大人の武道塾

気持ちを交換できると楽しい

今日は「交換」という事をお話します。

ある人は「交換」は人間の条件ノ一つだと言いました。交換の定義はたくさんあるでしょうが、確かにお金を通して交換をするのは人間だけですし、自分の元気を相手に分け与えていく事、もらっていく事で次の新しい世代を生み出していっている、とも考えられます。
 
 
 
最近、何度もお話している「力」で考えてみると、これがすごくよくわかります。交換できると楽しいんです。動物がこの楽しさを知っているのかは分かりません。人間だけなのかもしれませんし、そうで無いかもしれません。

まぁ、どちらでも構いません。大切なのは「自分が」その楽しさをちゃんと実感をしているのか・・・という事でしょう。

私の場合、どうも今まではそれが「なんとなく」、だったわけです。もちろん人間ですからもらったらうれしい、という気持ちがありました。ただ、それをしっかりと受け止め、渡していたか、と言えばあんまり上手にはやれていなかったような気がするんです。

基本的に自分の事を内向的だと思っています、周りはどう思っているかは分かりませんが(笑)。うまく表に出していけないんですね。まぁ、毒を吐くように外へ文句をつけていくよりはいいじゃないか、と言えばそうですが、こと、交換する、という点から考えると、上手に受け取っていない、というのは良いことではありません。

貰い下手なんですね。

この仕事を始めるようになって、たくさんの「感謝」を頂くようになりました。言葉や態度を通して頂くその気持ちはとってもうれしくなりますが、これまであまり経験がなかった事ですので、どうも恥ずかしいんです。自分が渡したと思っているもの以上に感謝をされるとつい、感謝をされるのを抵抗しちゃうんですね。

謙虚でいいじゃないか、という考え方もありますが、こちらから出した元気を受け取ってもらって、それに対してありがとう、という感謝を相手はしているわけですから、それはしっかり受け取らなくてはダメでしょう。いや、むしろそれをしっかりと受け止める事で、もっと「繋がる」という気持ちが生まれるのではないかと思います。
 
 
 
どうして恥ずかしいのかな、と思ってすこし考えて見ました。

これまでの仕事は自分の気持ちに対して感謝をされると言うよりも、自分の持っていた商品やサービス、技術に対してお金を払い、その上にあった少しの気持ちに対して有難う、という言葉を貰っていたと思うんです。

これは仕事に対する姿勢だと思いますが、自分の与えられている分だけを働けばお給料はもらえます。ただ、商品にプラスをして気持ちをこめて仕事をすれば相手にもその気持ちは伝わっていくのではないかと思うんです。「通常ありえない」程の気持ちがその商品やサービスに乗ってくれば同じものを買っても、ちょっと違うはずです。
 
 
 
先日ディズニーランドで働いていた人の本を読みました。そこに書いてあったのはゲスト(お客さん)に対するとても大きな気配りです。ディズニーがすごい、と言ってもなにがすごいんだろう・・・とずっと考えていました。それこそ「同じような」テーマパークはたくさんあります。バブルの頃だと思うのですが、各地に「同じような」ものが作られました。でもどうも、よくない。違うようです。

姿、形は似ていても、中身が違うんでしょう。では中身ってなんだろう・・・と言った時に考え方だよ、と言われてもピンときません。一生懸命やる、というのは当たり前です。ただ、私の場合、一生懸命やっていても、どうも上手くやれていない感、を持っていたんです。自分が何をしていいのか、わからない、そういう人って少なくないんじゃないかと思います。
 
 
 
具体的に繋がっている「力」をカラダで感じられるようになって、ディズニーのすごさが分かりました。これは違う・・・と。そこにあったのはとにかく思いなんです。誰にでも1万円と言うものさしがあります。損した、得した、というのは自分のものさしでの価値観です。形あるものであれば原材料や手間賃から大体の値段が決まってきます。テーマパークで一日遊んで1万円、というのはまぁ、普通でしょう。

しかし、形のない「思い」というのがあります。
 
 
 
「連鎖」の話にも繋がりますが、嫌なものを見たときには自分の力を「奪われた」という感じがします。逆に奪いに行った時、与えてもらえば元気として力が増えていきます。

例えばテーマパークで働いている人が楽しそうに働いていればこちらにその楽しさが伝わってきます。貰っているんです。でも、「時給」という考えで、ただ、切符を切るだけだよ~と、「役割」だけの仕事をしていればこちらの中に嫌な気持ちが生まれます。奪われちゃうんです。
 
 
 
今の時代は目に見えるものに価値が認められる時代です。同じ時間を働いているのだから、同じ給料を貰う、というのはまぁ、当たり前に思えます。でも、嫌な顔をして働いている人と、楽しそうに働いている人がいれば当然お客さんとの間で交換している力は全然違ってきますよね。

