大人の武道塾

集中力をつけろ!その1

集中力が大切、というお話は誰でも一度は聞いたことがあるはず。

聞いたことがあり、それを納得してしまった事で、それ以上求めることを忘れてしまっていませんか?

集中して仕事や勉強に打ち込もう、と考えて、なんとなくそれを「出来ている」と思っているかもしれません。完全に集中は仕切れていないけれどもまぁ、机には向かっているからなぁ・・・と、妥協していませんか?

子供の頃の集中力を思い出して・・・と言われてもそれは無理かもしれません。小さなお子さんを持たれている方なら、集中して声も聞こえないほどテレビやマンガに夢中になっている姿を想像できるかもしれませんね。人間は好きな事には集中できるようになっているんです、きっと。

そしてこの「集中」というのはおそらく好きなことでなくてもいいはずです。例えば身の危険を感じている時など、自分の全身全霊が恐怖の元へと向かっているはずです。ただ、恐怖で固まっている時にはその集まった力を意識的に使うことが出来ないだけなのです。

でも、本当に使いこなせないんでしょうか?ちょっと自分のココロとカラダに起こっている事を見直してみると少しはなんとかなるかもしれません。今日はそんなお話です。

 

 

 

集中力というありふれた言葉。その言葉の意味を今日、考えました。

集中「力」なんだけれども、この時、どんな力が集まっているんだろう?自分の中の「力」ってなんだろう?これまで真剣に考えたことが無かったなぁ・・・超、基本的な問いかもしれません(笑)。

カラダラボでは武術をベースにしていますので、相手と対峙した時の状況で考えてみますが、まず思いつく力は筋力です。では、どの筋肉を働かせて力を得ているのか?考えてみてください。

腕力、背筋力、腰の力、腹の力、脚力・・・詳しく知っている人であればもっともっと挙げられるかもしれません。これまで稽古してきたところを思い出しながら挙げてみると・・・

指の力(指アーチ)
肘の力(肘の回旋)
肩の力(肩の出し入れ)
背と胸の落とし
腰の力(腰を入れる)
踵の力(踵で踏み込む)
膝の力(絞り込み)
腹の力(丹田)
胸を開く力
手首の力(手首に流れを作る)
手の平の力(掌を細かく動かす)

カラダラボではこんな感じで研究が進んできました。今では懐かしい使い方もありますね。覚えてくれてますでしょうか?

一つ一つ、カラダで確かめながら気づいてきたものです。理屈を言えば、人間は細かい筋肉が山ほどあります。名前のついている筋肉の数ってどれぐらいなんでしょうか?その一つ一つを意識して使える人がいれば、もう、もろ手を上げて教えを請いたいぐらいです。

アタマではたくさんの筋肉が備わっている。でも、実際に一つ一つがどんな働きを持っているのかを意識できなければ集中「しよう」と思った時に力として集めきれない、そう思いませんか?

一つ一つの働きを見れば、指の力を知っただけでもかなりの事が楽になります。単純に力が無くて困っている、と言う人であれば、自分の中に力がこんなに眠っている、という事がわかっただけで世界が開けて見えると思います。

ただ、実際には「困っている」状況と言うのは複雑です。自分の中の悩みと言うのは簡単に解決してもらいたくない、という裏の望みを人間は持っていますから。

とにかくどんな力が自分にはあるんだろう、と言うのを考えてみました。

先にあげた筋肉の話もそうです。

そして骨の力もあります。構造の力です。

あと、カラダが動くことで生まれてくる勢いの力もあります。

今実感できるカラダの力ってそんなところです。

 

 

 

ではココロの力はどうでしょうか?
ラッキーで幸せを感じている時、ムクムクとやる気が起きてきます。
不運が続いてしまった時にはがっかりします。それが自然です。
締め切りに追われてでしか仕事や宿題が出来ない人がいます。僕がそれです(笑)。
締め切りはきついですが、結果的に締め切りが行動を後押ししてくれています。
ココロにもたくさん「力」があるじゃないですか!

