稽古日誌

2012年総決算・・・超長文注意

いよいよ、今年も残すところはあと、数時間。
毎年、一年の締めくくりだ~と、その年の変化、気づきをまとめてるけど、本当に変化、変化を楽しませてもらっています。
 
年月がたつほど、この身体が不思議に思え、どんどんと動けるようになっていく感覚。
そして、それは妄想かと思うと実は、ちゃんとリアルに変化していて、ホント、非常識。
 
 
 
いよいよ同級生は40代に入り、みんな無意識にこの身体の衰えを気にしているんだと思うんです。
会話の端々に身体の心配がでてくるもん。
でも、そういう衰えも変化であり、新しい感覚に気づくためのきっかけなんだって思ってます。
今、困っている事があるから、ちょっと違うところへと行きたくなるんです。
 
 
 
さて、今年一年の気づきを一言で表すと「意識には層がある」って事かな、って思います。
だから漢字で表せば「層」。
 
去年の今頃はクビの骨、頚骨を揺らす事で世界の見え方が違う事に興味を持っていたはず。あの頃は、と言うよりも、これまでの稽古はずっと同じ層をグルグル探し回っていたんだろうなぁって。
クビがある、指がある、胸がある、腰がある。
一つ一つ、自分の身体を身体で確かめていた作業だったんです。
 
 
 
それが今年の3月、浜松での甲野先生の講座の際にうかがった「5角形の技」。
その動きのポイントが初めて身体で感じられたのがきっかけで「新たな層」へと気づかされたんです。
それまで、自分の動きは場所を探すものでした。
それが5角形の張りを作りながら動く技を通して、力の方向を感じる事が出来たんです。
 
 
 
力には外に出るものと内に入るものがある。
筋肉には「伸筋」と「屈筋」があります。
その事からでも入っていく事ができたかもしれませんが、私には、この日の経験、驚き、感覚が必要だったんですね。
 
同じ形の同じ動きの技でも、力が外へ向かうのと、内へ向かうのとではまるっきり、違うんです。
なぜなら、技には必ず、相手がいるから。
相手との衝突の原因を作るのがこの方向だから。
 
 
 
自分の身体から外へと発散する動きは相手に対して優しく気をつかうのと似ています。
どんなに乱暴に見える技でも、力を自分の内側、腹の方向へと入れずに、ひたすら、指先から外へ外へと出していくんです。
すると、相手はその力に抵抗するのが難しいみたいなんです。
 
きっと、原理は「ほめ殺し」(笑)
悪口を言われれば、ムカッとケンカもしやすいけれど、ひたすらほめられるんですから、ついつい、相手の言う事を聞いちゃうんですよね。
 
 
 
肘から生まれる力に方向がある事が分かってようやく、「肘」が見えてきたんです。
それまでは「片方」からしか見えていなかったので、どうしても不安が消えなかったんでしょうね。
それが両面から見えることで、出来る事、出来ない事がわかって、そのまま、見る事ができたんです。
 
 
 
肘が分かれば、膝もおんなじ。
膝にも方向がある事が分かってきました。
この膝の気づきはこれまでの稽古の中では本当に一山越えた気づきになりました。
 
なんと言っても、振り下ろされる刀に対して「交わす」っていう動きを可能にしてくれたんですから。
刀を目の前にすると、怖いんです。
とにかく「感情」がそこにある、って事をいやがおうにも感じさせてくれます。
どんなに理論が発揮していて、やらなくてはいけないことがわかっていても、「感情」が揺れれば、それには従えなくなります。
 
 
 
刀をどうこうするって言うより、感情をどうするかってのが大変なんです。
感情とは別に分けて、頭を働かせて動くって事が「できる」って分かったのが膝に乗るっていう動き方でした。
 
 
 
 
この刀を交わすという動きは20年ほど、ずっと、憧れてきた動きなんです。
武道の有段者なら誰でもできる、なんて嘘ですからね(笑)
みんな、不安を持っているんですが、言わないだけです^^;
 
それが一度、きっかけがつかめるとドンドンと楽になっていくんです。
これはどうも、頭の中のブロックが大きいみたいです。
自分にはこの動きはできない、って思い込む事で、さらに、できないっていう観念を強くしてしまうんです。悪循環、って奴ですね。
 
ただ、それは、一度、出来ると思ってしまえば、今度はどんどん、動きが磨かれていくんですよね。
 
コンプレックスが特技になるってよく言われますが、まさしくそれです。
自分の動きを冷静に感じて、こんな動きもできるんだ、ってのを確かめるには最適な技かもしれません。
だって、「誰でも」、恐怖を横に置いたまま、すばやい動きをして、刀を交わすことができるんですから!!
 