多少のボーナスはあっても、それで給料が何倍にもなるようなシステムはほとんど聞きません。でも、そういうのってあると思うんです。お金を払ってでも、こいつは使いたくない・・・というような人が。
 
 
 
目に見えるものだけを考えてしまうから、一生懸命になれないのかもしれません。でもカラダで感じられる「力」というのを基準にして、笑顔を貰えばうれしい、ブスッとしていたらとられちゃったなぁ、と分かれば、どんどん渡してあげればいいじゃないですか。むしろ、どんどんと渡してあげたくなります。

・・・で、最初の話です。渡した時に喜んでもらってくれればうれしいんです。ちゃんと届いているのですから。だからこそ上手にしっかりと受け止めたいなぁと思ったんです。
 
 
 
昨日の浜松の中日文化センターでは感謝というありがとうの気持ちも自分の力になるんじゃないか?というお話もしました。集中力の話の中での事です。

ココロの力は見えない力です。カラダを動かす事で生まれてくるココロがあります。私は感性を育てない生活を長くおくってきました(笑)。でも、女性は特にその感性というかココロの力を強く持っていると思うんです。ただ、そのココロの力をカラダに力として変換できていないんだろうなぁ、とお話しました。

目に見えない力をお話しするのは「怖い」です。誤解が生まれてしまう時もあるから。それでも、伝えておかなければいけない事です。見えないけど、あるんですから。
 
 
 
うれしかったのは、その話を受け取ってくれた人がいると言う事です。それも何人も。ある女性は昨日の講座に来るのを止めようか、と思っていたそうです。精神的につらかった事が続いていたそうです。自分で鏡をみたら鬼のようだった、と言っていましたからかなり辛かったんでしょう。でも、数日前から責めるだけではなく、相手の事を思って感謝してみようと始めていたらしいんですね。すると、ちょっと「楽」になりだしたそうです。だからこそ昨日の講座で私の話がすごくよくわかる!と笑顔で話してくれました。

自分が渡したもの以上に、喜んでくれたんです。精一杯の感謝の言葉をいただけたわけですが、これが恥ずかしい(笑)。昨日の私はちゃんとそれを受け止めれたのでしょうか(笑)。
 
 
 
上手に受け取り、渡したい、というのはやまやまですが、なかなかそれは上手く出来ません。それでもそういう「力」が元になって、「交換」されていくんだと知っていれば、ちょっと態度が違ってくるかもしれません。

こういうのを価値観がかわる、と言うのかもしれませんね。アタマだけでそれを望んでできる人はいいですが、私には無理でした。でも、「よく動く身体は稽古を通して作る事ができます」。カラダが動くようになってくれば自然とココロの働きにも敏感になってくるみたいです。やっぱりココロとカラダは「同じもの」なんですね。

女性の方であれば、花を見てきれいだな、という感性をカラダで力として表現できるんだ、という事を目標にすると早いかもしれません。そういうお手伝いもしていきたいと思います。
 
 
 
ありがとうございました。

悪意と善意の連鎖の話

力にはカラダから出る力だけでなく、ココロが受け止めたことで、カラダに現れてくる力があります。その元となるものを「興味」と名づけて稽古をしていますが、集中力の事を考えるようになり、ココロが受ける力もしっかりと集めて使っていかなくては、と思うようになりました。

「力」として認識できる概念が拡がったからなのでしょうか、自分から生まれている力が繋がってまた、戻ってくる事に気づきました。
 
 
 
今日は、力は連鎖していく、というお話です。
 
 
 
チョット前に山田ズーニーさんの本を貸していただきました。小論文の書き方だったかな?普段あまり読まないジャンルの本です。書き方、といってもそこにあったのは気持ちを伝える、という事でした。そのためには自分の気持ちに正直にならなければなりません。

その本の中に悪意の連鎖、という事が書いてありました。正確な中身は思い出せませんが、意図しない中で繋がって「しまう」ものがあるんだ、と言う事を教えてもらいました。

無意識に働いている力が小さなものなら構いません。ただ、どうも知らなかったでは済まない話しかもしれないのです。もちろん、読み終わったときにはなにも変わっていませんでした。ただ「連鎖」という言葉はココロに残りました。なにが、どうやって繋がっていくのかな・・・?と。

本に出会ってから数ヶ月、ようやくカラダを通して理解が出来たのか、「連鎖」という言葉がぴったりの感覚が生まれてきたんです。カラダに現れている力は恐ろしいほど相手に向かっているし、自分も気がつかないうちに受け取っているみたいなのです。連鎖しているんですね。
 
 
 
もう一度言います。力は連鎖していくんです。この時の力は具体的な力ともいえますし、言葉や態度を介して行われるココロが生み出す力でもあります。
 
 
 
