大人の武道塾

普通な事、特別な事

昨日、これまで出来なかった技ができるようになりました。杖をもった相手を転がし投げる技と二人に掛かられたときに崩し落とす技です。

少林寺拳法の基本の技にはないので、ずっと、こういう時にはどうすればいいのだろう・・・と考え続けていました。

 

 

なにかが「できる」というのは、それまでの自分のままではいけません。なにかが変わったからこそ、できるようになるんです。昨日できるようになったのは、相手の体を形としてみるのではなく、「重さ」として見えるようになったからです。重さで見れば、相手の体も杖の重さも、自分の体も一つの同じエネルギーになります。そうなれば、ただ、揺らせば倒れていきます。やれてみれば「当たり前」でも、まさか、こんな普通があるだなんて、と不思議でなりません(笑)。

20歳ぐらいまではなにもしなくても「成長」していくので、未来は明るいです(笑)。しかし、いつか、成長は止まりますよね。成長が「老い」にかわるんです。ただ、やれる事は年々増えています。なぜなら、便利な道具や機械が増えているからです。サービス業も増えましたしね。

 

やれる事は増えましたが、それは自分でやっていないのが問題です。

自分の能力を観察し、伸ばしていく事をやらなくなってしまいました。これが、本当にもったいないです。まだまだ、私たちの身体は秘密が隠されていて、ちゃんと使えば、若い頃よりも動く事ができるようになります。効率よく使えばいいんです。

 

 

 

大きな病気や怪我がない人は今の自分を「普通」だと思っているかもしれません。

周りの同年代を見ても、みんな同じように身体を使う事が下手になっていますから、なかなか気づけません。でも、今、自分が普通だと思っているのは普通ではなく、もっともっと、愉快さを感じる事ができるんです。想像できますか?なにもしていなくて、ただここにいるだけで、体があること、動く事の楽しさが感じられるんです。多くの人が無意識に「我慢」をしているように思えます。人間が持っている「快適さ」をどうしたら共有してもらえるだろうか、そんな事を思いながら今、これを書いています。

たぶん、昔の日本人なら当たり前の感覚だったはずです。私が特別だったわけではなく、身体そのものにそういう性質、働きがあるんだと思います。

 

 

少林寺拳法では座禅もします。

ただ座り、心を自分に向ける稽古です。そのことがどんどん違う自分に気づかせてくれます。身体には感覚があります。その感覚を頼りにすれば、誰でも、自分の持っている可能性が感じられる、と確信しています。ただ、私もまだまだ修行者ですから、何十人人の集団を前にそれを全員に気づかせるのは無理です。これまで、私の少林寺拳法の道場は子供たちが主でした。しかし、今、子供よりも先にお手本となる大人にこの楽しさを感じてもらいたい、と思うようになりました。大人の少ない今ならちゃんと伝えられるかもしれない、そう思っています。

もし、大人の方でもっと、自分の可能性を感じてみたい、と思われる人がいましたらぜひ、チャレンジしてみてください。

 

お問い合わせはお気軽に。

090-5606-5648(山口)

少林寺拳法のサイトはこちらです。

【思いつき】舌打ちでまわりを見続ける

あたらしく「思いつき」というカテゴリーでブログを書く事にしました。
実は、毎日、ずっと、身体のこと、心のこと、変なことばかりを考えています(笑)。昔から考える事は嫌いではなかったような気がしますが、なにせ、言葉にうまく出来ないし、モヤモヤを抱えていました。
 
 
 
「稽古」をするようになり、「身体感覚」という武器を手に入れました。この武器がすごいんです!それまでモヤモヤとしていた問題がどんどん自分の中で解決していくんですから。まるで、「鍵」です。自分の中の疑問は自分の身体の感覚が開けてくれるみたいです。
 
 
 
ただ、日本語の能力だけはなかなか上達しません。まぁ、それでも、小学校の頃は作文が全くかけなかったのを考えれば、こうしてブログも書くようになり、ツイッターでもぶつぶつつぶやくようになりましたら、これでも、進歩してるんです(笑)。
 
 
 
実は、このレベルの日本語でも言葉にするのは一苦労なんです。自分の中にポッと生まれた感覚がひらめきになり、そこから自分の持つ知識と混ざって少しずつ、言葉になっていきます。
去年ぐらい前まではそのひらめきの間隔がいい感じだったので、言葉にする事も出来ていましたが、今年に入り、どうも、ひらめく事が多すぎて、うまく言葉にまとめられないアイデアが溜まってきてしまいました。
 
 
 
もちろん、自分の中でモヤモヤさせて置くことは気持ち悪いので、いつも、考え続けています。その結果、そういうことだったのか・・・と確信を得るところまでは行くんですが、それはココロどまり、納得したはいいけど、伝える言葉が追いつきません(笑)
 
 
 
稽古のときのように、雑談をしながらであれば、自分の中の確信がぽろっといい感じのたとえとくっついて言葉になる事もあるんですが、それを期待して待っているわけには行きません。
 
 
 
ふと、どうせなら、おもいつきのまま、そのまま、言葉にしてしまおう、と考えました。
どうやら自分の中の「言葉」というのは「正しい」という条件つきだったみたいです。もちろん、正しい言葉なんてありませんが、まず、自分の中の納得を得た上で言葉にする、無意識にそれで縛っていた気がします。
だから、おしゃべりが苦手だったのかぁ・・・と(笑)。
 
 
 
 
「思いつきブログ」は、自分の中にひらめきが起こった瞬間に思ったことを書く事にしました。ここで大切なのは「中身」ではなく、その「瞬間」、「タイミング」です。こう考えると、私の中にある正しさの鎖も「タイミング」という点で正しくなります(笑)
 