 
 
そんな大きな喜びを持ったのが夏ごろ。そしてそこから更に、大きな変化に続いていきました。
膝や肘から外へと力を出していくってのは風船がどんどん膨らんで行くように身体に張りを作っていく感覚です。
こんな事をずっとやっていれば、当然、肌つやもよくなるだろうなぁ、と分かり、ヨガや気功をしっかりやっている方たちの若さの秘密がわかりました(笑)
 
 
 
 
身体に張りが出ると言うのは関節の遊びが無くなり、目に見える動きが無くなっていくんです。
身体の表面的な動きが無くなってくると見えてきたのが身体の奥のほうにある動きです。
今から思えば振動って言えるほど細かい動きではなかったけど、あの時は本当に体の中に揺れが内在している事にびっくりしました。
ちょうど、その時、クビの調整をしてもらって、気持ちよく緩ませてもらったのが良かったのかな。
 
重い頭を常に揺らしながらバランスをとっている自分がいることが分かると、今度はその背骨を支えている部分に興味が向かいます。
それが「仙骨」です。
 
 
 
今年のテーマは「層」と言いましたが、まさにその一番の根っこがこの「仙骨」なんです。
揺れの元を作り出しているのが仙骨なんだとわかると、今度はその仙骨からの力を失わせないようにして外へと出していくだけですから。
 
 
 
背骨の下にひっそりと隠れている仙骨。
大切な骨だと言うのは多くの人が知っているはず。
僕だって知っていました(笑)
 
ただ、知ってはいても、どう使えばいいのか、まったく手がかりが見つからなかったんです。
それがその仙骨を意識して、背骨に力を乗せると、仙骨の揺れの力が身体を大きく動かすほどの力になります。
この力を技に使って見ると、それまで筋肉に頼っていた動きとは見違えるような速さと重さが出てきました。
 
この時に確かめていたのはハイハイの動きでしたね。
赤ちゃんは誰にも学ばなくても、自然と自分の身体の中から出る力を使って、成長していたんです。すごいの一言しか出てきません。
 
 
 
仙骨の世界があって、背骨の世界が見えてきました。
仙骨の世界は自分はそこに「存在している」というのを感じさせてくれます。
仙骨と言う一点があるからこそ、力が外の世界へと出て行くんですから。
もう、なにが足らないとかではなく、ここにいる、っていう喜びを感じさせてくれます。
 
その上にあったのが背骨の世界。
背骨に感じるのはそのまっすぐな方向の力です。
自分が望むべき場所へとぐいぐい力を増幅していくんです。
時間と共にその力を大きくしてくれます。
時間の力を感じる事ができたのはこの背骨の世界を感じられたからですから、コツコツしたい、コツコツの力を感じたいって人はぜひ、試してみてください。
 
 
そのまっすぐとした世界の次に見えてきたのは前後左右、自由に拡がる遊べる力です。
仙骨がエネルギーの元なのは変わりません。
この仙骨に力があればあるほど、大きな力を使う事が出来ます。
ただ、大きすぎてそれを扱うのが難しいんです。
でも、私たちの身体はその力を運転する部分もちゃんと、作り出してきていました。
それが「肘」です。
 
肘と仙骨の間にある関係が分かると、面白いように、この大きな身体を動かす事ができます。
そして、それは自分の身体のみならず、相手の身体をも、です。
相手の身体を動かしたい、って願っても、相手がそれを受け入れなければ、当然、拒否しますよね。
その時、力の衝突が生まれます。
 
・・・でも、この時、肘にそっと手を触れると、相手の仙骨がゆっくりとその肘の動きにあわせて動くのがわかってきました。
もう、これは理屈云々、というよりも、そういう仕組みになっている、って考えた方が速いです。
 
これまで、何人もの人に試しましたが、みんな、そういう連動を持っていましたから。
肘と言うのは鈍感で、なかなか普段、意識をしない部分です。
その意識しない部分ですから、狙われると、つい、身体の奥のほうにまで、影響を与えてしまうんでしょうね。
 
逆に言えば、自分の気持ち、力を奪われたくない時には、肘と膝をすこし、張って、バリアを作ってあげれば、気持ちを弱らせてくる困難に対して負けないで済むようになります。覚えておいて損の無い技です。ぜひ、マスターしてください。
 
 
 
と、ここまで、3000文字を使って書き残してきましたが、なんとなく、今伝えたい事の3分の1もかけていません(笑)
今日は大晦日、今年の総決算として、覚悟して下さい。
 
 
 