例えば自分が応援されることで力をもらうとします。楽しい気分で他の人に会えば、その人にも楽しさは伝わって行くはずです。

もしこの時、自分の楽しい気持ちを相手が受け入れずに、ヤキモチのような気持ちを持ったとします。「いいなぁ、お前は気楽でさぁ・・・」なんて。これは、こちらの楽しい気持ちが繋がらながった、と言うことです。相手に不快な思いをさせてしまった事も問題ですが、それは自分の楽しさの表現がまだ足りなかった、という事なので、もっと向上させていくしかありません。

問題は相手がイヤな気持ちを持っていたことに対して、自分がイヤな気持ちを持ってしまった事です。これは相手からのイヤな気持ちがこちらに伝わってしまった、と言うことになりますよね。

こちらの楽しさの感染力よりも、相手のイヤな気持ちの方が強かった、と言うことです。
 
 
 
問題はここから。相手からもらったイヤな気持ちはどこに行くんでしょう?気がつかない間に相手からの嫌な気持ちをもらってしまい、自分の機嫌が悪くなった状態で人に会えばそのイヤな気持ちが関係のない第三者に自動的に伝わってしまう可能性があります。
 
 
 
例えば機嫌がよければ子供が片付けをしていなくて遊び回っていても、それは元気だなぁー、とにこやかに過ごせます。しかし、機嫌が悪かったのなら、片付けのしない子に向かって怒ってしまうかもしれません。

ここで確認をしておきます、どんなに機嫌が悪くても優しい気持ちを持ち続けられる人には話しをしていませからね(笑)。そういう人になりたい気持ちはとっても強いですが、どんなに優しく、見守りたい、と言う気持ちがあってもなかなか機嫌の力には勝てないんです(泣)
 
 
 
ただ、それは無意識の力を理解していなかったから。自分が機嫌悪くいることに対してそれほどの罪悪感を持っていなかったからなんですね。

でも、自分は悪くない、というのはどうやら大間違いみたいです。愚痴を言ったり、怒ってみたり、自分の不快を自分がそのまま出してしまえば、周りにいる人にその姿、態度を見せてしまう事になってしまいます。自分自身は怒りや不満を外に出すことで、発散できて満足が出来るかもしれません。無意識的にも。でも、自分の自覚のない態度がこんなにも人に嫌な気持ちを持たせてしまっているとは・・・気づいてしまった以上ほっておくわけにはいけません。
 
 
 
悪意も善意も、とにかく、自分の中の気持ちは周りにいるたくさんの人に繋がっていってしまうんです。
 
 
 
この時、相手に悪いから機嫌を悪くしておくのはやめよう、と言うのもひとつの理由です。

でも、そうすると自分の中に敵と味方を作ってしまいます。味方だと思った人にはどんなに機嫌が悪くても、大切な人ですから、気分良く接したい、そう思えるのは普通です。その伝わる気持ち良さが、また他の人に巡っていくからです。

しかし、それが敵だと思ってしまった人ならどうでしょうか?自分の中の嫌悪感が、その人を経由して、また誰かにぶつけられるかもしれません。そのだれかはまた自分よりも弱い立場の人に自分の中のイヤな気持ちをぶつけていくことになります。例えば、その人の子供とかに・・・

この悪意の連鎖はどこまで続くのかな?どこかで止まる、というのが「確か」であればまだいいのですが、他の悪意とつながり合ったりして、もっと巨大なものになるかもしれません。ずっと存在したままと考えると怖いです・・・

どこで使われる用語だったかな?バタフライ効果、というのがあります。アメリカで蝶々が羽ばたいたことで生まれた風がめぐり巡って世界の天気まで影響を及ぼす、と。巡っていく間に色々な要素が絡み合い、どうなるか予測が不可能になるわけです。
 
 
 
連鎖の力を認める事で自分が無意識でしている悪さに気づきました。言葉や行動はもちろんですが、態度もそうです。ただ「立つ」という姿も、イヤな気持ちで立つのと気分良く、楽しく立つのとでは、それをみている人の気分は変わっているはずです。

イヤな気分で立ち、なにもしてないだろ?と言われても、イヤな気分にさせられました、と言いたくなります(笑)。じゃあ、気分良く立つってどんな風?と考えてみると、結果的にこれまで工夫をしてきた、より力のこもった立ち方なのです。

心と身体は一つのもの、といっていますが、本当にそうなんだ、と実感します。
 
 
 
普段の生活を考えれば、そこにある動作や行動はじつに複雑です。どんな言葉を使うか、というのもそうですね。

これは正しいか正しくないかではないんです。どんなに正しい事であってもそれを受け取っている人がイヤな気持ちを持ってしまえば、そこから機嫌の悪さが繋がって行きます。むしろ、自分が正しい事を言っている、と信念を持ったときこそ大変かもしれません。正しい事だからといって、相手に嫌な気持ちを生まれさせてしまえば、恨みにも変わってしまうかもしれませんから。

理論の成否ではない、というのは現代ではかんがえにくい事かもしれません。それでも不機嫌はつなげてはいけません。
 
 
 
だからこそ、伝え方を考えなくてはいけないのです。目の前の相手を敵として認識をして向き合ってしまってはどうしても厳しい言葉や態度になります。

難しいのは当たり前、それを理解した上で大切な人と思う事が出来ればいいですよね!
 
