心と体

回り道

 これまで様々な稽古法を提案してきました。
 相手の力を手首、肘、肩、背中、腰、お尻、
 カカト、つま先、膝、お腹と流して
 丹田に「流して」いく稽古はずいぶんやりましたね。
 
 今思うとこれって、外側の力ばかりですね(笑)
 今いらない、と言っている外側の力を
 一生懸命に練習して損をした・・・
 そう思われるかもしれません。

 無駄に思えたこの稽古も、
 見方を変えると多少は意味もあったかなぁと思っています。
 
 外側を「上手」に意識して使ってきたことで、
 今度はでしゃばらずに
 「上手」に「止まっていて」欲しい訳です。
 
 意識して力を入れられないところは
 逆に考えると意識して力を抜く事が出来ない場所ですから。
 
 後からみれば回り道に見えたことも自分がそれだけ
 「経験」しているわけです。
 「経験」した分、「苦労」した分、
 何かを見つけたときの喜びは大きいですよね!

カリスマ?

 しっかり腕を伸ばして手を上げる事が必要・・・
 と言いました。
 
 でもこういう人もいると思いませんか?
 重苦しい会議の席で、どっしりとすわり、
 おもむろにゆっくりと手を顔の前に上げ、
 
 「ちょっといいかな?」
 
 と雰囲気を作るカリスマ社長。
 映画や小説の見すぎでしょうか(笑)
 
 内側から出てくる迫力、
 オーラというものは間違いなくあるはずです。
 場の雰囲気を一変させるような力を持っている人はいますから。
 
 この時の力は「元気」というよりも
 「真剣」
 という事だと思いますが、
 「エネルギー」として考えてみれば同じようなものだと思います。

 だれでもすぐにこんな事が出来るわけでは有りません。
 やはり外側のカラダを休ませておきながら
 内側の力を働かせられるのが能力ですね。
 
 一気にこのレベルを求めるのではなく、
 一つ一つ納得しながら見ていくと、
 無理ではないという事ぐらいは分かってきそうです。

 学校(今は会社に入ってもですが)で身につけるべきは
 知識ではなく、
 この人としての「元気」では無いかと強く思います。
 
 まずは外側の力をしっかりと使い、
 内側の力をだす下地を作ります。
 外側を使い切って、アタマがあきらめてくれる事で
 それまで意識の出来なかった内側が働いてくるのです。

 大切なのは「内側と外側の境」を作る事です。
 これまでは内側も外側も何もありませんでした。
 なにもなければ使いこなす事はできません。
 
 「分ける」事で言葉を作り、意識をしていきます。
 そしてこの境を徐々に動かしていく、
 自分の中の当たり前を変えていくことが今の稽古の目安になっています。

粘り強い力を実感する

 さてこの内側の力ですが、外側の力と比べてみる事で
 質の違いを感じられると思います。
 するするとした外側の力に比べ、
 内側の力はとても粘り強く、
 どこまでも出てきてくれそうな力です。

 手を上げる、という話をしました。
 小さな子供たちをみていると分かると思いますが、
 本当にココロのそこから選ばれる事を望んでいれば、
 自然とカラダが伸び上がり、
 ぴょんぴょんと弾んでしまうほどの勢いが出てきます。
 
 大切なものをタンスの隙間に落としてしまったとき、
 無理と分かっていても手を伸ばさずにはいられませんよね、
 カラダが「つって」しまうほど無理をして
 手を伸ばした経験ありませんか?
 
