【思考実験】

退屈な毎日を切る

毎日が同じように続くと、つい、今日も昨日と同じような日になるんだろう、という考えが出てくる。
自分がそのように「考える」事で、さらに、その現実が、強くなって、しまう。そう、退屈、と、考えた自分がいるから、退屈な時間がやってくるのだ。
退屈もイヤだけど、忙しい、というのも考え物だ。何かを求める暇がないほど忙しい時は感情的につらさはないものの、新しいものを探す意志を持つのが難しい気がする。
今日、やってきてくれる甲野先生はその連続性を切ってくれる。今回はしかも、超突然(笑)。連絡をもらった一昨日から、それまで考え続けていたことが、白けてくる不思議さがある。何だろうなぁ、この感覚。
明日からまた、毎日が続くんだけど、それまでの毎日のままでいいの?という自問をしながら、暮らしていく力が生まれてくると思う。さぁ、何を始めようかな。

【思考実験】場の力、リラックスを確認する方法

環境が力をくれる、というのがあります。自分の実力では出来なかった事が、仲間がサポートしてくれたり、締め切りに追われたから出来上がるとかです。この時の力は自分の力ではないんでしょうか?
 
この普段、外へは出てきていない力、これに気づき、自分のものとして使いこなす事を武術の稽古ではさせてくれているような気がします。武術の場面というのは緊張感のある状況です。今の時代はその緊張感をコンピュータや機械が変わりに引き受けてくれるために、私達は感じにくくなってしまいました。
 
楽なのは楽なんですが、だからこそ、自分の中にある本当の力に気がつきにくいともいえます。武術は自分を襲ってくる相手を前にして、今、自分の身体にあるものだけをつかい、脱出する事を考えます。ドキドキするればするほど、いつもとは違ったスイッチが入るかもしれません。
 
違う自分が見えたとき、つい、普段の自分が強すぎると、新しいバージョンの自分から目を離してしまうときがあります。でも、しっかり見つめてください。ものすごく、優しい自分かもしれないし、ものすごく、汚い自分かもしれません。隠されている自分を受け入れて行けば、さらに強くなっていけるはずです。
 
 
 
自分は変わっているのかな?それを判断するのが、身体に感じる感性です。以前、骨が廻っている、という気づきを得た事があります。リラックスできた時には、この身体の中にある骨がふわつっと外へと拡がって行く実感があるのです。リラックスしたいのなら、自分の骨を廻してくれるようなモノや人をおけば、さらに効果的です。
 
リラックス、という言葉はみんな知っています。でも、本当に自分がリラックスしている、という経験がなければ、誰かのリラックスの手助けはできません。リラックスと逃げは違いますからねぇ。緊張感のある場面でもリラックスし続けるカラダを作ってください。

【重要】大切なものはムダ話の中に

稽古の後にお茶会が出来る時があります。そこで話される話題は技の話から、仕事の話、子供のころ、学生時代の話、趣味の話、恋愛の話、お金の話、とにかく何でもOKなんです。つまり、ムダ話です。今日、そのムダ話こそが、大切なんだ、と雷に打たれたように気づきました!
 
技や術はドンドン進んでいます。突然出てきたような気づきも、時間をかけると、上手に説明できるようになってきます。「上手」とはしっかりとこの身体を意識して、手順化できる、という事です。つい最近は「心臓」から動く、「心臓」を主役にして、それが動く、というのをやりました。自分の中に具体的な感覚として心臓がそこにある、という事が出てきましたから、今、自分が動いている手順を示せばそこに夢のような技が生まれてきます。でも、それは自分が心臓という、これまで自分の中にありながらも見てこなかった部分を感じられるようになったからこそ、動ける手順です。
 
それでも、この新しく見つかった感覚を伝えれば、誰でも、その夢のような技ができると思っていました。いや、現実に、自分の中に「心臓がある」と感覚が生まれれば出来るんです。しかし、出来ているか出来ていないのかがわからないんですね。そこで、分かれ道が出てきます。稽古を続けるのか、やめるのかです。
 
この仕事を選択した事で、ご縁ができ、ありがたい事に、私の話を楽しみにしてくれている人がいます。その人たちにはちゃんと伝わるんです。その人たちは主に、初期のころからご縁が生まれた方たちです。今のジュツリに比べたらものすごく幼稚なジュツリだったにも関らず、そこに興味を持っていただけました。なぜ、稚拙な時の人ほど残って、今のようにはっきりとした結果が生まれるジュツリを受け取った人と深く、生きる事を語り合えないのだろう?と不思議に思っていました。
 
 
 
その理由が分かった気がしたのです。
大切な事は大切な事だと思っていた事ではなかったんですね。身体を通して見えてくるもの、それは意識化できなかった身体です。上腕もそう、心臓もそう、骨もそうです。まだまだ自分の身体には存在はしていても、意識化できていないものが山ほどあります。それに気づき、喜び、その感動を伝えようと、頑張ってきたつもりです。でも、その頑張りがダメだったんだ、と気づいてしまいました。
 