 
 
ここで、一つ嬉しいお知らせがあります(笑)

実は相手のために機嫌良くするのではありません。自分の力は出せば出すほど帰ってくる力が多いのです。この辺りのことはまた別の機会にまとめたいと思います。とにかく出したものは帰ってくるんです。
 
 
 
応援されている力を意識すると、そこには元となる種があるように感じます。自分の力に賞味期限がある、というのはお話しましたでしょうか?奪われまい、としてカラダの中に力をためてしまえば、やがてそれは腐ってしまい、お荷物になってしまいます。

自分の持っているモノを手放せば手放すほど、また戻ってくるんです。この時、恨みや呪いとして外に出し続けるのは大変です。イヤな気持ちは身体を緊張させますから。そんな状態を続けたら倒れちゃいますよね。嫌な気持ちを続けるのはカラダにとって負担ですが、楽しい気持ち、応援する気持ちはその逆で自分のカラダをリラックスさせてくれます。
 
 
 
相手のためなんだけども、自分のため。矛盾していますが、つながつているんです。矛盾を、矛盾無く、矛盾のまま、というのは甲野先生から教えていただいた言葉です。どうしても答えを求めてしまうのはアタマの癖なので、仕方ありません。難しい問題ですが、カラダに聞く事が出来れば何とかなりそうです。
 
 
 
自分のために、というのであれば行動も起こしやすいのが人間です。それが元になって行動を始められたときに、相手のために、と考えてみるんです。これまで考えた事がない「相手のため」と。見方が180度変われば当然、考え方が変わります。考え方が変われば動きが変わってきてもおかしくありません。

興味のあるものと興味のあるものの間に興味がないものが見つかった、と言うお話をしましたが、視点が変わる事で考え方は全く変わってしまうのです。実は今日の話はちょっと前にお話をした「眼差し」についての展開なんです。

どうしたらもっと、喜ばせてあげられるんだろう。そう考えています。今までは自分の事で精一杯でした。余裕ができたら…じゃないんですね。

悪意が連鎖する、というのは恐ろしいことですが、楽しい気持ちも繋がってくれる、と思うと嬉しくなります。今こうして楽しく仕事が出来るのも楽しい気持ちやありがとうと言う言葉を頂いているからです。こちらこそ、本当にありがとうございます。
 
 
 
・・・う~ん、それにしても全然まとまっていませんね。普段の文化センターの講座でもうちょっとしっかりしていますのでご安心を(笑)。こんな稽古をしているのはアクテノンと定例での稽古ぐらいですから。

なにかあればお便りください
jun@karadalab.com
http://www.karadalab.com/

集中力をつけろ!その3

今日は相手をおなか一杯にしてやろう!というお話です。

集中力が大切ですよ、という当たり前の話にもそろそろ飽きてきた頃かもしれませんね。ただ、いまこうして、当たり前とも思える集中力の話をこんなにもしているのは、僕がそうであったように、先入観で大きな気づきを得る事ができなかった悔しさがあるからです。

いまこの日記を書いている僕は「凡人」です。体だけは大きいけれども、感受性や手先の器用さ、リズム感等は恐らく人並み以下。子どもの頃からずいぶんと劣等感を育ててきました(笑)。

それでもいま各地で講座や仕事をいただくようになり、先生、と呼ばれています。以前の事を思えば気分のいいものとも言えますが、同時に、先生しかできない、と思われる事があり、困ります。

凡人、と書きましたが、人間には素晴らしい能力が与えられている、稽古を続けて来れたおかげでそう確信しました。いま、こうして恥ずかしながらも色々と外に出しているのも、誰にでも備わっている力を伝えていきたいからです。

言葉で伝わるのなら、いくらでも書いていきます。ただ、言葉では伝わらないモノもあるのが現実です。その微妙なニュアンスの違いが怖くてこれまで、出してこれなかった部分も、それを認めて必要としてくれる人もいる事もわかり、こうして言葉にしようと思いました。

そうココロに決めて日記を書くようになってうれしいメールもいただくようになりましたが、それ以上に分からない!といっている人も多いはずです。でも負けません(笑)。
 
 
 
講座の中では「話半分で聞いてください」と言っていますが、これは冗談ではありません(笑)。自分流にドンドンと作り変えて行ってくれればうれしいです。
 
 
 
さて、改めて集中力のお話です。これまで気づかなかった力があるよ、というのはお話しました。結果として、自分の中により大きな力が存在するという事があると思ってください。この力の大きさを「体感」するのとしないのとでは自分に対する信頼が全く違ってくるんですね。
 