自分の身体を運転する、という点ではこの肘の操作がなにより、有効なんですが、ここからまさか、もっと、違う層へとジャンプするとは夢にも、想像もできないことでした。
 
きっかけはやはり、甲野先生の一言。
この私たちの身体はただの身体ではなく、「肘から先は道具」って言われたんです。
 
その一言がきっかけで、自分の道具であるのなら、肘から先をこの肘でぎゅっと持つ必要があるなぁ・・・なんて思い出したんです。
その時の前腕の不思議な感じがよかったのかな。
それまで、肘でなら動かせていた仙骨が指先のわずかな動きでも動かせる事に気づいたんです。 
 
 
 
指を動かしてみれば分かると思いますが、この指という体は他の身体の部分に比べて、抜群に良い動きをしますよね。
細かい動きもなんなくこなし、ものすごいスピードと精度で動き回ります。
この指の動きと仙骨がつながっているように感じたんですが、どうも、それは錯覚だったようで、研究、稽古が進む事で見えてきたのはどうも、それまで自分だと思っていたのとは違う自分がそこにいるように感じられてきたんです。
 
 
 
肘から先は道具、その言葉がきっかけでした。
そして、だんだんとその道具が勝手に動くようになってきたんです。
胴体から肘までの部分の自分に「我」を感じ始めました。
 
我の部分がどれだけ頑張っても、肘から先が簡単にやれることもできません。
我の部分が苦労をして身につけた事をこの肘から先を自由にさせてあげると簡単にやってしまうんです。
このもどかしさを無理やり言葉にしてみると、自分の中に世代交代を感じられるようなんです。
 
 
 
そう、自分の体の中に親子ともいうべき、関係が隠されていました。
今年一年を「層」と言い表したのはまさに、この親子の関係が見つかったことが一番の要因です。
 
誰にとっても引退ってつらい事ですよね。
でも、引退を受け入れてみれば、自分の技や考えを引き継ぐものが活躍をすれば、また、違った喜びがでてくるんでしょう。
自分の仙骨、背骨、そして、肘を動かす筋肉は引退。肘から先の進化した部分が相手を崩していくようになり、それまで大変だった事が「当たり前」に見えてきたんです。
苦労して崩すわけではなく、当たり前。
 
なんとなく、苦労して覚えてきたコンピューターを次の世代が軽やかに使いこなしている様子とダブります。
生まれた時からそこにある技術はその世代にとっては当たり前なんです。
そこに理由はありません。世代ってのはきっと、そうなっているんです。
 
 
 
いつの間にか私も親になりました。
親としてどうあるべきか・・・なんて事はいろいろと学び、頭の中に知識としては入っていましたが、自信が無かったんです。
自分がやろうとしていること、よしとしている事は本当に正しいのか、子供たちにとって良いことなんだろうか・・・って。
でも、身体が教えてくれたのは、ただ、子供たちを信頼する事です。
我を張って、自分が頑張らなくっちゃ子供たちがだめになっちゃう、というわけではありません。
仙骨、背骨、筋肉がどうあろうとも、この道具であり、子供である部分が自信をもって動いて見ると、なんでも、どんどん、叶えられていくって事を確信しました。
まさか、武術を通して、こんなにもはっきりと子育ての悩みがなくなるとは思わなかったなぁ・・・。
 
 
稽古の時にはあまり求められない考え方ですから、こちらも多くは語りませんでしたが、気になっている人はぜひ、聞いてください。心晴れ晴れ、快適になれますから(笑)
 
 
 
仙骨、背骨、筋肉、子供とどんどん世界が広がり、稽古を続けましたが、さらに外にある世界もあるのに気づいたのがこの冬でした。
甲野先生に崩される事で瞬間感じられたのが、手のひらの中にある一点です。
それまで感じたことのない集中に頭の中で「?」が廻りました。
一晩たって、冷静さを取り戻し、自己観察をしてみると、そこにあったのは労宮というツボです。
 
ツボに不思議な力があるのは知っています。
でも、その不思議な力は使いこなせるものではなく、ただ、そうなっている、っていうレベル止まりだったんです。
 
このコブシをしっかりと握り締めてみると、外からどんな力を加えられても、ビクともしない強い自分がそこにいることが分かります。
この一点が自分なんだと思って見ると、それまで主役だった、子供としての自分よりもさらに、違う自分なんだ、と思うようになってきました。
 
親、子供ときたら、やっぱり孫ですよね(笑)
孫としての自分だと思って働きをみてみると、本当に孫っぽいんです(笑)
 
