稽古日誌

【稽古日誌】怖れを手放すそのタイミング

ちょっと変な話をしますね。
普段、好きなだけ時間の取れる大人の武道塾辺りではこんな話ばっかりしているんですけど(笑)
どうしても、2時間ぐらいの文化センターの講座だと、ここまでは入り込めません。
なぜかと言えば、答えのないものだから。
答えが無いものを一緒に追い求めるって、ちょっと、慣れていないとストレスになるんです。
 
言って見れば、その答えのないところから、少しずつカラダの使い方として出てきたのが術理っていえるかもしれません。
ちょっと前に話をしていた「親・子・孫」の話も技の体験無しに話をしだすと、間違いなく、不機嫌な顔をされちゃうもん(笑)
 
それでも、動きを通して体でその「違い」を体験してもらうと、それは厳然たる事実として、カラダに入ります。
暗示じゃないだろうか・・・とか、いろいろと考えて良いんです。
カラダラボの稽古にはなにも遠慮するものがないですから。
 
そういう、自分の頭を守っていた常識が壊れて、いよいよ今、このカラダで感じていることはなんだろう・・・となった時、新しい価値観が得られるんじゃないかなぁ、と。
 
 
 
「親子孫」の話もカラダで分かるってすごい事だと思うんです。
親として困っている人、子供として困っている人、いっぱいいますよね。
どんなに「正しい」事を言われても、それを受け入れるまではやっぱり大変です。でも、カラダでまず確かめてしまったことって強いですからね。それが進むべき指針になってくれるんです。
 
 
 
と、まぁ、昔の話は置いておいて、今、この瞬間の話です。
この「皮膚」の発見から自分の体が触覚として受け取っている情報は今までは加工されたものだと分かってきました。
そして、加工していたのは自分なんだと・・・。
 
 
 
よく「ありのまま」を感じる、今ココを生きるって言いますよね。
でも、あぁ、そういう耳触りの良い言葉で自分をごまかしていたんだなぁ、って反省しますもん(笑)
 
もしかしたら、今日の話は聞きたくない人もいるかも(笑)
武術的に調べると、今ココを・・・と言っている人も、実際に体に直接ストレスを受けてしまうと、その感触にやられて、嫌な気持ちを出してしまっているからです。
 
でも、続けさせてくださいね(笑)
どんな事を言われても、今、この体で感じている感覚の「層」は伝えなきゃいけない、確かなものだと思っていますから。
 
 
 
触覚で言えば「肌」が一番最初にそとからの刺激を受け取っているんです。
でも、普通、僕らは筋肉にその刺激を感じて、抵抗しようとします。しかし、その筋肉に入った段階でもう、ありのままではなくなってしまっているんです。
少しでも、意図が入ってしまうと、そこに相手の意思とのずれが生じます。そのギャップが衝突として出てくるんでしょうね。
負けないために他の力を集めたり、トレーニングで鍛えたりして解決を図りますが、そもそも、最初の刺激を肌で感じ、任せていれば、相手と一つになれるような問題だったのかもしれません。
 
 
 
そして、今からが本題。
頭の中でぐるぐる、考えては壊している問題です(笑)。
 
 
肌が触覚としての「1次情報」なんです。加工されていない、相手のありのままの力を肌が受け止めています。
この「1次情報」ってのを考えた時、もしかしたら「視覚」にもあるんじゃないか・・・と思ったんです。
 
そこで稽古になるのが武器の稽古です。
目の前に自分の力では敵わない武器を持った相手が現れると、とたんに体が緊張し、困りますよね。
武器と言うのはガマンの聞かないものです。素手で殴られたり、極められたりするのであれば、それに負けない力を用意しておくとまだ、我慢が出来、そこに隙がうまれて逆転も可能です。
でも、相手が武器となるとそうはいきません。触れたら切れてしまうんですから。
 
そんなものをどう相手にするのか?
もちろん、テクニック的にはたくさんのものがあるでしょう。
相手に負けない強い武器を持つってのも方法の一つです。
 
でも、なにがイヤかって、怖いんです。
武器を持った相手を前にした時、自分の中に生まれる怖さがイヤなんです。
 
 
 
これがね、スポーツとかならいいんです。
ルールの中で勝てばいいんですから。
でも、武術となれば、その状況でなんとかなっても、自分の中の怖さを隠したままでは、どこかでその怖さがまた、顔を出してきます。
 