 
 
相手と向かい合い、なにかをするというのは自分の力と相手の力がぶつかり合うという事です。つまり、力の奪い合いです。

これがゲームであれば自分のエネルギーと相手のエネルギーとを目でみて比べ合う事ができます。そしてそのエネルギーのゲージがゼロになれば負けになりますよね。それと同じような事が、実際の場面でも行われているんです。
 
 
 
いつものように、そういうものだと仮定して話を進めますね(笑)。
 
 
 
とにかく、相手は力をよこせ!と襲い掛かってきます。自分が対応できる間は余裕を持って対応ができますが、自分の限界を感じるようになれば、必死に自分の身を気にするようになります。当たり前ですよね。
 
 
 
この時、なぜ自分に焦りがでてくるのかといえば、自分の持っている力がなくなる事を感じてしまうからです。どんなにアタマで「相手の為」と思ってもいざ、自分の身に自分の認識している以上の力が降りかかってきた時には逃げたくなるのが人間らしさですよね。自分を犠牲にして行動できる人って多くありません。

武術に魅力と可能性を感じているのは、アタマでわかっている事を身体で体感できると思うからです。

師匠の甲野先生はできねば無意味、と言われました。言葉どおり受け取ると乱暴なようにも聞こえます。しかし、どんなに正しいと思える事をアタマで考えたとしても、それを身体で表現ができなければこの世の中では意味がありません。

良い事悪い事は小学生でもわかります。しかし、大人になって悪いとわかっていてもやめられない事は山ほどありますよね(笑)。

人間はそういう弱い存在なのかもしれません。それでも、稽古を重ねて行くと、自分が成長している事を実感できます。歳を重ねて行くと、衰えも感じますが、それ以上に自分の中にある力の使い方が上手になるんです。
 
 
 
また話が脱線してしまいました(笑)。
 
 
 
とにかく、よこせ!という要求があるわけです。集中力を実感して力を集めていたら心境の変化がありました。ようやく、今日の本題にたどり着きました(笑)。
 
 
 
欲しいならいくらでも持って行って…
 
 
 
そんな気持ちが生まれていました。

相手は奪いにくるのです。でもこちらには余裕があります。力がたくさんあるような気になっているんです。

この集まった力は筋力や構造の力はもちろんですが、自分は応援されている、恵まれている、といった背中を押してくれるココロの力も含みます。むしろ、ココロの力の方が大きいのかもしれません。
 
 
 
力の在庫が多いからこそ余裕がでたんですね。根が大雑把、という事もありますが、きっちりと自分の力は自分のもの!として扱いたい人はどうかわかりませんが(笑)。
 
 
 
余裕で対応したい、と念じても実際にその余裕を身体で感じていなければニセモノになってしまいます。

あっ、でもプロ並の演技力があればそれも可能なのかな?しかし、そんなものは私にはありませんでしたから(笑)。演技は苦手、という人用の話だと思って聞いてください。
 
 
 
問題は力の在庫の量ですが、考え方によってはとてつもなく大きな力になりそうです。どこまで幸せを拡げていけるかですからね。それこそ自然を相手に高い感受性を持っているのなら無限に近いかもしれません。

改めて書きますが、思っているだけで力にならなければ全く無意味です、厳しいようですが。環境破壊と科学の恩恵のようなものです。どんなに弁が立っても、実際にどう動いているか、つまりどんな変化がカラダに起きているかが大切です。。この矛盾した考えを受け入れているかどうか不安になりますが、そこを確かめられるのがカラダなんですよね。

相手が求めるだけ全てを与えてみると、相手にも心境の変化が生まれているようです。「お腹いっぱい!」という表現でわかりますでしょうか(笑)。どんなに求めたとしても、自分の中に蓄えられる力には限りがあります。奪ったつもりであっても、それを使いきれずに蓄えてしまった事で、逆に身動きが取れなくなってしまうような感じです。
 
 
 
こういう喩えはどうでしょう。嫌がらせをしてくる相手に、敵対せずにニコニコまっすぐに付き合っていたら、自然と争う気持ちが相手から抜けてしまっていた。

相手を打ち負かせて勝負を決めるのとは違った終わりの形です。

相手にも感謝をしなさい、自分が許せない相手も許す努力をしよう、というのはこんな感じなのかな?と考えました。
 
 
 
稽古とは研究だと思っています。自分の知っている知識をフルに活用して、より納得の行く生き方を探して行く事が楽しいんです。もちろんそこには答えはありません。理想はあるかもしれませんが、その理想を受け止めるだけの器が求められている気がします。

せっかくメールを頂いてもうまくお返事を返せない事もあるかと思います。それでも頂いた言葉一つ一つがこの先の気づきにつながっていると思っています。感謝します。ありがとう!

