【思考実験】

【思考実験】名前がなければ・・・

肘があるから、なにかをしようとする時に力が反転してしまう。もし、この肘がなければどうなんだろう?でも、実際にこの前腕をなくす事なんてできない。でも、もし、この肘という名前が無かったらどうだろうか?
 
外国人には肩こりが無いと聞いたことがある。肩こりというよりは背中が痛いんだそうな。意識がどこにあるかで、感覚が違うのかもしれない。・・・とすると、肘という名前があることで、どうしてもそこに引っ掛かりが生まれてしまうかも。肘の三角でバランスをとると、肘を消せる事に気がついた。名前がなければ、もっと軽い感じで胴体と腕が繋がると思う。
 
名前がある、つまり、知識があるという事。この頭の中にはいったいどれだけの名前が入っているんだろう。 

身体には無数の名前がつけられ、勉強するつもりはなくても、なぜかイロイロと知ってしまっている。気にしないためには忘れられればいい。でも忘れるとは覚えるよりも難しい事。忘れる、気にしない、その間を埋めるのがバランス感覚なのかな?
 

【思考実験】パワーロボット、バランスロボット

今、機械を導入していない業界ってどれぐらいあるんだろう?
車にフォークリフト、コンベアーにロボット、コンピューターも機械だ。機械だらけで、この身体を使わずとも楽々仕事が出来るように、メーカーや大学の研究者は知恵を絞る。

予算の問題なんかがあるだろうけど、ロボットなど、機械が導入できれば楽になるのに・・・って所はまぁ、いいだろう。まだ、希望があるのだから。でも、人を相手にする介護や細かい作業が必要な現場はそうはいかない。どうしても、人の器用さを使わなくてはいけない所もあると思う。そして、そういう現場で働く人から身体は壊れていく。光の見えないところでの仕事はつらいよね・・・。

この人たちの助けになりたい。
そう思って研究している人たちもいると思う。
でも、そこに落とし穴が・・・。
出来上がるロボットや機械はその研究者の常識から作られているかもしれないという事。
甲野先生の話を聞きにロボットの研究者が来られるというのは興味深い話、そして希望ももてる話。

以前テレビだったけど、人間の筋力をサポートして、重いものを軽い力で持ち上げるというスーツの研究を見た。実用化されればまさにSF、漫画の世界の作品だ。確かに、これなら、仕事も楽になるだろう。力が出せるのだから。まぁ、まだまだ全然使い物にはなりそうになかったけど。

しかし、これはなにかをしようとした時に「パワーが必要」と考えている人の作品だと思う。自分の身体が軽く動くというのはパワーではなくバランス。肩や腰、肘や手首もそうかな・・・とにかく、関節で力が滞り、バランスが崩れる事で倒れそうになる事をもっと知るべきだと思う。力比べの機械を作るのなら別だけども、必要とされる「仕事」がもっと少ない力で行えるようになる、とすれば出来上がる作品は大きく違ってくるはず。

今、この身体で感じているバランス。このバランスの手助けをしてくれる「服」を思い浮かべると、漫画で見た未来人の服装が思い浮かぶ(笑)。身体にピッタリとした服で、それが動きを邪魔せずに、バランスを保ってくれるような生地でできたら・・・モーターなんか無くっても仕事ができるかもしれない(笑)

これが冗談なのか、本気なのかは置いておいて、よくプロ野球選手がつけているネックレスがある。身体のバランスというか、なにかを引き出すための健康グッズだ。あれも、この理屈から言えば、説明がついてしまう。身につける事で、身体の稼動域などが改善される効果ぐらいはきっとあるはず。ただし、人によって、相性もあるはず。

それはパワーストーンと言われる石もそう。
迷信!と言い切る前に自分の身体の感覚を高めて動きを確かめてみよう。ぴたっと合うものであれば、腕の良い整体師に調整してもらったぐらいの効果もでるはず。2、300円の石でだ。決して高いから良いわけではないのだ。

とにかく、身体は敏感に外界から情報を得ている。身体を学ぶ、というのは仕事をする上でも役に立つと思います。自分を知る、人を知るという事なので、当たり前といえば当たり前ですが。

【思考実験】30年後の健康生活のために今、出来ること。

今の時代、身体を鍛える事はブームではなく、誰もが、この先老いていく中で考えていかなくてはならない時代となりました。寿命は伸びて嬉しい、幸せだ、と思える反面、ちゃんと自分は健康を維持したまま老いる事ができるか?と考えた事があると思います。

健康ってなんだろう?って事をそろそろ考えた方がいい時代になったのかもしれません。身体をスキャンし、数字で測れる部分を整えていくだけではちょっと足らない、ってわかっている人も多いですよね。だからこそ、多くの人がスポーツジムに通い、筋肉をつけ、老いに対して抵抗しているんでしょう。でも、健康って数字じゃないですよね。ちゃんと生活をし続けられるだろうか、という事を考えなきゃいけません。