全部自分の中にあって、自覚をしている力ですが、改めて考えてみないとみんなバラバラでしか使っていないようです。

そう、こういう力を集めることができないだろうか・・・今日の集中力のお話の目的はそれです。

 

 

 

筋肉の力や構造の力をあつめるという作業はこれまでの稽古でおなじみです。

ただ、目的を「技を成功させる」事においてしまうと、集めなくても出来てしまうことも多いために集めることを忘れてしまう場合もあるかもしれません。

逆を言えば、これまで集めなくては出来なかった事が、自分の中のただ一つの気づきでできてしまうわけですから、人間が本来持っている力がそれほどすばらしい、という事ですよね。

ですから「集める」事を意識して出来るようになれば、もっと大きな力が出せていけるわけです。

 

 

 

この時、一つ疑問が湧くかもしれません。

果たして大きな力は必要なのか?

例えばペンを持ち上げるという動作の中にココロとカラダ、全部の力が必要とはとても思えません。

それでも、私は全部の力を集めることを薦めます。なぜなら、自分の力を集め、それを自覚できた時の喜びは何ものにも変えがたいからです。コンビニにはもちろん、高級デパートでもそんな楽しいものは売っていません!

 

 

 

というわけで勝手に話を続けます(笑)。

カラダの力の集め方はそれだけで十分、講座として成り立ってしまうほどのものですが、まぁ今日はいいでしょう、集めることができたと仮定します。

問題はココロの力です。自分の中のやる気、がっかりと言うプラスとマイナスの力です。そんな力は存在しない、ときっぱりと口に出せる人がどれだけいるのでしょうか?私はこれまであったことが無いし、存在していたとしてもちょっと会いたくないなぁ(笑)。

好きな人といる時には元気になるし、苦手な人といれば疲れます。そんな力だと思ってください。ココロで感じたことがちゃんとカラダに現れている、そこを認識してくれればうれしいです。

ではこのココロが感じた力を集める事は出来るのでしょうか?

 

 

 

今、僕はなんとなく、それが出来るかもしれない・・・そう思い始めています。例えば講座をしていて、勢いが乗ってきた時にはつい、いつもよりも深く話しすぎてしまうこともありますし、逆にコミュニケーションが取れていない・・・と思ってしまった時など、プレッシャーを感じて言葉が続かなくなってしまう時がありますから。

今、書いていて思いましたが、こんな事、当たり前でみんな経験があると思います。ポイントはその力を自覚しているかどうか、という事です。

ココロの力が「ある」という事を前提にもっと突っ込んで考えてみます。

例えば健康という力。

はたして今の自分の健康に喜びを感じているでしょうか?自分のカラダの状態、ココロの状態に喜びを感じていれば、十分それを追い風に変換できるはずです。

しかし、健康って失った時で無いとそのありがたみを感じることが出来ませんよね。先日、ほんの一日、寝込みましたが、たったそれだけでも「普通の一日」のありがたさを感じました。ましてや自分の生死にかかわるほどの病気やケガを通り抜けてきたのであればなおさらです。そんな経験をされた方なら、「今」の当たり前に感謝や喜びを感じられるんじゃないでしょうか?

そんな人に比べたら、大病も大怪我もした事の無い僕が実感できる感謝や喜びはまだまだ不十分ですが、こんな小さな経験からくるありがたみでも、動きに変えてみると大きな力にする事ができるんです。

力を「集める」事のコツがちょっとでもつかめれば一気に技ができるようになってもおかしくありません。

 

 

 

技ができる、できない、にとらわれるのはよくないかもしれませんが、今日はあえて「結果」にこだわってみたいと思います。

実は僕はかなり頑固なんです。

目に見えないものはなかなか信じきれません。だからこそ、自分の動きを通してそこに「違い」を実感した後で無いと納得しきれないのです。不器用なんです、カラダもココロも固いんですね。

あったかい気持ちを持って幸せを感じられればそれでいい、と思っても、自分がそのあったかい気持ちをもっているのだろうか・・・というところに疑問が湧きます。昔から自分自身に対しての評価が低いんです。

その出来ない自分に対して自信を持つのには苦労しました。本を読んで勉強しても、それはアタマにまでしか届きませんでした。稽古を通してカラダを一つ一つ認識していった事で、自分の中にある力を体感していったのです。気がつけば自分に対して自信がもてるように変わっていました。

ちなみに自信って、「自分はできる」と思えるから自信になると思っていましたが、今持つことの出来た自信は「できてもできなくても」どちらでも自分を信じていけるという自信でした。ずいぶん考えていたものとは違っていました(笑)。

 

 

 

話があちこちに飛んでいるみたいです、すいません。

ともかくココロの力もカラダの力に合わせていけるわけです。ここでもう一つ考えてみたいことがあります。それは今目の前にある自分にとって「嫌なこと」は本当に「嫌なこと」なのか・・・という事です。

嫌なことであればココロはそこで「がっかり」します。マイナスの力になってしまいますよね。これをプラスに変換できれば、どうでしょう?