なんにも縛られていない自由な存在です。
子供である自分はどうしても無意識に親の事を考えます。
自分が二代目である、みたいな力みをちゃんと分かっているんでしょうね。
だからこそ、縛りのある中で行き来をするのが肘から先の道具です。
逆にその縛りがあるからこそ、道具のような規則的な連動が得意なんでしょう。
 
でも、孫であるこの労宮の一点は自由です。
縛られる事なく、動き続けられます。
どんなに抑えられても、コブシからひょいっと動く事で、逃げ回れるんです。
 
規則的な動きを得意とする肘先とはまったく違う動きをする労宮。
自由すぎて、きっと、嫌われる動きに見えるかもです(笑)
 
 
 
それでも、縛られない自由な部分が自分にある、って事を知っておくのは大切な事です。
今の時代はちょうど、規則的な時代と、自由な時代とがぶつかる混沌の時代です。
それまで作り上げてきたシステムと、これからどんどん出てくる新しい技術の間で僕らはきっと揺れ動いているんです。
 
自由な自分が分かれば、その自由さをもったまま、規則的なことにもちゃんと、向き合えるんです。
自分がやらせている、と感じてしまえば、時間が敵になります。
でも、自分がいつも、自由で、やりたい事を自分の意思で選択し、生きていると分かれば、あらゆるものが味方をしてくれるはず。
 
そんな事をこの労宮の一点に感じていました。
ただ、そこまで熱をいれて話ができるのもごく一部のマニアックな仲間にだけです(笑)
でも、今、こうして少し頭をまとめる時間を得て改めて考えてみると、きっと、この先を幸せに生きていくためには絶対に必要な意識だと思っています。
 
 
 
運命は完璧に決まっていて自由、それを身体で感じたくて武術を始められた方に学んでいるんです。
当然、興味の向く先はその世界だと思っています。これからも歩みを止めずに、研究を進めていきますね。
 
 
 
いや、まだまだ書き足らなくてあれですけど、一応、今年のまとめでした(笑)
稽古納めに見つけた肌の自分の話はまた、お正月、頭を落ち着かせてから書きますね。
今年一年、良くしていただきました。ありがとうございます。
佳いお年をお迎えください。

【稽古日誌】稽古納めで見つけた皮膚の自分

昨日は2012年の稽古納め。
普段の稽古も数時間と普通に考えられている練習とはちょっと違っているけど、せっかくなので、終わりを決めずにどこまでいけるかやってみた(笑)
 
 
 
とにかく、稽古はガマンがあってはいけない、ってのがカラダラボの稽古。
その日、稽古したい人が稽古したいだけ稽古する事が一番成長できるのだ。
必然的に繰り返しの練習はなくなり、常に、自分との対話となって、気がつけば、自分ってなに?って事を考えられるようになる。
 
普通、スポーツの世界ではトレーニングを行う。
トレーニングをすれば、確かに鍛えられるものがあるだろう。
でも、それでは、ついつい、自分の今いる場所から出られなくなる。
ずっと、その場所にい続けようと思っても、人間には老いってのがあるし、相手もこちらの動きにあわせて追いついてくる。
だから、単純に練習=トレーニングではダメなのだ。
 
 
 
カラダラボで目指しているのは、とにかく、新しい術理、感覚の開発なのだ。
新しい術理を通して、それまで見てこなかった自分を見つけられる。
その新しい自分を見つけると、それまで「良い」と思っていたトレーニングが逆に「悪い」って事がよくあるんです。
 
昨日の稽古でもまさに、それを感じました。
 
 
 
稽古をし始めて、6時間ぐらいたった頃だったかな?
一通り、参加してくれた仲間に最新の身体の使い方を説明して、ホッとしていた時です。
ホッとするというのは言い方を変えると、今の自分が当たり前になり、飽きてきた時でもあります(笑)
 
コブシだけではなく、身体の体幹部や脚部を細かく振動させて動くと相手はこちらの動きを見失います。
ぐっ、と固まらない身体は狙いをつけるのが難しいからでしょう、きっと。
まぁ、確かな事はわかりませんが(笑)
自分でも自分の身体、動きが分からないぐらいですから、当然、相手も困るんです。
 
 
その細かく振動する身体に飽きてきたんです。
どういう状況だったのか、ちょっと、不確かですが、座り技の正面の斬り飛ばしを教えていた時だったと思います。
この正面の斬り飛ばしってのは細かく説明をすればいくらでもコツにあたる部分はありますが、まぁ、そういうのは抜きにして、ただ、まっすぐ、相手に入っていく、って事だけの技です。
正座をして向かい合い、片手を出し合い(まぁ、相手は両手でも良いんですけど・・・)、触れた瞬間、相手を後ろへと飛ばすものです。
普通に考えると、相手と触れた瞬間、力と力が衝突しますよね。
その衝突をとにかく、無くしたいんです。
 