 
合気上げのような状況ではだんだんと、怖さが無くなってきました。
どんなに抑えられても、大丈夫だよなぁ、って思えるようになってきましたから。
でも、そこにナイフ一つでてくると、もう「怖い」です。
もしかしたらナイフが怖くない人もいるかもしれません。
でも、どこかで自分の限界を超えて怖さが出てくる事もありますよね。
「怖さ」って何だろう?って考えた時、ちょっと、答えが見えてきたんです。
 
 
 
大丈夫かな?
なんか、長くなってきました(笑)
まぁ、いっか・・・。
 
 
自分になぜ、怖さが生まれるのか?
その仕組みのようなものを感じたんです。手がかりになったのは「1次情報」。視覚的になにが「1次情報」なんだろう?と考えていて、自分の心に怖さがでてくる瞬間がすこし、見えたんです。
 
目の前の武器に対してどこで、怖さがでてくるのか?
自分が見ているものは当たり前ではなく、なにかを見た、と認識した時にはもう、それは加工されたものだったんですね。
 
おそらく、私たちのこの目はあらゆる瞬間、光をこの瞳に集めています。
ビデオカメラを廻し続けるように、ただただ、情報として、刺激として入っているはずです。
そのたくさんの情報の中から、フォーカスを集め、なにかを見つけるんです。
このフォーカスを集めてしまう事を無意識にさせてしまっているからこそ、体の自由を奪われてしまうんです。
 
 
 
もしかしたら、この瞬間に起きている事が「ひらめき」かもしれない、そう思いました。
つまり、ひらめきはある特殊な状況だけで起こるものではなく、私たち人間にとって、「常に」起きているものかもしれないぞ!って。
一人、こっそり、興奮してました(笑)
 
それでですね、そのひらめきを得た時には、それに対する質問を持っていることに気がついたんです。
 
目の前に武器がやってきます。
反射的にそこにフォーカスをあわしてしまうんですが、その瞬間、自分にはこれ、交わせないよなぁ・・・っていう質問を投げかけてるんです。もちろん無意識に。
その出来ないよね、っていうほぼ諦めともいえる質問に対して、体が応えます。そう、無理無理・・・って。
そして体はいつもと同じように、固まってしまうんです。
 
 
私たちの脳は問えば必ず、答えを返してくれるそうです。
自己啓発、願望実現の世界ではよく言われていることです。
それを少し考え、応用して、質問をしてみると、怖れを抱く前に、なにをすればいいのか、という答えを得る事ができるかもしれないんです。
 
これまで漠然と受け取ってしまっていた「怖れ」という感情。この感情は自分が持っていた無意識の諦めに対する答えだったんですよね。
目にした瞬間、その状況をそのまま、見てみる。
この時の目の使い方は以前お話をした「遠山の目付け」です。風景として、ただただ、目の前の状況を観察するんです。
そして、この状況でベストな行動はなんだろう?と質問をしてみるんです。
すると、脳はその瞬間、これがいいんじゃないか、と答えを返してくれるんです。
 
この時、柔術が得意な人は投げを打ちに行くでしょうし、打撃が得意な人であれば、カウンターで相手を打つかもしれません。また、常に、相手の事を考え、相談にのるという人は、適切な言葉が浮かんでくるでしょう。
 
そうなんです。
ここで返ってくる「ひらめき」はそれまでの自分が得てきた経験と知識の中から一番可能性の高いものを瞬時につれてきてくれるんです。
 
 
 
まずはビジョンとしてなにがしたいのか、それがないまま、いや、むしろ、諦めを持ったまま動いたとしても、よっぽどの幸運がなければ、解決ってできませんよね。
まずは自分がなにをすべきなのか、その答えを得るために怖れを手放さなくてはいけないなぁ、って思っていたんです。
 
 
 
どうすれば怖れを手放せるんだろう、と考えていましたが、まずなにより、怖れを受け取ってしまった段階で遅いんです。体がもう、その怖れに反応してしまっているんですから。
受け取ってしまった時に手放す方法は体に任せることが一番なのかな。でも、それをさせてくれない時にはどうしようもありませんよね。
今日、お話しているのは怖れを受け取っているのは自分の中にそれを受け取る質問があったから、そしてその質問の仕方を変えてみることで、ベストな答えを得る事ができる、という事です。
その怖れが出てくるタイミングを体で確かめられるのが武術の良いところ、といえるかもしれません。改めて、武術の可能性の大きさを感じました。
 