いきなり、そんな事、無理!と言わないで下さいね。出来たら・・・と考えてみたらワクワクします。今まで邪魔だと思っていたものが宝物になるのですから。

問題はその「変換」ができるのか・・・という事です。最近は「ありがとう」という言葉を口癖にしなさい、という話をよく聞きます。どんなことがあっても、それを「ありがとう」と受け止める、といいます。斎藤一人さんあたりが有名ですね。ただ、それは新しいものではなく、ずっと前から積極的に生きなさい、という教えは説かれていたようです。

ただし、現実には「ありがとう」、と口にしてそれをカラダにまで持っていけるかが問題です。全身全霊でありがとう、と感謝できるレベルにまで行くのが修行なのかもしれません。ありがとうをいいなさい、という人たちは「百万べん」を目標に持っていますから、そこまで繰り返し、口に出せたらきっと変わるんでしょう。

実は、私はそこに行くまでに挫折をした人間です。それは武術の世界で自分を考えてきたからかもしれません。目の前に自分を倒しにくる人間がいるわけです。その状況でどうすれば助かるのか・・・考えるよりも先にカラダとココロが相手に対して敵対してしまいました。

まぁ、言い訳ですからね、出来なかった事には変わりありません(笑)。とにかく、百万べんを口にする事はできませんでした。ただ、以前は口にしてどう変わるのかをイメージすら出来ませんでしたが、ようやく今、大切なのは感謝というココロの働きをどう、カラダに力として表すのか、という事にたどり着きました。

風邪や捻挫程度の小さな経験からでも健康のありがたさは感じることが出来るはずです。それを思い出しながら、今、自分がここに存在していることの喜びをわずかですが、感じ始めています。

 

 

 

先に書いたように、こんな頑固で感性の鈍い僕が感じられるのも、ココロの変化をカラダで受け止め、力として認識できたからです。カラダと共にある、武術ならではの方法だったのかもしれません。

ありがとう、と口に出したけれども、よくわからなかった、という人はカラダの面からアプローチをしてみるのも良いかもしれません。ココロとカラダは同じものですからね。

 

 

 

アタマで考えると自分の身に起きたどんなこともプラスに変換する、という作業はとても難しいように思えるかもしれません。しかし時間が経ち、昔感じた「不運」を「運命」だった、と感じることも少なくありません。私自身、甲野先生と出会うきっかけをもらったのは、どうしても進みたかった進路に新規の募集が無かったために就職浪人を決めた事が原因でした。当時、試験すら受けさせてもらえない自分は「不運」だったかもしれません。でも、それがあったからこそ甲野先生に出会えたわけです。では、あれは「不運」だったのか・・・先が見えていれば「幸運」であり、「運命」だったはずです。

未来を見通すことを望んでもそれは無理というものです。だとすれば、今目の前にある「不運」や「嫌なこと」をプラスに変換してもいいじゃないですか。最初はじっくり考えなくてはいけないかもしれません。カラダの感覚が鈍いうちは自分がプラスに変換できているのかすら、わからないかもしれません。でも、大丈夫!技を通して、うまく変換できていれば結果が目に見えて、カラダを通してわかりますからね。

とにかくあらゆる力を集める事を考え、意識してみるとまだ諦めなくてもいい、という事がわかりました。そして、この「力」は自分だけにとどまりません。目の前にいる「敵」「嫌な人」からも「力」を借りて、自分にとっての追い風に変換して行くことが出来るかもしれません。