というのは、自分が大切だと思ったのは、この意識化できなかった部分としての身体です。その意識化できていない身体を意識するための動き方を主に紹介してきました。上腕であれば、上腕を掴んで、あえて、意識させて、その効果を感じてもらいました。意識をして動けば、結果は間違いなく、変わってきます。すぐに、「出来て」しまうのです。
 
しかし、これは長続きしない場合があります。意識化のお手伝いをすれば、意識できるものの、つい、また、忘れてしまうんですね。いつまでも、意識できる動きを続けるためにはそれを「しよう」とする意思が必要になってきます。だからこそ、型稽古には厳しくて、細かい手順が残されているんだと思います。
 
 
よっぽど、その技を求めているなら別ですが、ほとんどの場合、余暇の上で、学ぶ事が多いはずです。切実な問題としては捉えていません。つまり、それを身につけるための方法は分かっても、それをやりきれないということになります。
 
私は無名な存在ですから、わざわざ私についてきてくれる方は我慢してついてきても、なんのメリットもありません。本当に、感謝をしなくてはいけないのですが、私の話を聞いてくれるわけです。自分の中に聞いてみよう、という気持ちを持ってくれるからこそ、大切なお金と時間をかけて、会いに来てくれます。でも、それは「テクニック」を求めてではないような気がするんですよね。
 
先にお話したように、やる事は同じです。でも、やりたい、やるぞ、という気持ちがなければ、動く事をやめてしまうんです。ですから、最初にはこの人の話を聞きたい、と思ってもらわなくては始まらなかったんですね。「この人」が良く分かる事とってなんでしょうか?それがムダ話なんだと思います。
 
技の話は覚えればいくらでも出来ます。得意分野の話もできるでしょう。でも、興味のない分野の話やキライな事に対しての話、ありとあらゆる話題を通して、なんとなく、その人が出来上がっていくんじゃないでしょうか?そこに作られた、自分の中のその人が信用に当たる人であれば、その人が話すテクニックも壁を作ることなく、自分の中に入ってくるように思います。
 
 
 
とにかく、なんでも良いんです。無駄な話が必要なんだな、とわかりました。自分で自分を見ると、ついつい、この自分が気づいたこのテクニックをこの人に渡したい、と考えてしまいます。でも、その人はそんなテクニックは求めていないんです。自分が目の前の人を信頼出来るかどうかを無意識は探っているかもしれません。無駄な話、たくさんします。決めました(笑)。一緒に、お付き合い下さい。

【思考実験】ジュツリがプロセスを作る

なにかをしようとする時、頭の中に行動のゴールと手順、ステップが浮かんでいるはずです。それが、ボンヤリとしたものであっても構いません。理想とするゴールはそれぞれ違うかもしれませんが、なかなか、なにも頭に浮かべずに行動することはなかなか、大人には出来ませんよね。そして、自分の中に描くゴールもどうしても、誰かがもう、やっていることをベースに作ってしまいます。これまでになかったもの、誰もしなかったことを想像するのはなかなか、簡単ではありません。
ゴールを描く能力自体はネットやメディアの発達で昔よりも簡単になっているでしょう。そして、その手順も言葉にも映像にも残るようになりました。それでも、困るのです。なぜか、失敗してしまうことがあります。この時、必要なものは新しい目標、ゴールでしょうか?それとも新しい手順、ステップでしょうか?
実は、全く違う要素があります。それがジュツリです。この体をつかって生きている以上、どんなことをしても、この体に引っ張られてしまっています。頭では100%、やることはわかっても、体が言うことを聞かないときがありませんか?
そんな時に有効なのがジュツリです。
この体の動かし方、どんなに体に緊張がはしって、動かなくなっても、それに負けずに動かし続けるための動かし方です。体にとって、無理の無い動かし方がわかってくれば、体が動かなくなって、心がパニックになってしまった状態でも、自分を見失わずに、一歩足を進めることが出来ます。
ゴールもステップも皆さん、わかっています。その間のプロセスを進めるためのジュツリが、「ある」と分かれば、それだけで、状況は動き始めます。

【思考実験】空気を読むのがキライ、もう読まない

今日、稽古の後の食事会の中で、はっ!と自分の苦手なものが分かってしまった。
 
そう、空気を読むのが大嫌いだったのだ。
気まずい空気が漂ってくる時がある。それは私にとってだけ。目の前の事に対して、自分が分からない、と感じてしまった時、自分に対して嫌悪感が生まれてくる。自分がわからない、と思う時、大抵、まわりの皆は、なるほど~とうなずいている。その空気にあわせることがキライだったのだ。
 
それでも、これまで、無理にその「わかっている空気」にあわせようとしてきた自分がいた。いや・・・これはきつかった。もう、やめよう。
分からない事にはわからない、と答えていこうと思う。
まだなにも変わらないけど、気持ちよく空気が吸えるような気がする。