 
 
いや・・・勝手にだらだら、答えのない事を書いちゃいました。
おかげで気分、すっきりです(笑)
この気分のよさはまた、講座、稽古でお返しいたします。
ありがとうございました。

【稽古日誌】古武術なら「確かさ」を得られる

気がつけば2月、早いなぁ・・・。
今日は「確かさ」について気がついたことがあるので、それを書きますね。
 
「確かさ」ってどう考えてます?
今、自分の目の前にどれだけ「確かな」ものがあるでしょう?
日本の中のこの平和、会社、学校のシステム、日本のお金・・・生まれた時から当たり前に存在しているものはなんとなく、これからもずっと続いていく、と考えているかもしれません。
でも、少しずつ、ほんとに大丈夫?なんて思う人も増えてきました。そしてそのちょっと心配になった人で発信力のある人が大きな声をかけて注意を促しています。
そんな声に少しずつ、不安が広がっていくんです。
 
いや、逆に考えると、この平和は続かないかもしれない、なんていうのはある意味「確か」なものかもしれません。ただ、自分の身に危険がやってくるという事に確かさを持ってしまうと体が緊張してつらくなりますよね。
 
 
 
自分がなにをどう、確かだと思っているのか・・・。
それを考えていく事で、自分の中にこれまで見てこなかった強さと楽しさが見つかるかもしれません。
夜になれば、朝がきます。冬があっても、だんだんと暖かくなり、やがて暑い夏が来ます。
これらは「確か」です。暑い夏の中にも猛暑の夏、冷夏の夏がありますが、それでも、夏はやっぱり夏です。
 
 
 
実は古武術はこの体で「確かさ」を得る事ができるすごいものなんだ、と思うようになりました。
 
昔、私は自分の事を信じられませんでした。
周りの大人たちはやれば出来るんだから頑張れ、と励ましてくれましたが、どこにも自分のすごさを確かめさせてくれるものはありませんでした。
自分に対しての確信がないまま、大人になっちゃったんです(笑)。
 
 
 
それでも、甲野先生に出会ったときが良かったのかな。ちょうど、大学を卒業して、社会にでるぞ、となったその年、自分の生き方を考える材料をもらったんです。まぁ、たまたまですけど。
あの触れた瞬間、自分の体のコントロールを奪われ崩されてしまった不思議な技、感触。その感覚を自分でもやりたい、っていう全然精神的な向上は関係ない興味から始めたんです(笑)
 
おそらく、「なにも出来ない自分」というのが古武術と相性が良かったんでしょうね。
なぜなら、古武術は自分の体に新しい感覚ができるたびに、ちゃんと、はっきりと出来る事が増えるからです。
稽古の一つ一つが自分の体ってすごいな、自分って結構できる事があるじゃん・・・って自己認識を変えていけたんです。
 
 
 
世の中ってすごい人が山ほどいますよね。
高校生なのに150キロを投げる人もいれば、中学生で世界的なコンクールで賞がもらえる人もいるし、それほどがりがり勉強しなくても頭のものすごく良い人も・・・。
でも、すごい人も実は「なぜ」自分ができるのかがわからないんです。
 
多くのスポーツ選手は怪我をする事で、それまでの成績が維持できなくなります。
でも、古武術の稽古をしていくと、「何があっても」自分にとってプラスにしかなりません。
ケガをすれば、そこでそれまで見えなかった自分が分かり楽しくなります。事故をしてもそこから気づく事があり、その秘密が見えて気持ちが楽になります。
できない技があれば、その技を通して研究、稽古ができます。
変な話ですが、世の中にあふれる心が落ち込むニュースも自分の問題として考えてみる事で、ただ怒ったり、悲しんだりするだけではなく、生かしていくことができるようになりました。
 
 
 
ここに「確かさ」があります。
自分の体に得た感覚。そこから気づくことは証明することは出来ないんですけど、間違いなくそうだ!っていう確かさが出てくるんです。
今興味を持っている「肌」からもたくさんの「確か」を得る事が出来ました。
 