 
 
この時、それまでは身体全体をミツバチが集まっているかのように、振動させるイメージで相手に入っていました。
この動きをすると、相手は抑えきれずに、こちらの動きをそのまま受け取る事になるんです。
 
術理を秘密にすれば、相手はいつも、技にかかり続けます。
だって、動きの質がどう違うのか、気づかないんですから。
だからこそ、どこの道場でも秘密をつくるんです。
でも、カラダラボでは全く逆の稽古をするんです。
とにかく、自分の動きを全部、言葉にして伝える。相手に自分がどう動いているのかを感じてもらうんです。
 
この瞬間、身体が揺れて、触れた時にはこの胸がわぁ~と動いているんです・・・なんて。
すると、相手は徐々に動きに慣れてくるんですね。
頭ではよく分からなくても、身体がそのタイミング、速さについてくるようになるんです。
 
稽古をし始めて6時間ってのは、ちょうど、そんな時だったんでしょう、きっと。
こちらの動きが相手に気づかれてきたのを感じると、自分の中にこのままではいけない、っていう必然性が生まれて来ます。
この必然性が無ければ動きって変わらないんです。
身体がなにかを求めるってすごい力なんでしょうね。
 
 
 
細かい振動を意識して動いていたんですが、その振動を生むのがどうやら、皮膚にあるような気がしてきました。
体ってのはいろんなところが動いて、これまで、内臓も意識した事があれば、骨を廻したりもしました。もちろん、筋肉もつかってきました。
しかし、どうも、この細かい振動はそのどれでもないぞ、って感じ始めたんです。
筋肉や骨を意識して動いてしまうと、動きが大雑把になってしまうんです。
 
どうも、自分の皮膚だけを意識するのがいいんじゃないか・・・。
そんな直感を得たんです。
相手に触れた瞬間、自分の皮膚を意識をすると、細かな振動を続けられるなぁ、と気づいたんです。
 
そして、大きな転換点はこの後でした。
自分の皮膚がそうなんだから、相手の皮膚もそういう働きがあるんじゃないだろうか・・・?
そんな疑問が出てきたんです。
 
正座をして向かい合い、手を合わせます。
その瞬間、自分の指先の感度をマックスにして相手の皮膚の状態を探ってみました。
相手の皮膚を揺らすにはちょっと、手がかりがありません。
その時やれそうなのは、相手の皮膚を押さえ込まずに、ただ、皮膚が動きやすい方向へと導いていく事だけでした。
 
 
 
こうして言葉にしていると、変な感じですが、皮一枚をすぅ~っと流していくような感じです。
うまくやる方法を説明するよりも、失敗する形を説明する方が分かりやすいかもしれませんね。
 
失敗する形ってのは、触れた瞬間、相手の筋肉に力が入ってしまう場合です。
少しでも、皮膚に対して角度をつけて入ってしまうと、反射的に相手に力を入れさせてしまうんです。
この時の角度はものすごく微妙。
普通に手を使ってしまうと必ず、引っかかってしまいます。
必要なのは身体や腕で相手に入っていくのではなく、手のひらだけになったつもりになって、手先だけで相手に入っていく事です。
最近稽古してきた労宮の感覚が役に立ちました。
その小さくてどこにも縛られない自由な点だからこそ、相手の皮膚の皮一枚のラインを通っていけるんだと思います。
 
 
 
そのラインを失わずに皮膚をそ~っとなでるようにすると、相手は全く抵抗できないまま、崩れていきました。
これまで全く感じた事のない柔らかさです。
ただ、触れて皮膚を流しているだけなのに、ものすごいタイミングで崩れていくんです。
 
自分でも驚きながらその時の技を説明してましたが、きっと、技を受けている相手も不思議に思ったはずです。
 
 
 
面白いのは、こうして新しい動きが出てきた瞬間に、その動きが出来るようになっている、って事です。
その動きに出会ったのがたった5分でも、もう、それまでの動きには全く戻りたくなくなるし、以前の動きよりもはるかに、速く、細かい動きになっているんです。
間違いなく、新しいところへ一歩を踏みだした実感がありました。
 
 
 
一晩たってこうして言葉にし始めていますが、これまで考えていた骨格、筋肉、身体の概念がガラガラとくずれはじめています。
 
トレーニングの話をしましたが、今、この新しい動きを身につけるためには筋トレはもちろん、骨格の正しい位置なんて意識も全部、邪魔になりそうなんです。
 
中国の方では人間を水の入った皮袋と考えたりするそうですが、まさにそんな感じなんです。
自分のこの身体を支えているのは骨格でも筋肉でもなく、皮膚だという感覚が生まれてきています。
この皮膚が動きたい方向を常に意識したくなっているんです。
 