なにかをしようとする時に必要なのは力の大きさではなく、バランスです。バランスが大事なんて当たり前な事を・・・と思っているかもしれません。でも、バランスが大切、と思っている人も意外と頑張って筋肉をつけ、大きな力をもとめてトレーニングをしてしまっているんです。
 
添え立ちという古武術介護の技の話をしました。
立ち上がるためには力がいるのではなく、バランスがあれば立ち上がることができるんです。それでもある程度の力はいるだろう?と思うかもしれません。でも、今、立っていられる力があるのなら、それで十分だと思います。
その力を持ち上げるために使うのではなく、バランスをとるために使えばいいんです。

この技を通して「立ち上がるために必要な力」が自分が勝手に作り上げたものだとわかるはずです。老いる事で、どうしても力は減っていきます。しかし、自分が思っている以上に、自分の身体を動かす力は少なくてもいい、それに気がついた人とそうでない人の差はどれだけでてしまうんでしょうか?

必要なのはトレーニングではありません。良く動く身体をちゃんと見ておくだけです。必要なのは、自分の身体の見方。たぶん、便利な機械や薬に頼る大人の方が多いです。残念ながら。このまま今までどおりに暮らして、30年後楽しく生活できそうですか?厳しいトレーニングは間違いです、自分の身体を感じるためになにができるか、考えるだけで良いんです。30年、40年後のために、今から身体を「観る」訓練を始めておくのもいいと思うんだけどなぁ。

【思考実験】子供を叱る?怒る?

怒ると叱るは違うんだ、という事はよく聞く。
そして、褒めて伸ばせ、叱って伸ばせもよく聞く。
経営も鬼の経営、仏の経営があるらしい。
さて、なにがどう違うんだ・・・。
 
そこで、身体に教えてもらおう。
3点でバランスをとる事の大切さを実感した。ここから考えてみる。
人のあり方としてバランスを取り合っているのが、観念、感情、ふるまい、らしい。
その人とどうなりたいかを定義する観念。
無意識にでもなにかを定義しているからこその感情。
その感情の結果としての身体の緊張と弛緩。
 
怖いと思う感情は目の前のものは自分よりも上だという先入観から来ているらしい。だって、怖いものは怖いでしょ、っていうのは感情に振り回されてしまっている事。
武術的には身体を操作して、怖いときにでも、ゆっくり呼吸をし、肩を落とし、リラックスさせていく。結果として、怖さが収まっていくわけ。このあたりはまた【身体感覚の足跡】で詳しく書きます。

さて、子供とどう、向き合うか?
観念、感情、ふるまいとして考えると、子供は感情的に泣いたり怒ったりしている事が多い。それは子供にとってのやりたい事、観念があるから。
その向かってくる感情に対してこちらが感情的になってぶつかったらバランスはとれない。感情を抑えるために、振る舞いを変えてみたらどうだろう?それが身体に従う、という事。

つまり、頭に血を上げずに、ゆっくり、呼吸し、子供に対して、見て、聞いて、触れてみる。そこでなにをすればいいのかは考えなくてもいい。ただ、彼とどうなりたいか、だけは考える、これが観念。

大人になると、みんな頭で行動していく傾向がある。そして、少しずつ、感情のタネを溜めていってしまう。爆発する前に発散できればいいんだが、なかなかそれも難しい時代。仕組みを知り、試して、扱えるようになってみたい。だから、稽古する。

【思考実験】足跡は悩みの数

4月から心機一転、ブログで上達のための足跡として、これまで気づいてきた身体の使い方、感じ方をとにかく、ざぁ~っと書き出してきた。
全て自分の中から生まれてきたものだから、思い出すだけで、書くことはできる。
もしかしたら、リアルタイムにそれぞれの身体の使い方を聞いた人の中ではそんな説明していたっけ・・・と思う人もいるかもしれない。
 
いつも、自分が出来るようになった事をどうすれば伝わるんだろう?と一生懸命でした。
その感覚の一部が言葉となって、説明に変わっています。
気づいたときから時間が経って、改めて思い出してみると、また見方が変わって、別の言葉として解説することも、足跡としては良いかもしれない、そう考えています。
 
ところで、こんなにもたくさんの足跡というか変化があって、それは正しいのかどうか?という意見もあるかもしれません。
この足跡は気づきであり、それまでの自分から新しい自分へと変わるきっかけですが、変わるたびに新しい「悩み」が生まれてくるものでもあります。それまで気にならなかった事も、新しく感覚が養われた事で、ひどく気になるようになったりする事もあります。
 
なにかがあると面倒だ、と考える人には向かないかもしれません。
でも、その何かにちゃんと真っ直ぐ向き合い、乗り越えていけるかも・・・と思えたときの楽しさは生きる喜びとも通じているような気がします。
 
便利な機械やサービスのおかげで、楽をして過ごせる事に喜びを感じるのか、楽ではないけれども、この身体を通して動く事に喜びを感じるのか、それを選択することが出来るのが私達・・・という話に似ています。