この「肌」が普段どんな働きをしているのか?
特に男性は自分の肌のつやをあまり考えません。
痒くなったり、やけどをしてようやくそこに肌を感じます。(いや、これまでの私ですよww)
 
でも、肌はそんな事だけではないんです。
自分がなぜ興味をもってしまったか分からない事ってありますよね。
特別な事だけでもなく、街で見かける行列にも僕らは気持ちを引っ張られていたりします。横にいる人の機嫌に僕らの気持ちは引っ張られます。
なぜ、こんなに気持ちは揺れやすいのか?
その大きな要因の一つが「肌」だという事が「分かった」んです。
この「分かった」というのが自分の中に生まれた「納得」です。
証明する事が出来なくても、まず、自分の中に生まれた納得があると、ずいぶん、違ってきます。
 
 
 
しかも武術の良いところは、その納得がぶれないんです。
もし、これが心の中で得た納得だとすると、出来ない事が続けばそこに「疑い」が生まれます。
この「疑い」も自分の中で生まれたものですから信じなければ良いんですが、この疑いを手放すのがまた、大変です。
武術は体に感覚があるものです。
出来な状況に出会った時にはちゃんと、体が動かない事が分かるんです。
 
 
 
肌の話でちょっと説明します。
この肌は細かく常に動いています。
そしてその動きをより、細かく、柔軟にしていく事で相手と一つとなれます。
それは骨や筋肉を意識した時よりも遥かに性能良く、相手と一つになれるんです。
相手と一つとなった時、相手の肌も動かしていけます。相手は肌が動かされると、気持ちも動かされるんです。どんなに抵抗しようと「考えても」、無意識の部分では動いてしまうんです。その秘密が肌です。
 
でも、動かない相手もいます。自分にとってちょっと強い相手。
その時、自分の肌の感覚に集中してみれば、あれだけ細かく動いていたものが全然、動かず、緊張しているんです。逆に言えば、相手の肌に負けてる、という感じです。
 
 
 
この状態、結果だけを大切にする人はがっかりするかもしれません。
でも、古武術は違うんです。この出来ない状況も自分の中の「確かさ」をパワーアップできるチャンスなんです。
肌が動けば楽しくいられる、でも肌が止められると、動けなくなるんだ、と気づけるからです。
 
それが分かれば、肌をピカピカ、ハリをと持ち続けられるように出来る事を探していけば良いんです。
すると、また、なにかが見つかるんですよね。
そして、その見つかった事をもって、苦手な状況に向き合って見ると、それまで苦労していた事が嘘のように簡単に逃れる事が出来ちゃったりして(笑)
この楽しさって、こんな文章で伝わりますか(笑)
 
 
 
自分の感じている確かさを伝える事ができればもっと、人の役に立てるんですが、今のところ、私は手を合わせて、感覚を伝える事でしか、そこに「ある」という事を伝えられません。
もしかしたら、数学などの世界でやっている「証明」というのは確かさを共有するためのものなのかな?
難しい数学の問題がそこに証明されていても、自分の今の生活には変化がありません。でも、そこに「確か」なものがある、という証明は心に安心を作るのかもしれませんね。
 
 
 
自分の生きる中で少しずつ、確かなものを増やしていく。
人間ってすばらしい、生きるって楽しい、そんな事が分かれば楽しい人でいられるし、自分の周りの人も応援できます。
甲野先生に出会い、誰しもが可能性をもち、楽しく生きていける、という事も気づかせてもらいました。今ふと、思ったんですが、この思いも「確か」なものです。もちろん、日々、暮らす中で、心揺れる事もありますが、根底にはゆるぎない人間への信頼が作り上げられた気がします。
 
 
 
技に興味を持って古武術の世界に入りましたが、まさか、こんな心の世界の事に気づくとは・・・。
普段、技の練習もたくさんしますが、こんな事も毎日考えています(笑)。
興味があれば、聞いてください。文化センターでも、稽古会でも、メールでも。
長くなってすいません。ありがとうございました。

【稽古日誌】周辺視野的学び方

日曜日、甲野先生を名古屋にお迎えし、講習会を開催しました。参加された方、ありがとうございました。この時代だからこそ、よけいに甲野先生をいう人間に直に触れ、感じてもらいたい、その思いで、講座を開かせてもらっています。楽しんでいただけましたか?
 