この続きはまた後日・・・
長くなってしまい、申し訳ありません。
ここまでお付き合いしていただき、ありがとうございます。

積極的に生きる

中村天風師の自伝小説を借りた。真夜中、少しだけ眺めるつもりで読み始めたら、ページをめくる手が止まらない。気がつくと、一気に全部を読み終えていた。

このところ、天風師の本を読み漁っている。そこに書いてある言葉は「当たり前」の事ばかり。積極的に生きろ、という事。子どもの頃から、親や先生から散々言われてきた事ばかりだ。

ただ、大人になってみると、積極的に生きなければいけない、と分かっていても、つい口にするのは消極的な言葉ばかり。

救いを外に向けてみれば口癖を変える事が大切、とのこと。まだ世間を知らなかった若い私はなんとなく始めてみた。しかしその思いは長くは続かず結局またそれまでの自分に戻ってしまっていた。

今カラダが少し動くようになり、それまで知らなかった感覚を意識できるようになって、自分の意識の向いていた方向が間違っていた事に気がついた。

言葉から始める、というのも同じなんだ!やっとそこにたどり着いた感がある。自分が嫌なところにフォーカスをすれば、どうしても嫌な気持ちが出てくる。嫌な気持ちが出てきたところに前向きな言葉はつかえない。弱かったから。

カラダの稽古を通じて見てきたものも、フォーカスの移動だった。抑えられた手を見て、イヤだな、と思う。どうしよう、困ったな、とも思う。稽古を始める前までは「光」が無かった。でもそこにはまだまだ可能性があった。カラダはちゃんと動くんだ、という光が。

アタマは消極的だったかもしれない。でもカラダはちゃんと動くように出来ている。ただ、その動くカラダを見てあげていなかっただけ。

カラダのどこをみるのか、その方向。ココロのどこをみるのかその方向。その舵取りをするのはアタマであり、言葉なのかもしれない。

友達になる3つの方法

最近「友達間合い」の事について話をしているけれども、その「友達」の間合いにあわせるのに何をしたらいいのか・・・、気になりますか?

気にならない人、もうこの後は読まなくても大丈夫です(笑)必要ありません^^

友達になるにあたって、テクニックやノウハウなんてないほうがいいし、あってもそれは「不自然」でしょう。

ただ、今ここで必要なのは、自分を抑えてくる相手、つまり敵を友達と思う技術です。どうしたら、敵だと思ってしまう人を友達だと思ういことが出来るのか・・・。

この時、敵は敵でいいじゃないか、無理に敵を好きになる必要はないじゃないか、という意見もありますが、今日は聞きません(笑)。選択肢の一つとして、敵を敵と思うよりも、友達だと思ったほうが自分のカラダやココロが居着かないでうまく動くこともあるんだ、という事を実感したからですので、こんな話もあるよ、と聞いてくれれば結構です。

その3つの方法は「歩み寄る」「胸襟を開く」「腹を割る」という方法です。昔から言われてきた言葉そのままに仲良くなって通じ合うときにはこれらの方法がいいみたいです!

友達だ!と思っただけでそれが出来る人は結果として、胸や腹が緩んで開いているでしょうし、距離感も近づいて感じられるはず。私は出来なかったので、身体操法の力を借りたわけです。

嫌だな、と思ってカラダを硬くするのではなく、友達だと思って見る事を試してみてください。

・・・ちなみに、「胸襟」を「胸筋」だと思っていた私は実にいい加減です^^胸を開けばかわる!と喜んで口先だけではダメ・・・と思っていましたが、襟だったんですね。着物は自分の意思でなくても開けます。ただし、着物を開いても、カラダを閉ざしてしまうとストレスになるでしょうね。形から入ってココロを開くということなんでしょうか。

友達間合い

間合いについて考えていたことが昨日、動きを通してつながった。

コトバのやり取りからくる違和感や安心感、同じ言葉であってもどうして人が違うだけで大きな違いが出てくるのか。人だけではない、自分の気分の違いからでもそう、振り回されているともいえる。

そのやりきれなさを何とかしなければ・・・と思ってヒントになりそうだったのが「間合い」です。人と人との間に存在するものが間合いなのは分かっている。ただ、それをどう感じて、使っていくかというとなかなか具体的な「術」にはなりません。

甲野先生との光岡師範との出会いがきっかけだったのか分かりませんが、とにかく「考える」時間だけはたっぷりと頂いた1週間でした。今まで向き合わなかった部分を見つけた事で何かが変わったのかな?

