間と場所が限られています。
だからこそ、自分のカラダを信頼し、動く力を身につけることが必要なんだと、考えています。
 
 
 
実は身体から見直すって意外と簡単。
徹底的にこの身体の動きを見直すだけですから。
手指の第三関節から動く、と決めたらそれをちゃんとやる。そしたら、ちゃんと、第二関節が整い、第一関節も楽になります。気持ちの持ちようなんか、いりません。
 
 
逆に、考えすぎてしまう人は、自分にはできない、これではダメだ、と身体の事から気持ちの方へと意識を置きすぎてしまうんです。ちゃんと、狙って、そこから動く、と決めてやるだけ、それだけです。
 
 
 
第三関節からの動かし方を紹介して今日は終わり。
第三関節をまず、動かそうとしても、実は気づいていませんが、結構、指先にもう力が入っちゃっているかも。
指先をのばしたまま、指の付け根から折り曲げたり、起こしたりしてみると、それだけで第三関節が生きてきます。指回し体操をしても、第三関節がよく動くかも。
 
 
 
でも、きっと、一人でクイクイ指を動かしてもこれでいいのかなぁ、って分からないはず。自信が持てません。
 
だから、武術的練習なんです。
この手を抑えて動かさせないようにしてくれる敵がいれば、ちゃんと手指を動かしたときには、動けた、という結果という形で、しっかり自分が第三関節から動けているというのがわかりますから。
 
 
 
もちろん、一人でその感覚が分かるようになれば、なにをしているときにも、指先に軽やかさが感じられますよ。
 
そうそう、きっと、鉛筆を持って字を書く、ってのは、この第三関節が大切なんです。子供の頃、しっかりと鉛筆を掴むように言われても、それでは書けないんです。だから、指先でくるくる小さなカッコ悪い文字しかかけなかったんだなぁ、って。
 
でも、それは当然、だって、指が掴む動きしか出来なかったんですから。でも、第三関節が動くと、鉛筆をしっかりとホールドしたまま、手を素早く動かすことができます!
 
 
 
印刷が簡単に出来て、手書きの必要がどんどんなくなっていく時代。でも、自分の手を使って、動けているって感じられると、なんといっても、楽しさ、それも、自分だけの楽しさが内側から出て来ます。そういう事がもっと、もっと、伝えられればと思っています。
 
 
 
では、ありがとうございました。