 
 
直前に意識をしていた動きは振動でした。
その振動を出すために自分がコブシの中の一点、労宮になったのを意識すると速さを持った自分でいられます。その速さが刀を交わしたり、相手を崩したりするんです。
 
その一つ前に考えていたのは肘から先を道具とみなして、我を出さずにただ、身体の連動に任せて動いてみよう、という事でした。
その連動が井桁術理の理解をくれたんです。
 
道具として信頼するって書きましたが、どうしても自分は自分である、っていう当たり前のところから抜け出せなかったんです。
でも、肘から先は道具なんだ、って事をうかがった事で、自分自身の我を見つけることが出来ました。
 
自分のこの身体を見たとき、我である自分もあれば、道具としての自分もあり、そして、労宮という点という自分もある事がわかったんです。
自分の中に「層」があったんですね。
 
 
 
この「層」が違う軸でもあったんだなぁ、というのが今の自分の考えです。
昨日見つけた新しい体の使い方は皮膚の自分です。
それより奥に筋肉の自分がいます。
そしてその更に奥には骨格の自分がいます。
 
 
 
皮膚の自分はとにかく「動きたい自分」です。一刻たりとも止まっていたくない自分です。
ワクワクする感じっていえばいいのかな・・・、楽しいですよね。 
逆に恐怖に襲われた時にもブルブル震える自分です。常に動いている自分なんです。
 
それに対して骨格の自分は動きたくない自分です。
どっしりと構えて構造を保ち続ける自分です。
これまで、このしっかりとした構造を使って技もいくつか作ってきました。
 
そして筋肉はその間。揺れ動く自分です。
筋肉には屈筋と伸筋があるっていいます。
伸びたり縮んだりしていますよね。
まさに、そんな感じ。
好きや嫌いを通して毎日を生きる、みたいな(笑)
 
自分の中にこんないろんな自分がいるんです。
 
 
 
ついつい、ちゃんと説明したくってこんなに長くなっちゃいました。
でも、伝え切れていないです。
稽古が出来れば一番なんですが、また、来年早々の浜松で行われる甲野先生の稽古までお預けですもんね。
 
どれだけ「くどい!」と言われようとも、この身体の不思議さを伝える事は諦めません(笑)
自分のこの身体にどれだけの可能性が秘められているのか、それを伝えたくってしかたないんです。
世の中にはいろんな事があって、いろんな事で悩んでいます。
そしてその多くは答えの出ない悩みだったりします。
でも、身体からその問題に向き合ってみると、必ず答えって出てくるんです。
いや、答えが出てくるわけではないかもしれません。
それまで気になっていた問題が気にならなくなる、そう言った方が合ってるかな。
ぜひぜひ、自分の身体と向き合ってみてください。必ず、幸せな気持ちになれますから・・・。
 
 
 
稽古はしばらくお休みですが、その分、ブログで言葉を通してお伝えしたいと思います。
また、お暇な時に覗いてください。
質問とかあれば、遠慮なくしてくださいね。

【稽古日誌】普通って満たされている状態?

今週は火曜に豊田、水曜に鳴海、そして今日木曜日が瀬戸の中日文化センターで講座。
これで今年の文化センターでの講座が終了~。
改めて考えて見ると、こんなにも自由に講座がやらせてもらえるようになるとはあんと、ありがたい事かと思った。
 
 
 
中日の文化センターの講座は今でも、どこから声を掛けていただいたのか、分からない。
当時ブームになってた古武術介護の講座を求めてこられたのは間違いないんですけど(笑)
 
当時の担当の方が柔軟な方だったんです。
私は当時もカリキュラムが無い、カリキュラムを作らない教え方をします、って言ってたんですが、ちゃんとこちらの技を体験してくれて、話を聞いていただいて、それでも良いって(笑)
 
きっと、あの時、カチッと固い講座を作ったら今の自分はないなぁ、って思います。
仕事は喉から手が出るほど欲しかったけど、もともと、甲野先生から学んだ、自由に学び、研究するって部分を大切にしたいなぁ、って思って始めた仕事でしたから。良かった・・・。
 
 
 
さて、あれから5年。
文化センターの講座でありながら、一度稽古が始まってしまえば、自由な時間をみんなが楽しみながら身体を動かしてくれる。
昨日だったか、自己満足と自己実現の話をしたけど、この講座の中に求めているのも、自分の中にある空っぽの部分をどう、満たすかってことだったかも知れないって感じてます。
 