そんなわけですから、このカテゴリで書く内容は今後、どんどん中身を変え、真逆なところへとたどり着く場合もあります。それでも、恥を忍んで、こうして、頭の中をさらけ出すのは、「自分の頭と身体を使ってみると楽しい」んだ、という事を伝えたいからです。
 
もちろん、この中で書く事について「わからない」と聞いてもらってもかまいません。むしろ、その質問よって、さらに自分の頭が整い、いい言葉が出てくるのを期待しています。
 
 
 
正しさは保障できませんが、身体の感覚から出てきたアイデアは動きにはすぐに影響がでます。それまでの技、動きとは違った感触で崩す事ができるとおもいますので、技を受けるときにちょっと、思い出してもらえるとうれしいです。
 
 
 
 
では、ついさっき、思いついたことを。
それは、舌打ち。舌打ちをし続けながら暮らしてみたらどうだろう、という事です。
舌打ちってのはあまりいい事ではないですよね。それでも、この舌打ちが「発散」としては非常に有効なんじゃないか、と思ったんです。
 
つまり、「発散」であればなんでもいいと思っています。
おしゃべりな人はずっと、しゃべっていたらいいんです(笑)。
踊りたい人はずっと、踊っていればいいんです。
 
私は昔から、収束型、とにかく受け身な性格です。稽古していれば発散型になれているかなぁ、と思う時もありますが、ふっと、気を抜くと、受身になって、外からの刺激に反射的に反応している気がしたんです。
 
 
 
自分の中で反射的反応を起こしてもらうと、不安を持った自分がすぐに顔を出してきます。駄目な事と、わかっていても、受身状態が続くと、つい、それをしてしまうのです。
自分の事を考えるのではなく、相手の事を考える。相手の身体をじっと見て、自分の身体のように感覚的に捉えると相手の身体を揺らす事が出来るようになってきました。身体が揺れると、体重が動きます。その結果、相手を動かす事ができます。
 
 
 
この方法は相手からも気づかれにくいので非常に有効な方法なんですが、「相手」が必要になります。気を抜いているときにはその「相手」がいなくなってしまうんです。相手を見失ってしまうと、気持ちが自分に向いてしまい、反射が起きます。なんとか、したいなぁ、と思うようになって、ふと、「まわり」も動かせるんじゃないか、と思うようになってきました。
 
 
 
実はこの世界は「自分」と「相手」と「それ以外」で出来ています。いや、そういう考え方があり、それをなるほど・・・と私は気に入っています。
普通、問題があると問題そのもの、つまり、「相手」が気になります。私は自己否定型だったので「自分」を気にしすぎたんですが、「それ以外」にはなかなか気づけません。
大きな視点でみれば、まわりにまで目が行くのかもしれませんが、問題に直面してしまっているときには、なかなか視点を上げるのは難しいです。
 
 
 
その「まわり」も自分の身体と同じように揺らしてみれば動くような気がしてきました。「まわり」が動けば、「自分」もそれにつられ動いてしまいます。結果的に「相手」も巻き込まれてしまう、というわけです。
 
 
 
舌打ちはその「まわり」を意識するためのきっかけです。
小さく「とぅっ」と舌を打った瞬間、周りを気にする事ができます。ボーっとしているときにはついつい、流されていたものが、自分で、その瞬間を作れる気がします。
まわりに巻き込まれている、というのを意識すると力みが減るのを感じています。自分の身体への意識が減るのですから、なんとなく、理にかなっていそうです。
 
 
 
舌打ちっていうのも迷いがないものです。「あー」とか「うー」とか言えばそこに気持ちが入って迷いも生まれます。でも舌打ちは速い。音がパッと生まれて、余韻なく消えていきます。
 
イルカなんかは超音波を出してまわりとのやり取りをする、っていいますよね。水の中に暮らしている彼らは常に「水」という「まわり」を意識しているんだろうなぁって。
全然、関係ないかもしれませんけど(笑)
 
 
 
 
というわけで、思いついたことを思いついたままに書かせてもらいました。
さて、どう育っていくやら。
ありがとうございます。
 
 
 
カラダラボのウェブサイト
少林寺拳法のウェブサイト
http://www.1doing.com/

下駄の効用

 今日は「下駄」の話をしようと思う。最近、ツイッターではつぶやいていたけど、あまりの効用にどうこれを伝えようかと考えているうちに時間が過ぎてしまった。
 多くの人が「靴」を履く。しかし、ぜひ、「下駄」を履いてみて欲しい。そして、それを続けて欲しいと思う。そこにはもちろん、意味はあるし、効果もあるんだけど、続けられる人はそんな事を考えずに、普通に、下駄で過ごす時間を過ごして欲しいと思う。
 

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やっとのこと、屏風座りに手がかりが。

 火曜と金曜はいつも、こんな時間に帰ってくる。
 6時から9時までは少林寺拳法の練習、そして9時からは古武術「大人の武道塾」だ。
 その大人の武道塾はいつの間にか終わる時間が1時ごろになってしまった。それも、こちらでそろそろ終わりますよ、という雰囲気を出してやっとだ(笑)。皆、仕事があるにもかかわらず、「楽しい」ものに向き合っていると疲れないらしい。

 今日もこのまま寝ようかと思ったけど、記録的にでも書いておきたい、と思ったのでパソコンに向かうことにした。

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地面から跳ね返る前の自分

 カラダラボの活動として「わかる瞑想教室」と名前をつけて「稽古」している。

 実はやっている事、考えている事、意識している事、求めている事は「大人の武道塾」となんら変わりない。ただ、それでも名前を変えたのには理由がある。

 「自分」という存在を見て行くのに、入り口として「カラダ」なのか、「ココロ」なのかは真逆にみえるからだ。

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