明日から浜松から四国へと移動しますのでブログの更新がおそらく止まります。ここで今、気にしている事をまとめておこうかな。
上腕の感覚を見つけたことから始まった身体の内側への興味ですが、上腕自体に「自由」という意味があるように思えてきました。人の中には「大人の小人」「子供の小人」「親とそっくりな小人」があると聞いたことがありますが、まさに上腕に「子供」が隠れていたんですね。
自分の中にいる子供はとにかく自由です。どんなに押さえつけられても、子供の自由が奪われる事はありません。それを身体で確かめたのですから、これは心強いです。
上腕が子供だとすると前腕は何だったのでしょうか。
前腕に感じる「意味」は選択と工夫です。このよく動く手を含んだ前腕があるからこそ、様々な方法が作られ、個性が生まれてきたような気がします。
押さえつけられたときに、その力に対してどうしようか・・・という選択することができるのです。
これはつまり、自分の中で「不自由」という状態を自分が求めて作ったことといえるような気がします。
上腕には「自由」があるといいました。その上腕の働きを「不自由」なほうに使えば、不自由すらも感じられる自由があるのです(笑)。
考えてみると、なにごともうまく行き過ぎてしまうと、そこに退屈さを感じてしまうのが人間です。欲張りですよね。どこにどんな楽しみ、幸せをおくのか・・・隣の芝生が青く見えてしまうのは仕方ないかもしれません。
不自由すらも作ることができる、自由さ、それを上腕に感じました。では、内臓にはなにを見るのか・・・。
上腕の次に見えてきたもの、見たくなってきたものがあります。上腕があるから、太ももの使い方、腰の使い方かな?と考えてみましたが、実は内臓へと興味が向かっていきました!
内臓ですよ、内臓・・・。そんな事まったく考えたことなかったのに、自然とそこに興味を持つようになりました。とはいっても、改めてなにかを勉強することはありません。今、自分の中にあるものを感じ、そこから広がる考えを楽しみたいと思っています。
前腕に見出した「工夫と選択」、上腕に見つけた「自由」、そして内臓にも意味を感じるようになりました。
内臓に意識を向けて自分が心臓になってみると、そこにあるのは自由とは正反対のどうにもならない「不自由」です。この不自由は自分が作り上げた不自由というのではなく、すでに存在していて自分が介入することができないほどの不自由さです。
それだけの不自由さがあると悔しさもなにも生まれてこないんです。ただ、それを受け入れるしかありません。これは太陽が昇り、沈んでいくようなことと同じかもしれません。その不自由さが自分の身体の中にもあったんですよね。
身体に任せて動くという事がよりはっきり、見えてきました。あきらめ、という言葉も似合いません。あえて言うなら、受け入れる、ということでしょうか。どんなことが起こっても、身体の中はそれを受け止め、ただ、動き、働き続けています。その受け入れているものも「自分」なんですよね・・・・。
考えてみると、子供たちは息を切らせて遊んでばかりいます。疲れるかといって、なにかをやめることなんてありません。自分の意思ではどうにもならない不思議な身体を楽しんで知るのかもしれません。私たちはもう、大人になってしまいました。なにかをする時には「ちゃんと」未来を予測し、間違いのないようにしようとするでしょう。でも、これだけが自分ではないんだなぁ、と改めて大人の自分で気づけたことは大きいことだと思います。
なかなかこれを稽古で伝えることが難しいです。技でもって、その動きの気配、力でそこになにかが「ある」と気づいてもらうしかありません。遠慮なく、ぶつかってきてください。