 
 
前回1月6日の浜松での講習会の際には合わせたい手を少し、我慢をして帰りました。今回は全てのスケジュールを終えた後、ホテルの一室で手を合わせていただきました。我慢していた分、カラダが感覚を求めてるんですね、改めてわかりました(笑)。
 
良く稽古をしている人はご存じだと思いますが、私が自分のカラダが変わり始めたのを自覚したのは、先生の話を直に聞かなくなってからです。
打ち間違いじゃないですよ。「聞かなくなってから」なんです。
 
 
先生をお迎えし、講座が始まります。いつも、たいてい2時です。
一言、みなさんにこれから始めます、と伝えた後は、一目散に受付へ(笑)。
そこで領収書など、すこし仕事もするんですが、その時に聞こえてくる甲野先生のお話、みなさんの反応、そして、その甲野先生の解説を聞いた人から又聞きで聞くことが、自分のレベルをぐっとあげてくれたんです。
 
昔はビデオをずっと回して、後で何度も見返していたんです。一生懸命でしょ(笑)
ただ、その割にはあまり変化がなくって・・・。
それが、今、受付に引きこもっていたら、どんどん自分のカラダが変わっていくようになったんです。
その理由がよく分からなかったんですが、この前の講習会の時、わかりました!なるほど、こんな理由で上達していたんだな、って。
 
 
 
周辺視野って聞いた事ありますか?
ソフトフォーカスともいいましたっけ?
じっと、相手を見ることなく、一枚の絵を見るようにみるんです。
武術的には非常に有効ですし、スポーツの世界でもいわれる人がいますよね。
流派によって名前は違いますが、遠山の目付、カニの目、八方目なんて言われたりしています。
 
 
 
ただ、実際、私たちの目はずっと、その場で止めておく事って簡単に出来ることではありません。むしろ、全体をみようと思っても、「つい」目がいってしまうのです。
この時、具体的方法として、相手をみない、という稽古方法があります。
相手と軽くアタマをたたき合うぐらいの組み手が出来る人は試してみてください。
相手を良く見て対応する場合と、相手の顔の横、そしてその奥の壁を見てると、視野の端っこの方に相手がいるのが「わかります」。
じっと見ていなくっても、私たちの目は相手がどこにいるのかをとらえているんです。
 
これぐらいの見方で軽い組み手をしてみると、手が居着かないんです。動きが止まらず、なめらかになります。
もちろん、受けの技術、さばきの技術がなければダメでしょうが、特別すごい受けが無くてもいいんです。普通でいいの(笑)。
 
通常、相手をじっと見ると、相手が攻撃してくるのが「わかります」。その分かった瞬間、その攻撃に対して受けをだすんです。
これが型のように決められた動きだけであれば一つの攻撃に対して一つの受けをあわせればいいんですが、組み手となると、相手の攻撃に対して受け手が間に合わなくなります。後手ですからね。
 
見て、わかっているから、一対一にあわせてしまうんです。
その目の前の突きに集中しすぎるから次の一手に間に合わなくなります。
 
でも、この時、ぼーっと見ておくと、自然にぱっと、手が交わしてくれます。その手は考えて出したものではないので、受けが終わると、自然とまた、カラダに戻ってきます。このあたりのなめらかさが全然違うんですよね、目の付け方一つで。
 
 
 
周辺視野に関してはずいぶんと前に気づかせてもらっていたのですが、これが「勉強」にも有効なようなのです。
なぜ、甲野先生の話を聞かない方が上達したのか?
もちろん、なにも聞かない、ってのはお手上げです(笑)
ポイントは、その場所を共にしながら、見ない、って事。受付で仕事を片付けながら、今日はどんな話だろう?ってぐらいちょうど、組み手でいえば、周辺視野ぐらいだったんですよね。
 
 
甲野先生とは実際に手を合わせて、じっくり、丁寧に感覚を言葉にしてもらいながら技を受けることもあります。
でも、その時、いつも、「わからない」です。
そして、わからない事に振り回されて、自分を見失っているんです。
もちろん、そんなときにも、カラダは全ての感覚を覚えてますから、時間差で自分の頭にまでその瞬間の感覚がやってきます。
でも、最初から、わからない自分は横に置いて、その場、その瞬間の感覚を味わえばいいんです。
 