 そういう内側の力が私たちにはあるはずなんです。

 ただいつのまにかその「見えない」内側の力は忘れてしまいます。
 使いこなせないまま、忘れてしまうんですね。
 何とかしなくてはいけません。
 強く生きるため、楽しく生きるための大切なものなのですから。

 内側の力を簡単に発揮するのには条件があります。
 まずは外側を使い切ることです。
 想像してください、
 手をしっかり伸ばさず、そっと出します。
 そして「元気」だけはたっぷりと出してみてください・・・。
 出ないですよねぇ、これでは。
 
 しっかりと腕を伸ばし、カラダ全体で上へ上へと行くからこそ、
 元気も一緒に出て行くわけです。
 
 話を聞く、解説を読むよりは体験するのが一番ですが、
 大切な事なので何とか伝えていきたいと思います。

内側の力は元気そのもの

 「元気」というあいまいなものだからこそ、
 そこに人を見る目が必要なるのでは無いでしょうか。
 
 朝の朝礼もそうですね、ただ立っているだけではダメでした。
 ただ立っていればそれを注意してくれた先生は必ずいたはずです。
 だんだんと求められるレベルが落ちていき、
 まぁ邪魔をせずにいてくれればいい、
 となってしまったのであればとても残念です。

 ただこんな事を思うようになったのもこの数週間の間です。
 もちろん色々と考えてはいましたが、
 具体的にどこが問題で、どう解決をしていけば良いのか、
 自分の中に答えはありませんでしたから、
 強くそれを考える事が無かったのですね。

 内側の力に気づき、
 生きていくうえで必要な事はこの力だ・・・
 と強く思うようになりました。
 
 カラダを通してこの力を感じると
 「内側の力」という言葉になりますが、
 これは「元気」そのものです。
 
 「元気」を出せる人、いつも出している人っていますよね、
 そういう人であればそのままでいいでしょう。
 「元気」なのですから。
 
 でもアタマで元気でありたい、
 と思っても出ないときもあります。
 特に年を重ねていけば病気や怪我も出てきますしね。
 
 アタマで考えても元気が出せないのなら、
 すこしカラダに助けてもらいませんか?
 カラダを通して「元気」を感じて、
 カラダを運転してこの「元気」を出していきましょうね。
 
 これからもう少し具体的にお話をしていきますので、
 もう少しお付き合いください。

手を上げる事を教える

 先日授業参観に行ってきたいうお話しをしましたね。
 まぁそれなりに元気もよく、楽しそうに授業を受けていました。
 そこで気になったのが、子供たちの姿勢と手の上げ方です。
 
 先生が質問します。
 それに対して子供たちは「ハイッ」と手を上げます。
 まぁよくある光景ですね。

 子どもの頃はどうだったかなぁ・・・と思い返してみると
 もう少し「厳しかった」ような気がしてきました。
 手を上げる「形」はしっかりと耳につけて
 真上へ伸ばすようにと言われなかっただろうか・・・。

 数年前に「学級崩壊」が話題になりましたね。
 今それが落ち着いてきたのか、あまり耳にする事もなくなりました。
 私の場合はイメージの中だけの学級崩壊ですが、
 先生の言葉も聞かずに自分勝手に行動をし続ける子供たちがいたとすると、
 多少形は悪くてもおとなしく話を聞いてもらえ、
 手を上げるという事で返してくれるならばそれでいい、
 という風になったのかもしれません。

 でもここに大きな落とし穴があるように思えてきました。

 手を上げるという事はなにを求めている事でしょうか?
 「質問に私は答えますよ」
 という合図なのでしょうか?
 
 学校での役割が
 「知識だけを教えていく事」
 ならばそれでも良いかもしれません。
 でも違いますよね。
 
 知識だけが必要ならば、
 大人になって使わない、複雑な数式なんかはいりません。
 もっと生きるうえでの必要な何かを教えていく事が
 求められているはずです。特に小学生のうちは・・・。

 手を上げる動作、形はまっすぐ真上にピンッと伸ばして上げます。
 さてしっかり伸ばしたこの「形」、
 私たちの頃はそれで褒められたでしょうか?
 なにか足らない気がします。
 
 ただ形だけを整えてあげただけでは
 「人を見る目を持っていた先生」からは「元気が無い」と
 言われていたと思います。
 今の一年生は「元気よく」と言われないのかなぁ?
 
 そして中学生や高校生、大人になったら「元気」はいらないの?と思いませんか?