 
 
私の文化センター講座はお昼の時間帯が多いので、必然的に奥様方が多い講座になります。
古武術介護が目新しさを持っていた頃は仕事の休みをもらってプロの方も多く受講してくれましたが、だんだんと「普通」の人が多くなってきました。
主婦の方はいずれやって来るかも知れない介護への不安があるんですね。すこしでもそれに応えられれば・・・と思っていますが、気がつくと、そんな不安よりも身体を動かすことの楽しさ、不思議さがの方に興味を持ってもらえて続けてくれてるみたいです。
 
 
普通って私の中ではとっても重い言葉です。
普通っていうのはきっと、満たされている状態ではないだろうか、って。
その人にとって満たされている状態、まさに自己満足の世界(笑)
そうして満たされていれば、きっと、未来は楽しい未来です。
逆に、満たされていない状態で楽しい未来を待つには奇蹟を期待しなくちゃいけないですよね。
遠回りに見えても、幸せな未来を過ごすためには今の自分を満たす事が近道なんじゃないかなぁ。
 
 
 
今日、講座が終わったあと、忘年会替わりにランチをご一緒させていただきまして色々とおしゃべりしてきました^^。
講座では先生!と言われても、講座が終われば人生の先輩方からの言葉です。うんうん、と一つ一つの言葉が身体に沁みてきます。
そこで、追い求めて行った先に幸せが無かった時の喪失感は大きい、と聞きました。ホント、そうですよね。
どれだけ周りから羨まれようとも、自分の中が満たされないと・・・。
夢を持って頑張った先に望んでいたものが無かったら、次、夢を持てるかわからないもんね。
 
 
 
それを伺って、やはり、満足するって大切な事だな、って思いました。
満足って、自分の中の空っぽを埋める作業だから。
自分がなにを求めているのか探らなきゃいけないもん。
今の時代は簡単に答えがでちゃう時代です。
自分の頭に浮かんだ問いに対して答えがすぐ出て解決しちゃうと、本当に自分が求めている事が分からなくなっちゃいます。
簡単に答えが得られる時代では、考える力がどんどん失われて行っちゃう気がします。
 
 
 
武術はあらゆる事を便利にしない世界です。
その瞬間、自分の中、周りにあるものを生かして、行動するものです。
だからこそ、ありのままの自分を考える事ができます。
そんな事を伝えたくて講座を開いていますが、今日の皆さんとの食事会で改めて、もう、皆普通の時がとっても魅力的、というのが分かりました。
 
もう、しっかり、自分らしく生きているんです。
その自分の魅力、力に気づかせてくれるのも武術です。
これからも、そのすごい普通な自分をしっかり、伝えていこう、って思いました。
 
 
 
さて、明日はいよいよ、今年の稽古納め。
一応、始まりは11時からって決めてますが、終わりは未定です(笑)
8時間、10時間、12時間、いつまで稽古するんでしょうか^^
もちろん、どこで来て、帰ってくれてもかまいません。
しっかり、楽しんでください。

【稽古日誌】ほめ殺しの効用

振動の話をしておこうと思います。
これも、この前の甲野先生との手合わせで感じさせてもらったことです。少しでも、書き残しておかないと、どんどん、変化していっちゃいますからね。
 
先生との手合わせで手首だけじゃなくってね、体全体が細かく揺れる事ができる事がわかり、これまで以上に居つかない体でいる事ができるようになってきました。映ったんです、身体の感覚が。
 
そして、これは特別な事ではなく、当たり前の生活の中で普通に現れている事だと分かってきました。皆、毎日、いつもいつも、そういう振動を身体はしてるんですよ。気づいていないだけで。
 
つまりどういう事かと言うと、いい音楽に出会った時、いい笑顔に出会った時、おいしいもの食べた時、そんなうれしい事があった時、私たちの体はほっと緩み、細かく体が振動しているんです。信じられる?
 