でも、それができないのが、私です(笑)。
だって、つい、気になっちゃうんですから。
だからこそ、「具体的」なカラダの使い方が必要なんですね。
見ない、というのも視覚に振り回されないようにする有効なポイントです。
でも、つい見ちゃう場合もあります。
この時に有効なのがどうも「皮膚」なんです。
ついつい、カラダの奥の方をのぞこうとしてしまいがちですが、それをすると、いろんな思いをアタマが巡るんです。
筋肉って思考と関連があるかもしれません。
 
 
 
ですから、「超意識的」に、相手の表面である肌、皮膚だけをみるんです。
相手の表面からだけ得た情報は自分のココロを揺らさず、冷静に答えを持ってきてくれます。
自分がなにを見ているか、それを意識してみるだけでも、十分、すてきな稽古になります。お試しください。
 
 
 
でも、実際に遠くから、時間とお金をかけて参加した講習会で、セミナーの際に、まじめに聞かない、ってのを意識するのって難しいですよね(笑)。
分かっていても、得することはないか、ってみちゃうもんなぁ・・・。
こういうもどかしさも最近、楽しくてしかたありません。
 
 
 
しばらく告知に専念していたので久しぶりのブログでした。
考えていること、たくさんあります。そして伝えたいことも。
また、時間を作って、書きますので、暇なときにのぞいてください。
考え方、見方が変わると、自分の周りも変わってきます。
そんなダイナミックな世界を生きているんです。一緒に、探検してください。

【稽古日誌】逆小手3年・・・でも、20年

最近の興味の対象は「皮膚」。もう、それは何度も書いてきた事だけど、改めて、この気づきは大きなものだって感じています。
 
今日は少林寺拳法の話をします。めずらしいでしょ(笑)
少林寺拳法の技に「逆小手」というのがあります。
まぁ、形はどこの流派にもある「小手返し」に似ている技ですが、それを手首、それを脈部を握られた状態から行う技です。
脈部というのは力みを生みやすいところでもあり、流派によってはそこを持たせないようにと説いているところもあるそうですが、少林寺拳法ではほぼ、最初に学ぶ技になっています。
 
 
 
当然、私も子供の頃から何度も練習してきた技の一つですが、これが、どうも納得いかないものばかりだったんです。
苦手、というほど苦手でもないんですが(まぁ、形がシンプルな技ですから・・・)、それが「逆小手」か?と聞かれると、そうじゃないかも・・・なんて感じていました。
 
それが、一昨日、あぁ、これが逆小手だ!って、納得したんです。
まぁ、やっている人にしかわからない喜びですよね(笑)
それでも、逆小手を上手になりたい、と思ってから20年以上たってやっと得た初めての納得ですから、ご勘弁を(笑)
 
 
 
この納得感を得たポイントは一つ、崩しから掛け手、極め、投げのための体捌きが全部、一連の動きでつながった事です。
ちょっとマニアックですが、書いておきます。参考になればいいんですけど。
 
それでも、多分、言葉にすると、「普通」なんです。
きっと、これまで、どこかで聞いたことのある説明だと思います。
むしろ、その今まで聞いてきた説明どおりの動きを行うと、こんなにもスムーズになる事がうれしいんです。
 
右手首を右手でつかまれます。
その瞬間、カギ手になり、相手を崩します。
その時のポイントは拇指球で相手の手首を折り、崩します。
その後、左手の掛け手で(目打ちは省略。まぁ、当たり前、という事で。)、体勢を前方向へと繰り出します。
次に来るのは掴まれている右手を抜く動作。逆小手ですから、ただ抜くのではなく、抜いた後、前腕部で相手の手甲側を攻め、肘を出させます。
十分に崩れたところで、体捌き、全てが「一連の動作」としてつながると、しっかり掴まれていても、技が完成します。
 
細かい点を挙げればいくらでも出てくるでしょうが、伝えたいことは一つ。「一連の流れ」を途切れさせずに行うこと。
でも、こんな事、逆小手を練習している人ならば、当たり前な事です。
ただ、頭でどれだけ、止めずに、行う、とわかっていても、それが、難しいんです。
 
