大人の武道塾

コツを学び、コツを伝える

 習い事では必ずと言って良いほど「コツ」があります。少しでも上達を目指した時にはきっと「コツ」を知りたいと思うでしょう。習う側もそうであれば、伝える側も同じようについつい「コツ」を教えてしまいます。
 
  大抵の場合「コツ」は分かりやすく、効果が出やすい。よく分からないけど、「肘を返すと力がでる」とか、そのままやろうとせずに「別の事を意識しながら」やってみるとか。聞いただけで効果が出るものが多いですから、頼ってしまうのですね。
 
  教わる側も教える側も「出来る」という結果がついてくるのでうれしいわけです。けれどもそのコツが「効果的」であればあるほど、依存してしまいがちになります。コツを使って技が出来るようになっても、それを自分が消化しないと次の問題が出てきた時にはまた別の「コツ」が欲しくなるでしょう。上達しているつもりになっているだけでコツのコレクションをしてしまっている事も良くあります。
 
 「結果」だけを求めているのならコツを知れば知るほど「出来る」が増えていきますから、いいのかも知れません。でも「結果」は誰かと比べてこその結果ですから、いつかは終わりがきてしまいます。一番以外は価値がない世の中って苦しいですよね。
 
  コツを知ることでそれまでできなかった動きが出来るようになれば楽しいですよね。身体を通して自分が変わる事を実感する事が出来ます。コツを知る前と知った後をよく見比べる事で、自分がどう変わったのか、どう成長したのかが分かるような気がします。
 
 自分の変化がわかるようになると、「結果」がそれほど気にならなくなりますよ。出来なかったとしても必ず「変化」している事があるし、出来たとしても「もっと良くなる」ところが見つかるようになります。そうなると自然と自分に必要な動きを稽古していけるようになります。コツを通して変化を学ぶ事こそ大事だと考えています。
 
  自分の変化がわかってくるようになると、その変化の理由を聞かれるようになります。自分のカラダやココロが変わったという事を「感じる」事は一瞬ですが、それを言葉にするとなると大変な事です。伝える側は自分が一番大切だと思っている事を取り出して説明するでしょう。誰かに伝えようとする事でコツが生まれてくるのですね。
 
  なんだか世の中では「言葉」の力が大きくなっています。でも言葉の持っている力は一面的です。同じ「赤」と言ってもそれぞれ想像する「赤」は違うはずです。言葉の持つ力を知った上でコツを学び、コツを伝えていけるようになりたいですね。

反応させられて、反応させて

昨日は四日市の稽古会。4人での稽古でした。内初めての人は2人。そしてもう一人は「伊藤」君。

こういうメンバーになれば稽古が予定しない方向へと進んでしまう。初めての方に一通り説明をして稽古できるようになれば、あとは研究一直線です。

途中は省きますが、どうやら私たちは相手の動きに「反応」させられてしまう事が多いのではないでしょうか。

「反応」させられてしまった時点でどちらが優位に立っているかは言うまでもありませんね。

そしてこれは「動き」に限った事ではありません。それぞれのココロをみても、つい「反応」してしまっている事って多いかも。

これが影響力なのか、存在力なのか・・・。そんなことを考えました。
むつかしい?

ちなみにこれを意識しながら技を行なうと、自分でどう動いているか、どう動こうか・・・という気持ちが消えちゃいます。
定例稽古まで1週間。果たして言葉にまで持っていけるか・・・。

2007/12/7 看護士のみなさんと

この2週間ほどアクテノンに名古屋市内の病院に勤める看護士の方が稽古に来られている。女性なのでどうしても看護の現場では体力的につらい場面もあるみたいです。ただそれが当たり前の世界ですから、仕事となれば我慢をするしかないのでしょう。

カラダラボの稽古手に入れてもらいたいもの、それは自分の未来に対して希望を感じれるような心です。まだまだ自分の身体には気づいていないものがたくさん溢れているという事を知ってもらえるよう頑張っているつもりです。

技術的なものは意外に早くできるようになるんですね。邪魔をしているのは「自分には出来ない」と思っている自分の心ですから。「いい加減」に考えた方がいいですね、完璧を目指してはいけません。

さてその看護士さんたち。病院内にて「古武術式」がにわかに盛り上がってきたそうです。おそらく今日稽古に来られた人たちの意識が変わってきて「楽」そうに仕事をしているのが伝わったのではないかと思います。体力的にも、精神的にもね。人は強制されては動きませんから、彼女たちの気楽さの元に興味が出たのでしょう。

初めてお会いしたのが6月ぐらいですから、半年ぐらいですね。その間稽古に来られたのは3回ぐらいですから、自分自身で自分を見つめるという作業が一番大切なのが分かります。たった数回の稽古で人に興味を持ってもらえるようになるわけですから、普通の「技術講習」ではありえません。

嬉しい事に彼女たちから病院内にて講座の依頼をうけましたので、この先プロの目線でドンドンと育てていって欲しいとおもいます。

時間の空いている限り、出張講座、稽古も行いますので気軽にお問い合せください。

子供たちの輪に入ってみた

普段道場では子供たちの接しているので、普通の大人と比べれば子供たちの行動もわかっているつもりだし、扱いもなれていると思う。

しかしその考えは甘かった・・・彼らは凄い。

今日子供たち(近所の小学2年生10人ぐらい)と公園で遊ぶ。その10人の集団のまとまりのなさと言ったら、もう面白すぎる。一人一人が個性があり、後ろに行く子、やたらと命令口調な子、なにを考えているか分からない子など、様々だ。

その集団が遊びだすと一つの形が出来る。
ただその形は大人である自分には理解がしづらい。

今日は野球をやっていた。
タツキの父さん、ピッチャーね、と言われ素直にピッチャーをする。なぜかベースを自転車で走り回っている子がいる。そしてグローブも持たずに黙々と玉拾いをする子、彼はどちらのチームにも属していない。虐められているのかと思ったが、そうでもないらしい。

気がつけばボールが2つ。バッターが二人。そして守備がいなくなっていた。いつまでたってもアウトが取れない・・・ずっとピッチャーじゃん、これじゃあ・・・。

なんかへんだな、と思っていると数人がドッジボールを始めている。おかしい、なにも掛け声はなかったはず。以心伝心なのか?

これだけぐじゃぐじゃな環境でも彼らはそれを受け入れて楽しそうに遊んでいる。大人のルールでは説明のつかないものがあるのだろう。

そう考えてみると、大人のルールって最低限の守るべきものというより、わかりやすい数値目標な気がしてきた。複雑に絡み合っているものを収める力がなくなってしまったからこそ、最低限のルールで縛っているのかもしれない。

テンセグリティー

ちょっと時間が出来たので気になっていたテンセグリティ-を作ってみる事にしました。(実は以前にもチャレンジしてけど、その時はあえなく撃沈しました・・・)

材料は輪ゴムと割り箸。インターネットで作り方を探し、早速挑戦。

やり始めてみると、これがなかなかややこしい。不器用なのは昔からだけど、それ以上に頭がこんがらがります。なんだかパズルのようです。そういえばパズルも苦手だったなぁ~。

それでもなんとか作り上げる事が出来ました。

Ten1

 

 

 

 

12本にもチャレンジしてみましたがこれがさらによくわからん!!

なんとか形は崩れずに組めたものの、どうもイメージと違う・・・。設計図がある事の大切さをしりました。

ただ設計図がなくても楽しさを感じる事ができるのも事実。あれこれ考えながら試して失敗して、また試す。これが楽しめるようになったのも、身体の稽古のおかげかなぁ。

Ten4