暖かい眼差し

集中力の話が続いていますが、ちょっと気になることがあったので、聞いてください。

昨日の稽古の後、共同研究者のI君が身体を回す時に視線が外れるのが気になる、といってきました。

彼はいつも唐突です(笑)。その斬新な指摘にどれだけのヒントをもらっているかわかりません!とりあえず、目の使い方というか、目を通して感じられる力のことかな、と解釈したんですね。

ちなみに彼とは幼稚園の頃からの付き合いです。普通とは違う発想力にはこれまでも驚かされていました。ただ、若かった頃はその発想力に驚いて、認める、というよりは仲間全員でその発想はおかしい!と非難していました。おかしかったのは普通の発想しかできなかった僕の方なんですね。ようやく、彼の発想についていけるだけのアタマの柔らかさを手に入れることができました(笑)。どんなアイデアもまずは受け入れるところからスタートしたほうがいいみたいです。 
 
 
さて、話を戻してその目の力ですが、モノからモノへと視線を移す時に違和感があるというのです。

なんだろう?どんな違和感なんだろう?そのことを考えながらモノからモノへと視線を移しました。

そこにあるのは「認識」です。好きなモノ、気になるものであれば自然とそこに興味がわきますよね。いや、嫌いなものもそうかもしれません。自分が作っている世界から排除したいもの、それが嫌なものです。

好きなモノも嫌いなモノも、興味が湧く、という点では共通しています。

そして、今違和感を持っているのはその間です。その間にはなにがあるのか…?
 
 
 
アタマの中だけで考えるのではなく、実際に身体を使ってその違いを求めていけることがカラダラボの強みです。今まで気にならなかった部分になにがあるのか、カラダの変化を意識しながら動いてみました。

浮かんだアイデアを言葉にして、その言葉からまた次のアイデアに結びつけます。そして一つの答えにたどり着きました。
 
 
 
それは、興味のあるものと興味のあるモノの間には興味のないモノがある、という事です。
 
 
 
こうして言葉にして見るとあまりにも当たり前で、この興奮が伝わるのかなぁ~という気になりますが、いつもの稽古を御存じの方であれば、なんとなわかってもらえるのではないか、と期待して話を続けますね(笑)
 
 
 
興味のないモノとはなんでしょう。もしかしたら興味がないモノは、存在しないものとおなじ事なのかもしれません。これまで、その興味のないモノを考えて動いた事はなかったわけですから。

実はここで、これまで話をしてきた集中力がポイントになるのですが、興味がないモノを身体を通して考えてみます。つまり、力というモノサシで違いを体感するわけです。
 
 
 
答えを先に書いておくと、興味のないモノを認識して、そこに「も」力を集めて行くと、もっと大きな力が帰ってくる事がわかりました。理論的にどうかはわかりませんが、具体的な力としてつかえるわけですから、これを見逃すわけにはいきません(笑)。頑張ってこれからつじつまを合わせていきますので、期待してください!
 
 
 
ではなぜそんな力に変換する事ができたのか説明します。それにはまず、こういう考え方の前提が必要です。この前提に同意ができない場合はこの先の理論は全く意味をなしません(笑)。

その前提とは、力を相手に与えれば与えるだけ自分の身体に力が戻ってくる、という事です。相手を敵視して壁を作ると力が壁で衝突します。そうなれば単純に力の大小で勝負が決まります。
でも目の前の相手を友達のように認めてみれば自分の力に相手の力を合わせた力を使う事ができるのです。

昨日、向かい風と追い風の話をしました。興味のあるモノは追い風です。そして興味のないモノは向かい風になります。その風の強さは自分の興味の大きさによるんです。ですから、常に全力で興味を持てるように意識して、認識するつもりで動いていました。頑張っていたんです。

好きなモノでも嫌いなモノでも認識には変わりありません。嫌いなモノをプラスに変換できるようになってきたなぁ~と感じていましたが、まだまだそれは未熟だったわけです!深すぎますね、カラダの世界は(笑)
 
 
 
興味のあるモノと興味のあるモノの間にある興味のないモノ。どちらが大きいと思いますか?ちょっと考えてみてください。
 
 
 
僕の場合は「圧倒的に」興味のないモノでした。どんなに認識を細かくしても、この興味のない世界の事は忘れていました。

具体的なモノとして名前をあげれば、その興味のないモノの一つは「空気」です。本当は空気ではなく、ないと思っていたもの全部ですからもっと抽象的なんですけどね。

とりあえず話をつなげていきたいので空気としておきます。
 
 
 
具体的なモノには自分の持っている力を渡す事ができます。じぃ~と一点を見つめるのであればそれほど違いはないかもしれませんが、生活は認識を絶えず動かす事で成り立ちます。

この時、認識と認識の間に隙間が生まれていたんじゃないかなぁと思ったんです。武術的にいえばそこは隙になります。自分が認識していない空間と時間が出来ているわけですからね。いくら一生懸命にやろうとしても、気づかない間に出来てしまった隙はどうしようもありません。