何が変わったのかは分かりませんが、「動き」を通して変わったことを感じられることが武術の良さです。人と対峙し抑えてもらったときにその人との間に存在していた間合い、この間合いが自分と相手との立場を自動的に作ってしまうんだ・・・そんな事に気づきました。

ある人が敵になるのではなく、友達になることが一番の方法、と言われていました。友達になるのと、なろうとするのと違い、そこが大きな問題だと思います。最初に聞いたときには良くある言葉ですので、つい、流してしまいましたが、昨日の稽古を通して一歩進めた気がします。

他人の間合い、敵の間合い、そして友達の間合い・・・なにかをしようとする時に生まれる不安や下心は友達の中に無いんじゃないだろうか、そう感じています。友達だからこそ、腹を割って自分の一部のように向き合っていけるかもしれません。

いつものようにコトバにしていくつもりですが、カラダを通じて体感したい人は各地の文化センターでの講座18日の定例稽古会にお越しください。しばらくはこの「友達間合い」の稽古になると思います。

「板」と「棒」と「なにげなく」のまとめ

最近は「板」と「棒」を使った稽古をしています。
キーワードは何かといえばやはり「無心」という事になるんだろうと思います。
すこしまとめをしておこうと思いますね。

以前、甲野先生も言われていましたが「人がふと、なにげなく」する動きを再現したいわけです、意識的に。
「意識」をした時点でそれはもう「ふと」でも「なにげなく」でもありません。
そういうココロの動きはちゃんと受けをとってくれる人にはわかるはずです。
自分が「なにげなく」を言い張ってもメリットはありませんから、自分の弱さをしっかりと受け止めて稽古しましょうね。

さて、心の動きはこれまで日々の生活の中で何度も経験してきたはずです。
例えば、好きな人、好きな食べ物、好きな遊びだったり、逆に嫌いな人、ストレスのたまる仕事、怪我や病気もココロをうごかします。
この時、自分のココロの動きを意識で逆にしようと思っても、痛みは倍増するし、好きな人嫌いな人には余計気にしてしまってギクシャクしてしまった事ってありませんか?

この時、意識してしまったこと以上の事に気持ちが向かえば自然と意識していたものに囚われることがなくなります。当たり前ですが。
この当たり前の事を意識して行うことが難しい「と思っている」訳です。

どんなにケガが痛くても、目の前で火事があったり、車に惹かれそうになったりすれば「驚き」の方へと気持ちは向かいます。この時、痛みは意識できなくなっています。

好きな人からの電話であっても、目の前で火事がおきそうであれば、電話どころではありません。

つまり、大きな興味をもてる「なにか」を意識できるかにかかっているんです。
ここで「板」と「棒」の登場です。
相手に手を抑えられていると、どうしてもその手を意識してしまいます。自分を攻撃してきていますから当たり前ですね。この時、意識しない、といって横を向いていれば倒されてしまうという矛盾も武術にはあります。

この時、反対の側の手や足の下に板や棒を置いて触れておくと、気持ちが自然とそちらに向かうのです。
カラダが「なんだろう?」と「無意識に」探っていきます。この時、同じような板だったり同じ太さのマジックなどでは全く興味がわかないですから、やはりこの形や手触りでないとダメかもしれません。

よく分からない形、手触り、木だという事は分かっていても、なんだろうという疑問が生まれているのです。すると、抑えられているところの意識が薄れていくんですね。

目付け、目の使い方が大事といわれます。相手を恐れて、一点を見るのではなく、一点を集中するようで、しかも全体を把握するような目の使い方。遠くの山を見るような・・・とも言われますが、それをカラダの中の「無意識」でやってきるようなものかもしれません。

稽古のいいところは、何度も繰り返して感覚を確かめられるところです。
実践の場である生活の中でだけでは、どうしても気持ちに振り回されて、気づけません。
でも稽古は分かるまで、実験を繰り返すように研究することが出来るのです。
疑問を持ったらそのまま私にぶつけてください、一緒に解決していきましょうね。

※お知らせ

9/26の甲野先生の講座に参加される方には懇親会の案内を送付しました。

月曜までにお返事をいただければうれしいです。

ちゃんととどいてますか?