体を持った相手がいることですからね。一人で勝手に動いているわけではありません。
この相手と自分との間に衝突がある、という事を学ぶことができるのが、組手主体という特徴をもつ少林寺拳法ならでは、です。
しかも、この時、相手を倒せばいい、という問題でもありません。
その練習で要求されているのは「逆小手」という型なのですから。
ただ、相手を倒すため、強くなるためであれば、たくさんの形を学ぶ必要ありませんから。
 
 
 
二人であるから流れが作れない。まぁ、それは当たり前なんですが、それを追い求めて20年だと思ってください(笑)
その流れなかった技を流してくれた「考え方」があるんです。
それが「皮膚」です。
 
 
 
私たちは誰でも、そこに、皮膚、肌を持っています。
でも、この皮膚のことなんて、技の中ではほとんど、考えてきませんでしたもん。
それが、昨年末、12月28日に皮膚の働きに気づいて、これまで、ずっと、自分の持つ皮膚の働きを探してきました。
その働きの一つは人間は「皮膚をコントロールされると抵抗しにくい」、という事です。
その考えにたどり着き、逆小手に試して見ると、今まで流れなかった動きが気持ちよく流れていったんです。
 
もう一度、その技の注意を皮膚の側から書いてみます。
 
 
 
右手を右手でつかまれます。
自分の拇指球、それも、付け根に近い部分を意識して、相手の拇指球に引っ掛けます。
引っ掛けて見ると、そこに「圧力」があり、「摩擦」を感じられるはず。
その摩擦感を大切にして、相手の拇指球の「皮膚」を引きずる様に引いていきます。
この時、少しでも、相手の肉の部分に入っていくと、抵抗され、動きが止まります。
感度を高めて皮膚だけを引きずります。
 
この右手の拇指球が第一走者、次の動きは第二走者へバトンタッチです。
第二走者は左手の掛け手。
右手で肌を引きずったまま、その肌を押し出すように、左手を相手の脈部に触れます。
この時も注意するのは皮膚だけを押し出す、という事です。右手の動きと左手の動き、つなげるのは「皮膚」です。「皮膚」という同じものを動かしているからこそ、動きに流れが生まれます。
 
この左手掛け手がうまくつながると、掴んでいる相手の右手が上方向へと動いていきます。
イメージは1回転するジェットコースターです。ジェットコースターのレールのようにドーナツが出来ます。そのドーナツの内側を右手と左手の掛け手で動かしました。うまく流れていると、自然と、右手が抜けてきます。
 
第三走者は右手です。ちょうど、前腕部が相手の右手にかかっているはず。この時、つい、強く相手を押し込みたくなりますが、気持ちを抑えて、やっぱり、「皮膚」に意識を集中します。
第二走者である左手は自然と相手の手甲に手を添えているはず、その左手と右手の前腕で手甲の皮膚を廻る方向へと流していきます。この時、ドーナツの外側を廻しているような感覚で行うと良いみたいです。
 
とにかく、大切なのは「皮膚」。その皮膚が方向を持って、止まらないようにどんどん伸ばされる事で、結果的に体勢が崩れ、投げになります。
 
 
 
・・・と、まぁ、マニアックな事をだらだらと書きましたが、伝えたいことは逆小手という技のかけ方ではありません(笑)
自分が悩み、苦しんで、困っていることも、解決する時にはあっという間だ、という事です。
そして、解決のためにはそれまで、考えもしなかったことに気づく事が必要なんだって事です。
 
もちろん、努力というのも解決には役立つかもしれません。
しかし、努力で解決しそうに無いから、自分の中で悩みになってしまっているかもしれません。
努力で解決出来ることなら、もうすでに、それを解決するための行動を起こしているはずですもん。
 
私は常に、体で解決できないか、って考えています。
たまたま、年末からの流れで自分の中に「肌」があることをしりました。
この肌を動かされると、いくら大きな力を出せる筋力があっても、抵抗できない、って分かったんです。
 
それが「分かる」というのが、見方、認識ですよね。
自分にはできない、絶対に、と思ってしまうと、夢も希望もなくなります。
私はそこに体を見るという事を知ったんです。
体を見てみれば、もう、底が見えないほどの不思議さを感じられます。
肌に気づいたのもそれです。
 
 
 