自分の全力が注げないからこそ隙になるわけです。今、興味のない世界に気づく事ができました。気づいた事で自分がこれまで行ってきた事がかわるかといえば全く変わりません。なぜかといえば、自分が認識しているモノ全てに分け隔てなく、全力を注いで行くだけだからです。

自分の目の前に広がるもの全てに自分の力を注いで行く事が結果としてより大きな力になって戻ってきます。
 
 
 
本来であればもう少し検討をして伝えるべきだったかもしれません。でも、自分の中で生まれて来た気づきをリアルタイムにそのまま伝える事も面白いかもしれない、そう思いました。もしかしたら、この先研究を続けると、今とは違った認識に変わって行くかもしれません(その可能性は大です^^;)。それはそれでより精妙な動きに気づく事ができたという事ですからハッピーな事なんです。
 
 
 
ただ、もう少し、集中力について考えている事があるので、次回はまた集中力のお話です。たぶん(笑)

ありがとうございました。

集中力をつけろ!その2

いきなり日記が長くなり、読みにくくなったりしたかもしれません(笑)。それはちょっと心境の変化があったから。

もともと書く事に関してコンプレックスがあったわけですが、自分が感じたことを伝えればいい、と思ってからは書く事に関して抵抗が少なくなりました。ただ、上手に、伝わるように書こう、書きたい、という気持ちがありました。無いものねだりの欲みたいなものです。

もともと私の講座でも、上手に伝えよう、というのはありません。押し付けることはほとんどありません。だからこそ、教えてくれ~と助けが欲しい方にはちょっと不満が残るかもしれません。ただ、もっと自分の事を知りたい、楽しい可能性を感じたい、という人にはこのスタイルが好評のようです。

普段稽古の中で試行錯誤しながらより楽しいことを探しているように、日記の中でもそれをすればいいや、と思ったんですね。普段稽古に来ることが出来ない人に稽古の雰囲気が伝わればなおいい、と思いました。

少ない文字数で美しく伝えることは諦めました(笑)。

その分、思っていること、感じていること、思いついたことをこれでもかぁ~と残していければと思います。自分にとって都合のいいところを取っていっていただければうれしいです。
 
 
 
それでは集中力について続きを始めます。

集中力をテーマに発想を広げていますが、こうして色々と考えた事を言葉にしてみると、なんとなくすっきりします。自分の中のこだわりを話すことで手放しているようです。ブログを通して付き合ってくれている皆さんにとってこの話がメリットになっているかはわかりませんが、気に入ったところが一つでもあればうれしく思います。

さて、今日は集中力についての2回目の話です。前回は集中力という言葉をしってはいても、「どんな」力を集めてこれるんでしょうね、という問いかけでした。そこで筋肉の力や骨による構造の力、そしてココロの力までも自分の力と認識すればこれまでよりも大きな力を発揮できるんじゃないか、という事でしたね。

ではもう使える力って残っていないんでしょうか?

いやいや、そんな事はありません。

自分の中に力をたくさんの力を認識してもらいました。その力は自分特有のものでしょうか?自分だけが神様から得たスペシャルな力でしょうか?違いますよね。みんな同じ人間です。自分に備わっている力は相手の中にも存在しています。

簡単に・・・とは言いませんが、自分の中に見つかった力はまだ自分のものですから集めて一つの大きな力の塊に出来そうな気がします。でも相手が自分を攻撃してくる力も自分の力にする、というのはどうでしょう?
 
 
 
頭の中では無理だ~の合唱が始まっているかもしれません。ここで諦めてしまえば普通の人です(笑)。ちょっと考えて、試して、工夫するぐらいは「アリ」じゃないですか?

まず、自分のカラダででも感じたように具体的なカラダの力から確認してみます。例えば腕を抑えてもらった時に感じる圧力があります。この時の圧力の元の一つが筋力ですね。目の前にいる人は「敵」だからこそ、抑えてくるわけですが、「敵」だと認識してしまっている以上、相手の力は自分に向けてくる攻撃であり、なかなかそれを自分の力としては考えにくいですよね。

しかし、この認識を乗り越えてこそ、稽古の意味が出てくるともいえます。なぜ、今、稽古が必要なのか、なぜ、武術が必要なのだろうか・・・、決してもしもの時のためだけではありません。むしろ、稽古を通して自分自身を見つめ、当たり前の生活をより豊かに過ごすためにあると考えています。

ついつい、話がややこしくなってきますが、型稽古になってくればそれはシンプルな結果があり、自分の迷いもはっきりとしてきますから、いいんです。相手の抑えてくる力をちゃんと受け止め、自分の力として、集められている、そういう思いをもてるかどうかです。つい自分に意地をはり、評価が甘くなることもありますが、それは勘弁してあげましょう(笑)。いつまでもウソはつきとおせませんからね。
 
