心と体

あと10cm遠くへ・・・

 歩くという事を考えてみよう。
 
 普段歩く事は当たり前なので、意識しない。
 つまり自分の内側の力は使っていない。
 
 当たり前だからこそ、
 自分の気づいている能力だけで済んでいます。
 
 でももっと自分の力はあるはず。
 
 昨日久しぶりに「歩きました」。
 普段車や電車の移動で歩いていないなぁ、と驚きました^^
 
 どうすれば内側の力を使って歩く事ができるか・・・
 
 いつもよりも「ちょっと大股」で歩いてみました。
 もう10cmだけ遠くへ、そんな気持ちで。
 
 良いかどうかは、分かりません。
 ・・・むしろカラダには悪いかも(笑)

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共通点は私

 今、気になっている考え方が2つあります。
 
 1つは「何もしない、ただ上げるだけ」という事。
 もう一つは「とにかく力を集め、カラダを作っていく」という事。
 
 共に仲間からの言葉と残されている言葉だけでの理解なので
 悩むのは稽古してからにしたらどうだ?というココロの声も聞こえます。
 
 なかなか手が出せないでいるのは、
 (それでいて頭の中では常にぐるぐるとその言葉たちが踊っていて)
 あまりに大きい言葉や体験をしてしまう事で
 自分がそれに依存してしまいたくなる事を
 怖れているような気がしているから。
 
 先日その両方を稽古している友達からの言葉にはっとしました。
 
 それぞれの動きや考え方は「真逆」だという事。
 それでいて言葉としての「共通点」はたくさんあります。
 
 彼は「唯一の共通点は「私」でしょうか。」と教えてくれた。
 
 なるほど・・・そうだなぁ、と改めて思いました。
 
 自分に向き合って、その残された大きな知恵に自分が
 どう向きあい、なにを感じるのか、というのを
 見ていかなくてはいけない、と一人納得しました。
 

欲求

 内側を出していく時に邪魔になるのが
 「つい」外側が動いてしまう事。
 
 何かをしようとすると、外側は「ぱっ」と動きます。
 外側を意識だとすると、内側は欲求?
 そんな事を考えています。
 
 歩くという事。
 普通は誰にでもできます。
 普通に出来る、これ外側かなぁ。
 
 でも「歩けない人」が「歩こうとする」。
 外側は動かない、でも歩きたいという強い欲求があれば・・・
 たぶん僕はココロを動かされる。
 
 内側には人を感動させる力がある気がする。
 分からないけど・・・。
 

現実をみる

 「現実」という言葉がありますが、
 なにが「本当の」現実なのかはわかりません。
 
 先日M先生よりうかがった「マトリックス」の話。
 私たちはみんなシステムの中にいるのでは?
 という問いかけです。
 
 今見ているもの、聞いているもの、
 それは全て目や耳という感覚器を通して
 脳で処理をされているといいます。
 正確さを求めるのならその時点で現実から
 一つ処理を加えていますよね。
 
 今自分の内側に「元気」というモノが見えてきました。
 それを通して人をみると、目や耳から入るものよりも
 「先に」元気さが気になってきます。
 
 自分がすごいと思えるような「元気」を持っている人は
 やはりかっこよく、一緒にいたい気持ちにさせてくれます。
 逆に元気を出せない人(決してないわけではありませんよ^^)
 に対しては、なんとか気づかせてあげられないだろうか・・・
 と考えてしまいます。
 
 そう考えようというよりも先に、そう思っちゃうのですから、
 これも自分の中にできた物差しなのかなぁ・・・。
 
 まぁこう「経済性のない」事をのんびりと考えられるのは
 ココロに余裕というか、遊びがあるからで、
 その余裕がなくなれば考える暇すらなくなります。
 
 心を亡くして「忙しい」だなんて、よく出来ているなぁ、
 なんて事を考えちゃったりして^^
 
 今日はこれから「操体法」のお稽古。
 形と感覚は少しずつ分かってきたような気がしますが、
 まだまだ足りません。
 今手がかりにしているは自分の内面と相手の内面を
 あわせて考えられないかどうか、という事。
 自分が気にしているところを相手も気にしてくれれば
 また違った働きが生まれるのでは・・・と
 勝手に練習しています。すいません、先生。

幼稚園児

 昨日この何年かぜひともあってお話を伺いたいと思っていた
 M先生と食事をする機会に恵まれました。
 
 そこで分かったのは自分が幼稚園児程度なのだなぁ・・・
 という事。
 
 話は時間、存在、認識・・・など多岐にわたり、
 「問いをどう立てるか」という事の大切さを感じさせてもらいました。
 
 自分がようやく見えてきているのは「元気」の尻尾程度なんだなぁ・・・と。
 
 ただ同時にこの分からない世界、先生を通して先にみえそうな世界を
 楽しみにしている自分がいた事もわかり、ほっとしていたりします。