でも、この肌はずっと、自分の体を包み、そこにあり続けたものです。
きっと、今、この瞬間にも自分の事が信じられない人もいるはずです。
まぁ、落ち込む事も大切な事ですが、もうだめだ、と諦める前に、ちょっとだけ、自分の体の事を考えてみてください。
誰にも等しく、ちゃんと、あるんです。カラダは。
カラダには期待して良いと思いますよ。
 
興味があったら、どうぞ、カラダの見方を体験しにきてください。
1/27には師匠である甲野善紀先生の名古屋講習会もあります。
ぜひ、どうぞ。

【稽古日誌】大人の武道塾の前に

今日はこれから浜松での大人の武道塾です。今駐車場でこのブログを書いています。
手軽にブログが更新できるようになってその瞬間、思っている事、感じていることを言葉にできるようになって随分と研究が進みました。
古武術の稽古はコツコツ積み上げるものと言うよりもいかに自分の中にあるもの吐き出し続けるか、というところにあるみたいです。
今、研究の中心になっている肌の動きに関しても、昨年の稽古納めの際、稽古しすぎてもうそれ以上自分の中に何も残っていない、そんな状態から新しく気づかされた動きでした。
その日は結局、12時間ほど稽古し続けたわけですが、それだけ長い間、体を動かし、言葉にしているとさすがに自分の中でも、「飽き」というのが出てきます。
なんとなく飽きというのは不真面目な印象を与えると思いますが、実はこれ、自分の中の求めているものが素直に出ている状態ですから、飽きている状態の時ほど新しい発見が生まれやすいともいえるんです。
それでも私たちは学校というシステムの中で知識を押し付けられる経験をたくさんしてきました。つい、今抱えてる問題の正解があるように感じてしまいますが、本当の意味での正解というのは、ありえないものです。
正解があるとすると、それは自分自身の中でこれでいいという納得こそ、その時の正解といえるんじゃないかと思います。
古武術の体験は常に非日常的な感覚の経験です。自分が崩され倒された瞬間、理由がわかれば納得もできますが、ただ触れられただけ、わずかな接触で崩された事実は頭にパニックを引き起こします。
武術的にセンスのいい人というのは、パニックを起こしたあと、冷静に自分の状態を観察できる人です。しかし、多くの人にとってその自分の観察というのは難しい事です。なぜなら、毎日の生活の中でパニックというものは排除すべきものであり、考える機会が少ないですからね。慣れていないんです。
それでも、武術の技というのは再現性のあるものです。その瞬間たまたま相手に技がかかったのではなく、術理というものがあって、常識的には考えられない接触で相手を崩しているわけです。その瞬間頭にパニックを起こしたとしても、少し時間を経って改めて技を受けてみると今度はもう少し冷静になって自分を観察する事ができます。
人によってその冷静になる時間というものは違ってきますが、ひと月もあれば間違いなく冷静さを取り戻して自分の状態を観察する事ができます。
私は子供の頃から自信のない人間でした。何をやるにしてもネガティブな思考が先に生まれてきました。それでも、古武術を通して体を観察していく事と、この体の可能性の大きさにワクワクせざるを得なくなってきました。
無理やり自分は凄い人間なんだと暗示をかけるのではなく、どう考えてみてもこの体の精妙さに頭を落とすしかないのです。
ポジティブな人であればあらゆる事を通して前向きにどんどんどんどん進んで行けるはずです。自分の思い通りに前にすすんでいけばそれで幸せになれるでしょう。
しかし、ネガティブ思考な人はまず、自分自身への重要観をしっかりと持つことが先かなと思っています。身近にいる人達はきっと、あなたは大切な人、価値のない人なんていない、と言ってくれるはずです。しかしそれを否定するのも自分だったりします。私はそうでした。
今、身体を通して自分自身に無限の可能性を感じるようになってきました。そしてそのカラダは私だけではなく、みんなが自分のものとして持っている体です。才能があるないと言うような小さな問題ではないです。
どうしたら皆さんも持っているその体の凄さをもっと、もっと、伝える事ができるんだろうか。私のレベルでは手を合わせてでしか今はまだ伝えられません。
今は自分にできる事をしっかりと目の目の前の人に、この体を通して伝えていこうと改めて思っています。きっと今日もまた良い稽古ができるはずです。
言葉にするのは苦手ですが、あきらめずにこちらの方からもしっかりとお伝えしようと思っています。