そして、この私の体が振動していると言う事は、同時に自分の周りの環境も細かく揺れていると言うことなんです。今日はそんな話です。
 
 
 
甲野先生と手を合わせた時、その動きに負けないように必死で自分の体を素早く震わせようと頑張ってついて行きました。しかし、そんな頑張りから生まれた振動では当然のように先生からの動きは止められません。
 
それでも、その状況を何とかしようという必要性が自分の体の可能性を広げてくれるんです。甲野先生との稽古はいつもこんな感じ。
 
ふとその時、先生が自分よりも速い動きをするのであれば、自分が何かをしようと頑張るよりも、先生の動きに任せてみる事が一番いいんじゃないかと思いついたんです。
 
イメージはこんな感じ。
流れの速い水の中で、もがきながら自分の泳ぎをするよりも、その流れに身を任せてただひたすら、力を抜いて行く感じです。
 
また、暴風雨の中を頑張りながら進みゆくのではなく、風に背中を押されながら自分の体が運ばれる事自体を楽しむそんな感じってのもいいかもしれません。
 
 
 
自分自身と外にある環境はその境目が見えにくいものです。こうして言葉にしていてもなんか、変な感じがしますもん(笑)。
穴ってのは穴だけでは存在できませんよね。穴があれば、必ず、穴の周りってのも存在します。穴というのが自分だとすると、穴の周りと言うのが環境です。
 
実際に自分がここにいて周りの環境があるわけですから必ず境目はあるんだけど、なかなかそれを認める事ってできません。頭では分かっているはずなんですけどね。
 
 
 
外にあるものを自分よりもはるかに勢いのあるものだと認め、それに合わせてみる。すると、この自分の体はそれまで以上に小刻みに動いている事が感じられました。自分自身の中で流れを作ろうと動きを作ろうと頑張っていた時には作れなかった動きが、外にある力に助けてもらう事によって引き出されてきたのです。
 
穴で言えば、穴の周りが急速にその形を変えていけば、当然、タイムラグ無しに穴の形も変わりますよね。
どっちから変化をしても、穴と穴のまわりはつながっているんです。
 
 
 
今の時代はアクシデントを嫌う時代ですよね。特にこの日本は。いや、人間は退屈が嫌いですから本能的にアクシデントを求めているかもしれないけど、アクシデントは安全がセットでないと、要らない、って人が増えているんです(笑)
 
ついつい目の前にあるものは自分の考えた通りに存在し続けると考えてしまいがちだけど、そうした動きの少ない塊感のある世界で暮らしている事で、自分の体の可能性もギュッと縮こまってしまうんじゃないかと思いました。
 
本当は私達のカラダってもっとよく動くんです。でもその動きを経験する機会が少なくなっちゃいました。平和なまま暮らしている事は幸せな事ではありますが、いつか来るかもしれない不安に恐れながら、今の平和を生きる事は本当の幸せにはなり得ません。
 
どんなに自分の周りが慌ただしく流れが速くなろうとも、その流れに自分自身がちゃんとついて行ける、そんな動ける体を持っている、その思いを持つ事ができればきっと今よりも毎日の生活が楽しく、そして喜びに満ち溢れてきます。
 
 
 
実際に武術の技で試してみても、自分中心で動いて行くよりも、目の前の相手を自分よりもはるかに腕の立つ達人なんだ!、と思って動いてみた方が、結果としてはうまくいくんです。
きっと目の前の相手も自分の事を達人として認められる事がギャップとして感じられるんだと思います。人間って褒められると困りますよね。特に私はほめられるのが苦手です(笑)
単純に嫌われば、それに対して対抗することもできますが、心の底から凄いと思われてしまったとき、その思いを受け止める事ってなかなかできません。
褒め殺してやつです(笑)
 
 
 
目の前の相手を達人だと思い、その自分の作ったイメージによって、この身体をより細かく振動させる。そしてその細かい振動を持った体で相手に入って行く。まさか、ただ単純に真直ぐ入っている、この動きの中でそんな変な事を考えているとは、きっと誰も思わないはず(笑)
 
 
 
自分自身の体が騒がしく揺れるというのは、遠足前の子どもたちに似ています。自分自身で作った振動ですからガクガク震えてしまうというものではありません。ワクワクドキドキ、居ても立ってもいられない感じ。それを自分自身の気持ちの持ち方ひとつで作る事ができたらもっと幸せになれそうな気がします。
 
変な話ですが、大切な事だと思ったのでお話しました。
聞いてくれてありがとうございます。

【甲野先生】浜松での講習会

今日、突然、電話を頂いた。

来年1月6日の浜松での甲野先生の講習会の申込だ。
 
いつものように、ハイハイ、と受け付けると、どうも、感じが違う。
詳しく聞くと、10名ほどのお仲間一緒に来られるかも・・・と。
今回はお正月明けという事もあり、定員はまだ余裕です。
 
ただ、こんな感じで気を抜いていたら、ポンポンと申込が続くかもしれません・
 
 
 
今のところ、名古屋は数ヶ月間隔、浜松は半年ほどの間隔で甲野先生にはお越しいただいております。
もし、興味のある方はお早めに。
詳細はこちらから。