 
 
・・・話を動きに戻します。相手の抑えてくる力があります。その力をまずは自分のカラダにまで流し込んでいくようにします。お腹や背中あたりを意識すると「受け止めている」という感覚を得られやすいかもしれません。とにかく「拒絶」するのではなく「受け止めて」見てください。その力が相手の力の一部であっても構いません。自分以外の力があり、それも自分の力に混ぜて使うことが出来るかもしれない、その可能性に気づくことの方が大切です。

相手の力は筋力だけではありません。構造の力もそうですが、「体重」という力もそこに存在しています。試しに相手に寄りかかってもらってください。腕にずっしりと相手の「重さ」が乗ってきているはずです。ただ、腕にかかる圧力は腕力の時と力の大小、方向のずれはあっても質は同じなはずです。元となる力の出所は変わっても、自分のカラダに現れてくる力は同じなんです。これ大切な事です!

カラダにとっては同じ圧力ですから、相手の体重そのものも自分の力として認めることができそうですよね!ねっ、次に進みますよ(笑)。
 
 
 
問題はここから、あまり意識されずに、つい見逃している大きな力の話です。

人が二人集まれば、そこに「関係」が生まれます。良くなったり、悪くなったり、ややこしい人間関係というものです(笑)。この時、心地のいい関係ならばいいんです。そのままその心地よい空間と時間を楽しみながら動けばいいのですから。

問題は嫌な関係が表れてしまったときです。その関係から逃れたくて、もがいて苦しんでしまうんです。目の前に「苦手」というカベが現れるんですね。

例えば仕事で失敗をして叱られた時、その気まずさを「嫌」という認識で受け止めると、どうしてもカラダが強張ってしまいます。この状態、とてもプラスになっているとは思えません・・・。問題はこのマイナスの力をプラスに変換できるかどうかです。自分のココロに起こった事と同じ事ですよね。自分の中で苦労して試したことがそのまま応用できますので、じっくり味わって見ましょう。

このココロの力の感じわかりますか?そんな力はないよ~なんて言わせません。マイナスのカベもわかりやすいマイナスの力ですが、プラスの力もあるんです。例えば応援される力があります。ガンバレ♪ガンバレ♪と言われれば気分がいいものです。
 
 
 
昨日、道場で実験してみました(笑)。一人の男の子に、「〇○君、ガンバレ♪」と大合唱させてみました。言われていた男の子は照れていましたが、楽しそうなんですね。アタマでは否定するかもしれませんが、外から見ればすぐにわかるんです、元気が出てるんですね。応援されたら力になるんですよ。

野球やサッカーだとよくわかりますよね。やっぱりホームグラウンドは強いですよ。周りが全部相手チームのファン、っていう状態であればやりにくそうですよね。そんな状態で燃える選手ってそんなにいないんじゃないかなぁって思います。コンサートなんかも応援ですよね。お客さんが少なければやっぱりやりにくいかもしれません。

自分が歌手の立場であればファンはありがたいですよね。でも、ただ仕事でプレゼンをしなきゃいけない、となった時にはちょっとプレッシャーです。同じ「見られる」という状態でも、自分がその見られる状態をどうとらえるかで全然違ってしまうわけです。

とはいっても、ココロの変化はわかっても、その変化がカラダに「力」となっていなければなかなかメンドクサイ変換作業へのチャレンジまで行動に移せないかもしれません。ドキドキした時、嫌な気持ちになった時、生活の中でココロの変化はめまぐるしいはず。その細かな変化をじっくりと観察するところから始めましょう。
 
 
 
今ヨットの話を思い出しました。甲野先生はよくヨットの例えを出して説明をしてくれます。ヨットは向かい風をも推進力に変えて進むことができると・・・。

そう聞いて、ヨットの仕組みを調べてみると確かにそう書いてあります。風が吹いてくる方向へもジグザグに舵を切りながら進むことが出来るらしいです。もちろんその仕組みは
物理的に説明されています。

昔、理系だったにもかかわらず、じっとその説明を見ても実感が湧きません(笑)。だからこそ相手の力、つまり向かい風ですね、だからこそ、相手よりも、つい、自分の力ばかりを見てしまっていたのかなぁ、と思います。

ヨットに乗ったことがある人なら、その力を「カラダ」で実感しているじゃないですか。アタマだけではなく、カラダ全体で、というのがやはり大切なようでう。

ココロが感じる力というのもそう。これまでは繊細すぎて、カラダで受け止めるところまで行っていなかったんです。ようやくココロの変化をカラダで感じられるようになってきたからこそ、応援のココロは追い風として、プレッシャーは向かい風として利用できるようになってきたんだと思います。

今日も、だらだら、誰のための日記か分かりません(笑)。
まだまだ思いつくことがたくさんあります。またもう少し、集中力の話が続くと思います。

では、今日もありがとうございました。